112話
五月上旬の連休シーズンも終わり、月曜日。
しばらく祝日は無いので、平常運行となる。
だが野球部には平日、休日関係なく、日々練習をこなす。
夕暮れ、本日も練習を終えてグラウンド整備を終えた。
最近は暗くなっても練習することが減った。単に夏が近づき日が落ちる時間が伸びたというのもあるし、今はひたすら練習する期間というよりは、次の大会に向けて調子を高め、細かな技術面の向上に重きをおいているから、練習時間を増やす必要がないのかもしれない。
冬はサッカー部やテニス部が帰っても練習を続けていたのに、ここ最近はサッカー部やテニス部と同じ時間帯に終わる。と言ってもこの二つに比べれば練習量も質も段違いだがな。マジ佐和ちゃん悪魔だわ。
グラウンド整備を終え、選手たちが部室に帰っていく中で、俺と哲也は水道場へと向かう。
「そういえば英雄、フォークどうする?」
水道場で手を洗っていると、隣の蛇口を使ってタオルを濡らしていた哲也が聞いてきた。
どうする? とは、次の大会である中国地方大会から使っていくかどうかの質問。
フォークの習得度合いは今のところ70%ぐらいか。いや、もうちょい上だろうか。だいぶ制球力もつき、球威もだいぶついた。だがしかし、まだまだストレートを投げる時のフォームとの差異が目立つ。
いい加減実戦で使いたい感はあるが、どうせ使うなら、当初の予定通り夏の大会のほうが良いかな。
「もう少し様子を見よう。夏までに間に合わせれば良いんだし」
「そう。英雄がそうするなら、僕は何も言わないよ」
という事で、哲也と駄弁りながら手など土で汚れた箇所を洗う。
「あれ? 千春ちゃん?」
そうして洗い終えて、蛇口を閉めたところで哲也の声が耳に入り、一度彼へと視線を向けてから、哲也の視線が向く方向へと向けた。
そこには体育館裏へと向かう千春の姿。その後ろには…須田?
「須田と千春ちゃんって珍しい組み合わせだね」
哲也はきょとんとしているが、大体察しがついた。
「ちょっと盗み見ようぜ」
「だけど、大事な話とかだったらどうするの?」
「大丈夫大丈夫。むしろ須田に千春が襲われないか不安だ」
根も葉もない事を口にした。
まず須田は千春を襲わない。須田が出来た性格をしているからとか、千春に女としての魅力がないからとか、そういう理由ではなく、単純に須田は女性に興味がない。
なので、千春が襲われることはないだろう。
こうして哲也の制止を無視しつつ、二人の後をつけた。
体育館裏、学校の敷地と外を隔てる金網のフェンスと体育館に挟まれたここは、普段人が来ない。
おかげでだいぶ雑草が伸び始め、あとひと月ふた月したら芝刈り機で刈らないと歩けないぐらい雑草が生い茂るだろう。
そんな場所で千春と須田は対面していた。
角から、哲也と俺はひょこっと顔を出して、二人の様子をうかがう。千春の背中の向こうに須田の姿がある。
二人から少し距離があるここからでは、二人の声は上手く聞き取れない。
その上、千春はこちら側に背を向けている為、表情すらも確認できない。だが、ここでなにが起きるのかは予測できた。
しばらくして千春が大きく頭を下げた。
視力2.0を誇る俺の目には、須田が困ったように表情を歪めているのを確認した。
しばらくして須田は大きく首を左右に振るい、逆に深く頭を下げて、くるりと反転して立ち去っていく。
