第六話 逃がしてやると言われたので、断りました
破滅まで、あと二十七日。
右へ曲がった馬車は、すぐに速度を落とした。
格子の向こうに、横向きに停まった荷車が見える。その陰に、弓を持った男が二人。
牢へ行く道じゃない。それだけははっきりした。
後ろの踏み台には、右へ曲がれと命じた男。向かいの若い兵は、左へ行くはずだと言ったきり、槍を抱えて黙っている。御者台からは、馬をなだめる声が聞こえた。
手錠は、まだついている。
後ろの扉で、鍵の回る音がした。
扉が開く。踏み台の男が、剣を片手にのぞき込んだ。
「降りろ、侯爵」
「どこへ?」
「どこへでもいい。手錠も切ってやる」
男が口の端を上げた。
「逃げた囚人を誰が追うかは、知らんがな」
荷車の陰で、弓の弦が小さく鳴った。
なるほど。降りれば「逃走中の囚人を射殺しました」で済む。書類まできれいにそろう。
だが、それで俺が死ぬとは限らない。
弓は二つ。影で一度受ければ、次の矢をつがえる前に路地へ入れる。踏み台の男を押しのけるにも、手錠を外す必要はない。
開いた扉の向こうに、路地の出口が見えた。屋根の切れ目から、日が差している。あそこまで走れば人通りがある。人に混じって城へ帰る道も、城へ寄らずに領都を出る道もある。
思わず、片足が前に出た。
牢へ行ったらいつ出られるか分からない。そもそも、俺がこの世界で生きていられるのは、原作どおりならあと二十七日だ。こんな馬車の中で一日も無駄にしたくない。
向かいで、若い兵が膝の上の槍を持ち直した。穂先は俺に向いていなかった。開いた扉へ向けようとして、手が震えている。
「私の指示書には、本当に左と……」
「ああ。俺も聞いた」
俺が外へ出たら、この兵は何と報告するだろう。俺が逃げた、と正直に言うしかない。
そうなれば、法廷で囁いていた連中が真っ先に喜ぶ。
やっぱり自白は芝居だった。セリスをかばうための嘘だった。今度こそ女騎士を捕まえろ。
判決が覆ったと聞いたとき、セリスはしばらく立ったまま動かなかった。リゼットが椅子を引いてやって、やっと座った。俺は、あの二人をまた立たせて何を言うつもりだ。
「侯爵。降りないのか」
片足を、座席の下へ戻した。
「断る」
男の笑いが止まった。
「……は?」
「さっき法廷で、逃げないって言ったばかりだ。書記にも聞こえてた」
「それがどうした」
「俺が逃げたら、今日の証言も『侯爵の芝居だった』ことになる。セリスの判決まで、また怪しくなるだろ」
男は剣を持ったまま、俺の顔をまじまじと見た。
普通は逃げるだろ、と顔に書いてある。
俺も、本当は逃げたい。
でも、降りない。
◇
「……なら、ここで死ね」
男が踏み込んだ。
「抵抗したので斬った」で報告は通る。狙いは、手錠ごと俺の腕だ。
剣が振り下ろされる。
両手を上げるより早く、足元の影を立ち上げた。
黒い腕が刃を受け止める。男の目が見開かれた。
「両手は塞がってるはずだ!」
「手は使ってない」
言ってから、少しかっこいいなと思った。
だが、浸っている暇はなかった。
格子の隙間から矢が飛んできた。
「伏せろ!」
影で若い兵の襟首をつかみ、床へ引き倒す。矢が背もたれに突き刺さり、もう一本が俺の頬をかすめた。
障壁を広げた。黒い幕が格子の内側を埋め、次の矢をはじく。
「手錠をしたまま、これだけの……」
床の上で、若い兵が呟いた。
「喋る暇があったら、頭を下げてくれ!」
男が扉の外へ後ずさった。
「次を撃て! 囚人は動けない!」
動けば、守る範囲が広がる。車内の兵と、御者台に突っ伏した御者を覆うだけで、いまは手一杯だ。
そのとき、後ろから蹄の音が近づいてきた。
「どけ!」
聞き覚えのある声だった。
馬が馬車の横をかすめる。鞍の上から、赤毛が跳んだ。
リゼットは踏み台へ着地した勢いのまま、男の胸に蹴りを入れた。
男は後ろへ吹き飛び、道の端まで転がっていく。
「牢は左のはずだ」
リゼットは剣を抜いたまま、馬車の中を見た。
「見回りの兵が右へ曲がるのを見てた。隊長が兵を連れて、すぐ来る」
「早いな」
「お前を迎えに行くと言っただろ」
言ってないぞ、とは言わなかった。セリスは確かにそう言っていた。
「弓は?」
「荷車の陰に二人。弦を引き直してる」
リゼットが荷車を見た。
「五歩で届く」
「三歩目で止める」
「……やってみろ」
リゼットが走った。
一歩。二歩。
俺は影を荷車の下に滑り込ませ、弓の端を絡め取る。
三歩目で、弓がぴたりと止まった。
四歩目。
五歩目で、リゼットの剣の柄が男の手を打った。もう一人が逃げようとして、足元の影に引き倒される。
あっという間だった。
◇
荷車の陰で、弓の男が座り込んでいた。
