第1話「破滅まで、あと三十日」
俺が殺されるまで、あと三十日。
冗談だと思いたかった。
けれど、鏡の中でこちらを睨み返す男の顔には、嫌というほど見覚えがあった。
漆黒の髪。血のように赤い瞳。整いすぎた顔立ちに、何もしなくても人を見下しているように見える眉。
「……レオンハルト・ヴァルグレイヴ」
その名を口にした途端、背筋が冷たくなった。
前世で遊んでいたRPG『黎明の誓剣』。その第二章に登場する、ヴァルグレイヴ侯爵家の若き当主。
王国中に悪名を轟かせる、最悪の悪役貴族だ。
私腹を肥やし、領民を飢えさせ、気に入らない相手を牢に放り込む。最後は女勇者アリアに討たれ、プレイヤーにすっきりした気分を提供するための男。
いわば、倒されるために存在する悪役である。
そして今、俺はその男の身体に入っていた。
「最悪だろ……」
机の上に置かれた羊皮紙が目に入った。
『暁の祭儀まで、三十日』
王国の紋章が押された式典の告示だ。
ゲームでは、祭儀で聖剣の力を解放した勇者がその日のうちにヴァルグレイヴの討伐戦に臨む。
つまり、この世界がゲームどおりに動くなら。
「あと三十日で、俺は死ぬ」
喉の奥がひどく乾いた。
前世でこのゲームを遊んでいたときは、レオンハルトが女勇者に倒される場面で、俺も「よくやった!」と喜んだものだ。
だが、いざ自分が倒される側になると話は違う。
生き延びたい。
せっかく別の人生を与えられたんだ。できれば穏やかに暮らしたい。できれば美味い飯を食べたい。そして何より、剣で真っ二つにされたくない。
そのために、まず何をするべきか。
原作の流れを変えることだ。
脳裏に、ゲーム序盤の小さなイベントが浮かんだ。
王国騎士団・第三中隊長、セリス・アルヴェインの処刑。
軍の不正を調べていた彼女は、上官に罪を着せられて殺される。主人公たちが真相を知る頃には、もう手遅れだった。
王国を救うはずの人材が、何もできないまま消える。
俺はあのイベントが嫌いだった。
しかも、確か処刑日は――。
扉を叩く音がした。
「閣下。領都の王国軍法廷より使者が参っております。本日午後、第三中隊長の刑が執行されるとのことです」
間に合う。
いや、間に合わせるしかない。
「馬を用意しろ」
「はっ。護衛は何名――」
「いらない。俺一人でいい」
「ですが、閣下。軍法廷は王国軍の管轄で――」
「知っている」
自分の領地だからといって、王国軍が下した刑を好き勝手に取り消せるわけじゃない。
だからこそ厄介なのだ。
この身体の前の持ち主は、ただでさえ王都に敵が多い。軍法廷へ口を出せば、それだけで反逆の口実になる。
だが、ここでセリスを見殺しにしたくなかった。
俺は黒いコートを掴み、廊下へ飛び出した。
◇
領都まで、馬で一時間。
石造りの城壁が見えた頃、広場にはすでに人だかりができていた。
王国軍の旗がはためく下、木製の処刑台が組まれている。
その中央に、長い銀髪の女騎士が膝をつかされていた。
整った顔に銀髪が乱れかかり、切れ長の銀灰色の瞳が処刑人をまっすぐ見据えている。すらりとした長身に、鍛えられた無駄のない体つき。
鎧は奪われ、白い囚人服の袖には乾いた血がにじんでいる。それでも背筋だけはまっすぐだった。
セリス・アルヴェイン。
原作ではほんの数枚の立ち絵しかなかった彼女が、今、目の前で生きている。
「第三中隊長セリス。王国の魔剣を盗み、国境の外へ売り渡した罪により、死刑に処す」
壇上の軍法官が判決文を読み上げる。
「異議はありますか」
「あります」
セリスは顔を上げた。
「盗まれた夜、私は部下と巡回していました。私が武器庫を開けたという証人を、ここに呼んでください」
「ヴァルグレイヴ侯爵の署名入りの証言書がある。以上だ」
「紙に名前を書けば、人を殺せるのですか」
広場がざわついた。
軍法官の顔が赤くなる。