一人残った千春は、しばらく頭を下げたまま動かなかった。
「英雄、これって」
やっと察した哲也は小声で聞いてきた。
「哲也、帰ろう」
「え、でも」
千春の頑張りを見届けた俺は、立ち止まろうとする哲也の肩を一度軽く叩いてから、その場を後にする。
後ろからは哲也が慌ててついてくる気配を感じた。
「英雄、千春ちゃんフラレたんだよ? なんか声をかけないの?」
「馬鹿かお前は。俺らは盗み見てたんだぞ? そんな奴らが励ましても、千春は嬉しくねーだろ。第一…」
後ろを歩く哲也を一瞥してから、俺は視線を前へと戻す。
「フラれて早々、お兄ちゃん会いたくねぇだろ」
という事で、今日見たことは忘れよう。
夜、夕飯の食卓。
残業の父上、部活で帰りの遅い兄上、そして千春の姿も無かった。
千春は家に帰ったあと、ずっと自室に引きこもったままだ。
母上の呼び声にも応答せず、恵那の誘いも無視した。
「英雄、千春に何かあったか知ってる?」
夕飯の食卓で母上が聞いてきた。
「分からん。でもそういう日はあるさ、そういうものさ」
適当に母の質問を流して、俺は味噌汁をすする。
そうして、本日のおかずである唐揚げを食べる。
「それより母上、この唐揚げ絶品でござるな」
「…英雄、あんたなんか知ってるでしょ」
母上の鋭い眼光が俺の心情を見抜いた。
さすが、この人には嘘をつけないな。
「英兄、なんか知ってるの?」
恵那も不安そうに聞いてくる。
姉が元気ないと自分まで元気なくなっちゃうのか。本当家族思いだな恵那は、良い子だ。
「…まぁ一応知ってるけど、これは本人がいない所で話すことじゃないから」
「なら、英雄。あんたが千春を励ましなさい」
「はぁ?」
何を言ってるんだ母上。
「いや、こういう時は放っておこうぜ母上」
断る一番の理由は面倒くさい。
なんで妹の失恋に関わって励まさなきゃいけないんだ。
大体、千春は勝算があって告白したのだろうか? いや、勝算はないだろう。
だって須田と接点の多い同学年の女子生徒ですら須田にフラれているのに、一つ下で同じ部活とかでもない千春が付き合える道理はない。
「千春は、あんたに一番心開いてるんだから、あんたが一番適任です。分かった?」
いや、あいつ俺に心開いてないだろう。
面倒くせぇ。何故に妹の相手をしなきゃいけないんだ。
こういう時は放っておいて自己解決させるのが一番だと思うんだけど。
かと言って、元気ない理由をしゃべるのもアレだ。千春が意中の男子生徒にフラれたなんて話は、本人がいない所で話すべき内容じゃないしな。
「英兄、私からもお願い」
恵那がうるんだ瞳で頼んでくる。その目は卑怯だぞ恵那。男の子は女の子の涙に弱いものなんだからな?
うーん、面倒だがやるしかないのか。
「…分かった。飯食ったら行くよ」
「ありがとう英兄!」
「ありがとう英雄。頼んだわよ」
母上と恵那が表情を緩ませた。
やれやれと溜息をついてから、俺は茶碗に残った白米を口へとかき込んだ。
食後、俺は千春の部屋の前へとやってきた。
ドアにかけられた「ちはる」と書かれたプレートをジッと見つめ、一度溜息をついてから、二度ほどノックした。
当然、返答はない。
「千春、俺だ。愛しのお兄ちゃんだ」
一応声をかけてみる。返答はない。
鍵かけてるのだろうか?