「手錠をつけたまま……こんなところで待ち伏せされるのまで、読んでたのか」
「読んでない」
「嘘だ。わざと捕まって、護送の道が変わるのを待ってたんだろ」
「待ってない。驚いてるのは、こっちだ」
誰も聞いていなかった。
道の端に転がっていた踏み台の男も、顔を上げて叫んだ。
「全部、計算ずくだったのか。この、化け物が……!」
頭の内側で、硬質な音が鳴る。
《新たな悪名が刻まれました――〈逮捕まで計算していた策士〉》
足元の影が一段濃くなり、通りの端まで伸びた。弓を落とした男が、空っぽの両手を上げた。
手錠だけは、頑として外れなかった。
◇
「閣下。逃げませんでしたね」
杖をついたセリスが、兵を連れて通りに入ってきた。
「大勢の前で言わされたからな」
「言わせたのは私だ」とリゼットが言った。「隊長の手柄にするな」
セリスが小さく笑った。それから馬車の前に立ち、俺を見た。
「処刑台で助けてくださって、ありがとうございました」
聞き返しそうになった。
出てきたら言う、と言っていたはずだ。俺は馬車から一歩も出ていない。
「……今でいいのか?」
「次に言うときは、また言いそびれそうですから」
セリスは笑わなかった。だから俺も、茶化さなかった。
「ああ。間に合ってよかった」
あの日は、何を答えればいいか分からなかった。今日は、それだけ言えた。
「で、こっちには?」
リゼットが腕を組んでいる。
「来てくれて助かった。ありがとう」
「……お前、急に素直になるなよ」
「注文が多いな!」
セリスが、声を出して笑った。
◇
駆けつけた兵が、道の端にいた男を起こした。
「囚人が抵抗したんだ」と、男は言った。「馬車の中を見ろ。あの闇が証拠だ」
影は、まだ車輪の下に残っている。兵の一人がそれを踏まないように回り込み、俺の手錠を確かめた。
「私は見ていました」
若い兵だった。矢が刺さった背もたれを指さす。
「扉を開けたのは、この男です。侯爵は逃げろと言われても降りませんでした。あの影がなければ、私はここで矢を受けていました」
「侯爵の目の前で、よく言うな。あとで何をされるか、怖いんだろう」
男が笑った。
若い兵は一度、俺のほうを見た。法廷で証言した見張りも、最初は俺を見た。目が合っただけで、周りは何かを言わせたと思った。
俺は口を閉じた。今度も、自分で続けられる人の話に口を挟む必要はない。
若い兵は道に降り、俺の見えないところまで歩いた。
「では、ここで言います。私が左へ行くと伝えた直後、この男は剣を抜きました。侯爵は手錠をつけたままで、私を矢からかばいました」
「私のことも書いてもらえますか」
御者が、御者台から降りてきた。手綱を握りしめていた指を、一本ずつ開いている。
「扉が開いたとき、私は矢を見て伏せました。次の矢は、私の背の上で黒い壁に止められた。逃げた人が、置いていく御者までかばいますか」
兵が矢を拾い、別の兵に渡した。
「二人とも名前を。別々に話を聞きます」
ようやく、男が口を閉じた。
俺が法廷で逃げないと言ったのを聞いたのは、書記と傍聴人だ。実際に逃げなかったのを見たのは、この二人だった。
セリスが俺の前に立ち、馬車の扉をそっと押し広げた。
「もう降りても大丈夫ですよ。私たちが見ています」
「さっきは降りろって言われたから残ったのにな」
「じゃあ、ずっとそこにいろ」とリゼット。
今度は迷わず、地面に足をついた。
◇
リゼットが、捕まった男の腰から抜いた紙を持ってきた。
「こいつの指示書だ」
セリスが受け取り、若い兵の紙と並べた。
「片方は左へ。もう片方は右へ」
「その紙、法廷が開く前にも見ました」と若い兵が言った。「裏口で、こいつが御者に地図を見せていたんです。右へ曲がるところに赤い線が引いてあった。私が持っていた紙には、そんな線はありません」
セリスが紙を開ききる。小さな地図が描いてあった。大通りから右へ折れる赤い線が、目の前の通りで途切れている。
俺が法廷で自白する前から、こいつらはここで待つつもりだったのか。
紙の下には、剣を横切る一本線の赤い印。軍法官が燃やそうとした指示書の裏にも、同じ印があった。
その隣に、見覚えのない封蝋がもう一つ重なっている。
セリスはそれを、指でそっとなぞった。
「……監察局の印」
「誰の?」
セリスは答えなかった。紙を丁寧にたたんで、革袋へしまう。
替えの馬車が来た。
手錠のまま手を振ると、御者が先に口を開いた。
「大通りを左です、侯爵」
「いいね。今日初めて、聞きたかった答えだ」
馬車は今度こそ、大通りを左へ曲がった。
牢へ向かっていると分かって、ほっとする日が来るとは思わなかった。




