乃木佳乃子
「ただいま」
清光が玄関の戸を開けると、見慣れない女物の靴があった。奥の広間からは、楽しそうな女性二人の声がする。
静かに襖を開けると、花の香りがふくよかに広がった。
「――久しぶり、佳乃子ねえさん来てたんだ」
清光は、座敷の真ん中に坐している女性を真っすぐに見た。
「佳乃子ちゃん、忙しい中わざわざ入学式に来てくれたのよ」
二人をほほえましく見ながら、女性の対面に座る清光の母、志づ葉が言った。瓜実顔に白い肌で、笑うと目じりが上がって三日月のような弧を描いている。
二人もまた家に戻ったばかりのようで、志づ葉はよそ行きの着物のままだった。落ち着いた藤色の訪問着に、深緑色の帯だ。髪はぴっしりと夜会巻にしている。
三十畳はありそうな広い広間であり、襖で仕切られた先には奥座敷も広がっていた。合わせれば百畳以上にもなりそうだ。そんな広間の真ん中で女性二人きりが向かい合って正座をしているものだから、更に座敷は広々と見える。
「入学式お疲れさま。私、志づ葉ねえさんと後ろのほうで見てたのに。手を振っても全然こっち見てくれないんだから。数ヶ月会わないうちに、従姉妹の顔も忘れちゃったのかしら」
佳乃子はむくれ顔で清光を見ると、続けて清光に笑いかける。
「ね、清光くんは、今日は何を食べたい? 今その相談をしてたの」
大きなボタンがついた、前開きの白いワンピースを着こなしている。色素の薄い髪を耳隠しにして、後ろでまとめ上げていた。襟の大きな型で、なで肩の佳乃子によく似合っている。百貨店で働く佳乃子は、自分に似合う服をよくわかっていた。
「久しぶりに来てくれたんだから、佳乃子ねえさんの好きなものにしよう」
襖の前で正座をしたまま、清光は答えた。
「相変わらずだなあ、君の入学祝いなのに。早く入って、こっちに来てよ」
笑いながら、佳乃子は身体をずらして清光を誘う。志づ葉は相変わらずほほえみながら、座敷の端に重ねられた座布団を持って来て、目線で清光に薦めた。
広い座敷に、座布団が三つ巴に並べられる。
清光と佳乃子の顔立ちはどことなく似ていて、音羽家の血が感じられる。しかし、佳乃子には特別華やかさがあった。
派手な恰好をしているわけでも、濃い化粧をしているわけでもない。しかし大きな目や通った鼻筋、なで肩にたおやかな仕草。緑茶の入った湯呑を持つ手は白魚のようで、薄桃色の爪はきれいに整えられている。調和のとれた、女性らしさがあった。
「みんなは元気?」
「母さんたちなら相変わらずよ。私のことを放置して、夫婦二人で仲良くしてる」
現在佳乃子は一人暮らしをしているが、実家も近く頻繁に行き来はしている。
「うちと一緒みたいで、何よりだね」
清光の言を聞くと、今度は佳乃子がほほ笑んだ。
佳乃子の母親は、清光の父の次姉である。次姉は結婚後夫の転勤に伴って、全国各地を転々としていた。
しかしほどなくして夫の転勤先が音羽家の近くの都市に決まると、夫婦はしばらく音羽家で暮らした。数年後別の都市への転勤が決まった際は、一家ともども悲しんだ。
そんな佳乃子たち一家が音羽家を出る直前に、清光は生まれた。佳乃子は引っ越し後もしばらくは長期休みの度に音羽家を訪れ、清光を弟のように可愛がったものだった。
「あんなに小さかった清光くんが、もう高校生だなんてびっくり」
幼い日の清光を思い出しながら佳乃子が言うと、清光はそれに応えずじっと佳乃子の瞳を見つめた。
「……今日はどうしたの?」
久しぶりに会う従兄弟のまっすぐな視線は、自然と佳乃子を照れさせた。
「別にどうもしないわ。急に仕事のお休みがもらえたから、遊びに来たくなったの。そしたらちょうど君の入学式だった、ってわけ」
視線を逸らしてしまったことをごまかすように、残り少ないお茶を飲み干す。
「ふうん、そっか。今日は、もうすぐ帰っちゃうの?」
「実はね、数日まとまったお休みをもらったから、泊めてもらっちゃおうかなって。ゆっくりこちらの友達にも会いたかったし。ごめんね、突然押しかけて図々しくって」
たしかに佳乃子の横に置かれているボストンバッグは、日帰り旅行にしてはいささか大きすぎる。数日泊まる用意をしてきたのだろう。
「そっか。父さんはまたしばらく出張みたいだし、母さんの話し相手でもしてあげて。でも何も用意していなくて申し訳ないな。母さんが広間に案内したってことは、応接間が応接できる状態じゃないってことだろうし……」
「清光ったら。今朝あの百合を生けたばかりだったから、佳乃子ちゃんに見てもらおうと思っただけよ」
失礼ね、と言わんばかりに、志づ葉は床の間の立派な百合を指さした。
一輪は花開いて間もないようで、花びらの隙間から蕊が顔をのぞかせている。黒塗りの大きな花器には、大輪の白百合数輪のみが、空間を生かして生けられていた。
「でもごめんなさいね、香りが強いからお茶の席には良くなかったわ。居間に移動してもらえるかしら?」
――志づ葉の言にうながされるまま、清光と佳乃子は居間へ向かった。
音羽家の居間は、広間と打って変わって洋風だ。ペルシャ風の絨毯の上には円卓に猫脚の椅子が並んでいて、側のガラス棚には和洋取り混ぜた食器類が飾られている。
円卓と同色のテレビ台にテレビも置かれているが、音羽家ではほとんど出番はない。凝った織の布が上から被せられ、もはやインテリアと化している。
そしてその居間の扉を開けるやいなや、香ばしいバターの匂いが漂ってきた。
見れば卓上にアフタヌーンティーさながらの、立派な茶会の用意ができている。三段のケーキスタンドには、チョコレートにケーキ、スコーンにサンドイッチ。ポットからは湯気が立ち、紅茶の用意もできている。
「やだ、すごい! こんなに素敵なお茶席、いつの間に用意してくださってたの?!」
佳乃子は驚いて志づ葉のほうを見た。さっきまで一緒にいたにもかかわらず、どうやって用意したというのだろう? まさしく狐に摘まれたような気分である。
驚く佳乃子を横に、清光は呆れた顔で二人を見た。
「二人とも、こんなに食べたら夕飯食べられなくなっちゃうんじゃないの?」
「甘いものは別腹なのよ、よく言うでしょう? さ、お茶が冷めちゃう。早くお茶会を始めましょ」
志づ葉は相変わらずほほえみを崩さずに、席に着くよう二人を促した。