4話 信頼
部屋に戻った私を、少年はぎこちない笑みで迎えました。きっと何も言わずに出て行っていたのなら「遅かったな」だとか「何してたんだ」とかいう言葉があったでしょうし、あのとき恥じらいを覚えさせたことが功を奏したようで、トイレに行くにしても遅すぎる帰りを何一つの違和感を残さずに遂げられました。
こんなこともあろうかと、児童心理学を学んでおいて正解でした。彼は恐らく思春期の中期段階。善悪の判断はできるが、その範疇に捉われない行動をしたがる歳で、それでいて新たな安寧を求めようとする歳。
ならば、私がすべきことは単純です。新たな道を示し、そこに安心感を与える。つまり、死ぬことから逃げようとしている彼を、死と向き合わせること。逃げずに病気と闘うことを教えること。それが虚実的な病気だとしても。
「ねえ彩人君、鏡を集めて何をするの?」
「決まってるよ……病気を治して外で遊ぶんだ」
いえ、路線変更です。彼にはもう少し単純な方法があるようです。
「なら、こうしましょう。私がその願いを叶えてあげる」
「姉ちゃんが鏡を集めるってのか? そんな弱そうな体で何ができるって--」
彼はそう言いかけて止めます。あることに気付いたようで、しかしそれを認めたくないのだと、口を一文字に閉ざしています。
「そう、君の方が弱いのよ。無理しないでお姉ちゃんを頼りなさい」
彼は何かを言いたくて、でもうまく言葉にできなくて口を鯉のようにパクパクと動かします。
「待って、でも……でも、もし鏡を集めれなかったら……」
「あら、私がいつ鏡を集めるなんて言ったかしら」
私は慣れない心理実験に、今にも深く息を吐いてしまいたいのですが、必死に余裕の表情を保ちます。ここで大切なのは私を信用させること。歳上だというアドバンテージこそあれど、初対面の彼に対しては容易なことではありません。
「鏡じゃなかったら、どうするって言うんだよ」
「あと十年」
「え……?」
「あと十年生き延びなさい。その頃には治療法が確立するわ。いえ、私が医師として確立させるわ」
「あと十年なんて、そんなの無理だ! その頃にはきっとオレも……」
これは賭けです。すべきことは全て終わりました。私はもう、彼の選択を信じるだけです。私は病室のドアを開き、彼に背を向けたまま話を続けます。
「選びなさい。私を信じて十年を待つか、その体を酷使してでも鏡を集めるのか」
そして、彼を残したまま廊下へ出ました。廊下の奥からは髪を撫でるような風が吹いています。そして同時に、病室の方から何かが消えたような感覚がしました。
私は人気のないエントランス端の椅子に座ると鈴を鳴らし、お兄ちゃんと交信します。
「もしもし、お兄ちゃん?」
『アリスか、どうした?』
「今からそっちの世界のこの病院に向かってほしいの」
『ああ、了解した』
それだけ言うと、再び鈴を鳴らして通信を終えます。もはやこなれたもので、意識して心に力を入れなくても鈴を鳴らせるようになりました。どうやらコツがあるようで、心臓から全身に送られる血液を感じながら、それの一番大きな流れに触れるような感じにすれば自然と心に力が入るのです。
今回もまた成功しましたが、正直何かがおかしいのです。まるで教科書の例文通りに鏡の持ち主が動くと言いますか、本来もう少し大変なはずなのです。
あれらの説得の大筋は教科書の通りですが、本来なら個人差や抱えた事情を加味して臨機応変な対応が必要なのです。
まあでも、成功は成功です。私は二人を鏡から解放したのです。それが良いことだったのか、悪いことだったのかはまだ分かりません。
立ち上がった私は大きく背伸びをしました。受け取った春風は街の喧騒を含んで、わずかに暖かいものでした。