ドアノブを回す。鍵がかかっていなかった。普通に入れた。
なんだよ。普通に入れるなら、母上が引っ張り出せよな。なんで俺に頼むんだよクソ。
「千春、入るぞ」
という事で、一つ確認を取って千春の部屋へと入室した。
室内は電気がつけられておらず真っ暗。開けたドアから入る廊下の明かりが室内を照らすが、千春の影はない。
ドアすぐの壁につけられたスイッチを手探りで探し出し、オフからオンへと切り替える。
途端パッと点った室内のライト。正面、窓際のベッドの上で、壁にもたれかかり、枕をかかえながら体育座りする千春の姿が目に入った。
「…なに」
ギロッと睨みつけてくる千春。
目元は赤いし、声のトーンも低い。こいつ、泣いたあとだな。
「いや、母上殿と恵那が心配してからな。様子見に来た」
理由を語りながら、俺はそばの回転椅子へ腰掛ける。
「一体どうしたんだ?」
「…あんたには関係ないし」
俺が優しく問いかけると、相変わらずトゲのある発言。
母上、あなた本当に人を見る目無いっすよね。なんで千春は俺にだけ心開いてるみたいな発言をしたんだあの人。この態度、どう見ても心開いてないだろう。
「恵那も心配してし、あの母上ですら心配してるんだからな? 元気出せって」
「…うるさい」
マジで俺に心開いてるって、どこから出たんだ母上。
千春は枕を抱きしめ、俺から視線を逸らしている。とはいえ、励まさないとなぁ。恵那も心配してるし。
「そう落ち込むなって、須田一人にフラれた所で男は星の数だけいるんだ! またすぐ良い男見つかるって! …あっ!」
とにかく励まそうとして、そんなフラれた後の励まし言葉の定番中の定番を口にした所で、俺は口を抑えた。
やべぇ、本来告白現場にいないはずの俺が、ここでこんな励まし方したら、盗み見てたのバレるやんけ!!
案の定、千春はピクリと反応し、ギロリと睨んできた。
「お兄ちゃん、もしかして…見てた?」
そうして怒った声で問う千春。
「あはは…」
乾いた笑い声でごまかそうとするが、千春はずっと俺を睨みつけてくる。
もう言い逃れできない。観念した。
深くため息をついて口を開く。
「悪かった。現場を見てたよ」
「…そっか」
普段なら激怒する千春だが、今日はしおらしい態度を取る。
拍子抜けだ。てっきり今抱きしめてる枕を投げつけられるものだと思っていた。
「ってか何故須田に告白したし、お前あいつと話した事もないだろう。どう考えれば、告白すれば付き合えると思うんだよ」
「別に、付き合えるとは思ってなかったし、フラれる覚悟だったもん…。ただ、別の恋に移る前に思いだけは伝えたかったの…お兄ちゃんには分からないだろうけど」
なるほど、そういう事か。
やらないで後悔するより、やって後悔したい派か。
確かに一つの恋を終わらせるという意味では、勝算のない告白をするのは一つの手ではあるか。
「お兄ちゃん、須田先輩さ、好きな人いるんだって」
「…ほぉ」
俯き、ポツリとポツリと呟く千春。
一方の俺は表情を無表情に変えた。
「あんな格好良くて、スポーツ万能で、頭も良くて、性格も良い須田先輩に好かれてるって、一体どんな人なの…」
悔しげに呟く千春。
多分須田の好きな人、今お前の目の前にいる人だと思う。
「やっぱり鵡川先輩なのかな。じゃないと須田先輩と釣り合わないよね…」
ブツブツと独り言のように呟く千春。
多分須田の好きな人、お前のお兄ちゃんだと思う。
「お兄ちゃん、須田先輩と三年間同じクラスだったよね? 須田先輩の好きな人とか知らない?」
千春がキッと俺を見つめ聞いてくる。
どうしよう。ここで「須田は俺のことが好きらしいぞ」って言ってしまおうか。いや、絶対に千春は信じないし、逆に俺が同性愛者と勘違いされてしまいそうだ。
…さすがに言えないな。
「悪い。須田とは三年間同じクラスだが、恋愛話するほど仲良くないしな」
「…そっか」
そういって再び俯く千春。
なんだよこれ、なんで兄妹でドロドロした三角関係にならなきゃいけないんだよ。おかしいだろうがこんなの。
「とにかく、落ち込むのは構わないが、早く立ち直れよ。恵那とか母が心配してるんだからな」
一応、千春に声をかけて、俺は彼女の部屋を後にした。
なんにせよ、早く立ち直って欲しい。千春が元気ないと俺まで元気がなくなってしまうしな。




