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E1-エスぺリオ・オリジェン-  作者: 心音
3章 愛情
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8話 暗莉

 アリスはその場から逃げるように走り去った。その去り際に一瞬見えた顔が泣いているように見えて、俺はあろうことか暗莉を置いてアリスを追いかけてしまった。


「ねえ? デリカシーないでしょう?」


 記憶の波から解放され、再び暗莉の魔法による暗い世界に戻ってきた。暗莉はくすくすと笑っている。ならどうすれば良いんだと言い返したいところだが、俺は口を堅く閉ざした。


「この後のことは知ってるのか?」


「いいえ、まだ見てないわ。何せこの先はアンタの記憶にしかないんだから」


「ならもう一つ教えてくれ。お前はどうしたいんだ」


 暗莉は口に手を当てて、悩むような素ぶりをするが、どう見ても悩んではいない。


「アンタはもう知っているでしょう? というか、そろそろ疲れたからこの空間閉じるわよ」


 俺の返事を待たぬ間に暗莉は能力を解き、俺は暗莉宅の前に投げ出された。


「あら、おかえりなさい新谷くん」


「お前は気楽そうだな、くるみ」


 くるみは暗莉宅の柵に寄りかかって座り込み、暢気にペットボトルのお茶を飲んでいた。暗莉が攻撃的な魔法を使わないことが分かったからだろうが、雰囲気も何もなかった。


「それでどうなの? うまくいきそう?」


「分からない。あとは賭けだ」


 暗莉は俺を待つようにその場を動かない。それはきっと、本当に待っているのだ。暗莉の魔法には、確かな暗莉の意思が働いている。だとすれば、まだ救うことはできるはずだ。


 俺は走り近づき、暗莉を包む闇に手を入れた。そして、確かな感触を得たところでそれを掴み、力の限り引き抜いた。


「…………」


 闇から分離した暗莉だが、彼女は何も話さない。恐らくまだ話せない。俺はそんな暗莉を壊さないように優しく抱き締めた。


「なあ暗莉、俺はお前を嫌ったわけじゃない。今でもお前は俺の家族のようなものだ」

「…………」


「だけどな、俺は今になって分かったよ。お前はそれが嫌だったんだよな」

「…………」


 暗莉は動かない。胸に感じる暗莉の鼓動は弱々しく、今にも止まってしまいそうだった。


「……ほら、起きろ暗莉」


 俺は暗莉の頬をぺちぺちと叩くが、案の定反応はない。


 ふと思いついたのは、童話で見た一つの方法だった。


「暗莉、起きてくれ」


 俺は暗莉の唇に、自分の唇を重ねた。体温は低く、唇にひんやりとした感触が伝わる。目を閉じて、暗莉が帰ってくることを祈った。


「ん……ちょっと……長いんだけど」


 その祈りが届いたのか何なのか、暗莉は息苦しそうに俺を突き放した。


「暗莉……!!」


「何よ騒がしいわね……」


 暗莉は鬱陶しいような顔を向けながら、どこか嬉しそうにしていた。


「暗莉、もう大丈夫なのか?」


 そういった後で見ると、暗莉の背中にはまだ確かに鏡が蠢いていた。


「もう良いわ、私は満足したわ」


 暗莉はそう言うが、鏡が分離する気配はなかった。


「なるほど、心が満ち足りても元々の願いが叶わなかったら鏡は分離しないってことね」


 そう言うくるみは気配無く隣に立っていた。


「私の願いはアンタと結ばれることだから、この願いは……叶わないね」


 暗莉は何かを懐から取り出した。俺は全身から血の気が引くような恐怖に苛まれ、暗莉を止めようとした。しかし、間に合わなかった。


 暗莉は自らの喉を包丁で掻っ切ってしまった。


「アリスちゃんと、どうかお幸せにね」


 そんな一言と共に、暗莉はその場に倒れた。ひゅうひゅうと空気が気管から漏れる音がして、その顔からは見る見るうちに血の気が引いてゆく。


「暗莉っ、暗莉っ!!」


「ダメ、動脈まで切っちゃってる……このままじゃあ……」


 後ろから飛び出したテレスが暗莉の元に膝を着くと、その絹のような白い腕が、吹き出る鮮血を浴びて紅く染まってゆく。指先を傷口に当て、眩い光をその一点に集める。


「お願い……間に合って……」


 テレスが泣いていた。その透き通った虹彩から流れた一滴が頬を伝い、やがて暗莉の頬に落下した。


 そして、暗莉の体から力が失われた。


「暗……莉……なあ……嘘だろ、嘘って言ってくれよ」


 俺は暗莉の体を揺さぶるが、何の反応も示さない。


「新谷くん……もう……」


 くるみが目を背けながら呟く。


 無慈悲にも、鏡は暗莉の体から離れ、それに触れたテレスの元へと帰ってゆく。


「暗莉……なあ、お前はそんな……」


「お兄ちゃん、暗莉さんはもう……だから……」


 暗莉の鏡によって精神がどこまで完成したのか、テレスが俺の背を撫でながら諭している。


「やれやれ、君には失望したよ」


 そんな冷たくも馴染のある声がして、俺はそいつを目にした。


「君が決めたことだろう。暗莉君ではなく、アリス君を選ぶのだと」


 長身で、細見ながらも芯の通った体躯の、才色兼備の青年--安恒凛人--その人を。

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