「刑を執行しろ!」
まずい。
執行人が剣を持ち上げる。
「待て!」
声は出した。
だが、俺の姿を見た兵士たちは、止まるどころか顔を青くした。
「ヴァ、ヴァルグレイヴ卿……!」
「あの暴君が、なぜここに……」
……まずい。
どうやら、この男の評判は想像以上に悪いらしい。
「その女の処刑を止めろ。調べるべきことがある」
「こ、これは王命による刑です! いかに閣下といえど、口出しは――」
「責任は俺が取る。ひとまず剣を下ろせ」
「構わん、執行しろ!」
軍法官が叫んだ。
執行人の剣が振り下ろされる。
俺は考えるより早く右手を突き出していた。
足元の影が、音もなく立ち上がる。
黒い幕が処刑台を覆い、刃を受け止めた。
――闇魔法、《影の障壁》。
言葉を習った覚えはない。だが、身体は知っていた。
金属の悲鳴が響く。
執行人の剣が、障壁の表面でぴたりと止まった。
「な、なんだ、これは……!」
「刑を止めろと言ったはずだ」
踏み出した足に力が満ちる。
黒い魔力が腕を伝い、腰の剣へ流れ込んだ。
抜剣。
刃に絡みついた影を細く伸ばす。
一閃。
セリスの両手を縛っていた鉄の枷だけが、乾いた音を立てて砕けた。
彼女の肌には、傷一つついていない。
自分でも少し驚いた。
……なんだよ、この身体。
ゲームの中では勇者に倒される中ボスだったくせに、十分すぎるほど強いじゃないか。
「王国への反逆だ!」
衛兵の列から、火炎の魔法陣がいくつも浮かぶ。
赤い火球が飛来した。
俺は剣を返し、黒い障壁を扇状に広げる。
炎が闇に飲まれ、火の粉すら処刑台へ届かなかった。
続いて襲ってきた三人の騎士の足元へ影を走らせる。
足を取られた彼らは、その場に崩れ落ちた。
殺していない。骨も折っていないはずだ。
ただ、動けないだけ。
それなのに。
「ば、化け物だ……」
誰かが震える声でつぶやいた。
「軍の魔術師が、全員……」
「王命を踏みにじったぞ。あの男は、王国にすら逆らうつもりだ!」
兵士たちが次々と後ずさる。
そのときだった。
頭の内側で、硬質な音が鳴った。
視界の端に、黒い文字が浮かぶ。
『新たな悪名が刻まれました』
『悪名――〈王国の処刑を踏みにじる暴君〉』
『畏怖を確認。《悪名の王冠》が応えます』
「……は?」
胸の奥で、何かが弾けた。
さっきまで十分に満ちていたはずの魔力が、さらに膨れ上がる。
黒い影が足元から伸び、石畳に細かな亀裂を走らせた。
何もしていないのに、強くなった。
いや、違う。
俺は人を助けた。
その結果、恐れられた。
そして――恐れられたことが、力になった?
「な、なんだあれは! 王冠……黒い王冠が……!」
兵士の一人が俺の頭上を指さす。
見上げても、そこには何もない。
ただ、影だけが王冠の輪郭をかたどっていた。
……おいおい。
よりによって、悪名が強くなる条件だなんて。
「これ、絶対にまともな能力じゃないだろ……」
「閣下」
背後から、凛とした声がした。
振り向くと、枷を外されたセリスが俺を見つめていた。
礼を言われるかもしれない。
なんて、ほんの少しだけ思っていた。
しかし彼女が口にしたのは、予想とまるで違う言葉だった。
「なぜ、私を助けたのですか」
「それは……死んでほしくなかったからだ」
「では、一つお答えください」
銀の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。
「私が武器庫を開けるところを見た。そう証言したのは、あなたです」
「……俺が?」
「はい。私を処刑台に送ったのはあなたですよ」
切り落とした鎖が、俺と彼女の間に転がっている。
助けたら、せめて礼くらい言われると思っていた。
「なぜ今さら助けたんですか?」
あと三十日で女勇者に殺される。それどころか、今は目の前の女騎士にさえ、何を答えればいいか分からなかった。




