3話 病気
「よこせ!! お前が持ってるんだろ、オレによこせよ!!」
少年は私の布団を力いっぱい叩きますが、その力は本当に弱弱しく、ただ布団が柔らかい音と共にシーツに馴染んだ柔軟剤の香りが広がるだけでした。
「落ち着いて、ねえ……落ち着きましょう?」
「これが落ち着いていられるかよ。だってオレ、このままじゃ死んじゃうんだぞ……」
少年は嗚咽を吐きながら、床に膝を着きます。
少年の体躯は非常に華奢で、抱き締めたら折れてしまうのではないかというくらいに非力で、その腕にはいくつもの点滴をこなしてきた痕が見受けられます。きっと、長い闘病生活なのでしょう。
ようやく少年が落ち着いた頃には、私たちは朝食を摂り終え、深い朝の日差しが花瓶に乱反射していました。
少年の名前は千咲彩人くん。私の部屋からほんの三つ隣の特別経過観察患者のための大部屋、通称特観と呼ばれる部屋に入院しているそうです。
「オレ、筋ジストロフィーっていう病気なんだ。全身の筋肉が少しずつ弱って、いつかは死んでしまう病気なんだって言われた。病気の進行は通常より遅いって言ってたけど、少し走ったら疲れちゃうこんな体じゃあ、早く鏡を集めないともう……鏡を集めることもできない体になる前に……」
「なるほど、事情は分かりました。でも、どうして私が鏡の持ち主だって分かったの?」
「それは……なんでだろう。姉ちゃんが持ってるって、何故か分かってたんだ」
「なるほど……少し待っててね」
そう言い残して病室の扉を開きます。
「待って、どこに行くんだよ!」
「トイレよトイレ。そういうものは聞くものじゃありません」
扉を閉める瞬間、少年のやや赤くなった表情に微笑ましさを感じました。
トイレに行くと言いましたがあれは嘘です。私はできるだけ早く事を済ませるべく、駆け足気味に一階フロントのナースステーションに向かいます。途中で数人の看護士さんが訝しげな眼で私を捉えましたが、一人も声を掛けてこなかったことが幸いでした。
「すみません、315番ベッドでお世話になっている新谷愛鈴と申します。特観の千咲彩人くんの病気について、教えてはくれませんか」
「ごめんね、そういうのはプライバシーの関係で教えられないのよ」
「そこをどうにかお願いしますと言っているんです」
看護士さんは困ったように他の看護士さんと目を合わせます。
「今、新谷と名乗ったかい」
低い声と共にナースステーションの奥から姿を見せたのは、四十代半ばくらいの無精髭の濃い男性でした。どこかで見た覚えがあるような気がしつつも、私は思い当たる節を見つけられませんでした。
「私は安恒というただの医者だ。こんなところで話すもの申し訳ない、奥で話をしよう」
彼は私の手を半ば強引に引いて奥の奥、レントゲン室やCT室を抜けて関係者以外立入禁止と書かれた黒く重い扉を開きます。
その中は冷たい空気がドーム状に丸まった天井を這うように流れていました。中心に椅子が二脚あり、壁には真空管のようなものがいくつか並び、その中は碧い液体に満たされています。
「君のことはよく知っている。君をここに連れてきた少女も可憐なものだったが、君はそれに増して美しい。その柔らかさを失っていない髪といい、発達途中の体躯、そしてその体に見合わないほどの優れた頭脳。本来なら君を解体して私のコレクションに加えてしまいたいところなんだが、今日のところは君には貸しを作っておこう」
やはりどこかで会ったことがあります。こんな気味の悪いことを言われても、恐怖などは一切感じず、ただ懐かしく、同時にどこか憎々しい感覚だけが残っているのです。
「千咲彩人……いや、被験体四十二番の子だね。結論から言おう。彼は病気でも何でもない。彼は私の研究、心が体に与える影響を調べるための道具だ」
「待ってください、そんなのって」
「ああ、犯罪だね。彼に人権があるのなら立派な犯罪だ。だけどね、彼の両親は被験体として彼を提供してくれたんだ。所詮人間なんて、金が絡めば子供の一人や二人--」
ガタン、と大きな音が部屋中で反響を繰り返します。
「帰るのかね」
倒した椅子をそのままに、私はカツカツと靴音を立てながらその部屋を後にします。
「もう話は十分聞きましたから」
「気を付けるが良い。彼に事実を伝えたらどうなるか--いや、君ならもう知っているか」
ドアを力いっぱい閉じました。
私は思い出しました。彼は安恒弘毅、私が敬愛する凛人さんのお父様であり、凛人さんが現在一人暮らしをしている原因であり、かつて私が最も嫌っていた人物です。




