7話 記憶
暗莉の魔法はどんな効果なのか、それは事前に分かっていた。確証こそなかれど、それを疑うことはなかった。くるみが倒れ込んだ俺の隣に駆け寄るが、それを無視してもう一度闇に触れた。
闇の中はひんやりと冴え返り、風のない無機質な空気は、あの日の空気とよく似ていた。
七年前の秋めいたあの日、アリスは新谷愛鈴として我が家にやってきた。まだ幼かった俺は何の事情で何が起こったのか分からず、ただ家族が増えるということに喜びを感じていた。しかしそんな俺と対照的に、アリスは何かに怯えるように俺から距離を置いていた。
何故か朝の挨拶だけは欠かなかったが、それ以外で言葉を交わすことは滅多になかった。目が合うと、怖がるような照れるような、よく分からない微妙な表情をされるもので、俺はどうして良いか分からずにいた。
そんなアリスと数週間も過ごした頃の夜、アリスは俺の部屋にやってきた。一体何事かと肝を冷やしたものだが、アリスの抱えていた枕を見た途端、そんな気持ちは消え、ただただ落ち着いた感情だけが残った。
「一緒に寝てほしいの……お兄ちゃん」
そして、その一言で俺はアリスの兄になった。アリスは誕生日の上では俺よりも年上だったが、その幼い容姿は姉と呼ぶには似つかわしくなく、そっと抱き締めた感覚はガラス細工のように繊細だった。
アリスは泣いていた。俺の腕の中でただただ肩を震わせ、声はことごとく嗚咽に変わり、やがて落ち着いた頃、窓の外は星月夜となっていた。
その後、夜が更けるまでお互いの身の上を語り合った。アリスはとある国で育った俺の従妹らしく、その両親はその国内でも有名な研究者だったらしいが、原因不明の突然死という形で最期を迎えた。そして一人残されたアリスは俺の両親に引き取られたということだ。
「それで、いつまで回想に浸ってるのかな」
ふと、現実に戻される。目の前に立つアリスは暗莉の魔法によって作り出された幻想だ。
「お前とも色々あったよな。暗莉」
目の前のアリスは姿を崩し、粘土のように形状を変えて再び人の形を模した。
「色々って……まあそうね。アンタが九割方悪いんだけど」
「お前らしいな。実質お前に九割だろうに」
目の前に立つ暗莉はくすくすと笑っている。こんな笑顔を最後に見たのは、随分昔だろう。とは言っても、つい一年ほど前のことではあるが。
多分、目の前にいるこの暗莉はまだ楽しく過ごせていた頃の暗莉だ。
「なあ暗莉、俺は間違ってたのか?」
「そんなことないわよ。まあ、少しデリカシーに欠けてはいたんじゃない?」
「デリカシーなあ、あまりよく分からないが」
そう言うと、暗莉はにっこりと笑って両手を広げた。
「なら見てみる? あのときのアンタを」
暗莉は俺の返答を待つ気もないようで、広げた両手に何か瘴気のようなものを集めている。
「まさかとは思うがその魔法……」
「お察しの通り、記憶を扱うだけよ。悪用すれば記憶の改竄なんかもできそうだけど、それは御免よ」
瘴気のようなそれは俺達を包み込むほどに膨張し、俺は昔の夢を見るように目を閉じた。
話は一年前に遡る。それは突然の出来事で、俺の脳は処理能力の限界を感じ、機能を停止しようとしていた。暗莉が俺のことを好きだと言い出したのだ。春のよく晴れた日の放課後のことだった。
「ごめん、無理だ」
このときの俺は、その窮屈な脳で簡潔な言葉を搾り出した。
「どうして……」
暗莉は俯きがちに尋ねる。暗莉は幼馴染であって、子供の頃から一緒に過ごしてきた、言わば家族に近い存在だった。しかしこの頃の俺は、それを上手く言葉にすることができなかった。
それは多分、その理由があくまで第二の理由に過ぎなかったからであろう。
「どうしても無理なんだ」
「……好きな人でもいるの?」
暗莉は目尻に涙を浮かべながらも、それを流すことはなかった。
「そうかもしれない」
「誰なの」
俺の心は決まっていたのかもしれない。脳では理解こそしていなかったものの、口を滑らせるようにこぼれた言葉は、紛れもない本心だったろう。
「俺は……アリスが好きだ」
だからこそ、その一言を発した後に俺自身が目を丸めてしまった。
「え……?」
背後から誰かの霞んだ声がしたそのとき、ここが教室であることを思い出した。放課後の教室となれば、運悪く誰かが忘れ物を取りに来ることもあるだろう。
それが、偶然その本人。アリスであることも。




