アリと笹
夕暮れまで茶会を開いた後、三人はそのまま居間で夕餉を楽しんだ。志づ葉と佳乃子の手料理である。
とはいえ大半を志づ葉が作ったものだから片付けは佳乃子が譲らず、志づ葉は食後のコーヒーを早々に飲み終え、自室に着替えに行った。
キッチンは扉をはさんで、居間のすぐ隣だ。佳乃子が食器類を洗い終えて居間に戻ると、清光の姿も見えない。コーヒーカップもなくなっている。
いつの間に、と思って佳乃子も居間を出ると、清光は裏手の縁側に腰かけ、中庭を見ながら風にあたっていた。
「何してるの?」
後ろから声をかけると、清光は黒く小さいアリを一匹、手に乗せて遊んでいた。
「少し風にあたりたくて。夕ご飯が美味しかったから、食べすぎちゃった」
「お上手なんだから。コーヒー、入れ直してこようか?」
清光の横に置かれた、空のカップを見て佳乃子は言った。
「いや、大丈夫だよ。眠れなくなっちゃうから」
「今夜は夜更かししてくれるんじゃないの? 久しぶりに会ったんだから、近況報告たまってるでしょう?」
「佳乃子ねえさん、疲れてるでしょ。早く寝ないと駄目」
どちらが年上かわからないような言い方の清光に、佳乃子はむっと顔を向ける。
「全然疲れてなんて――……」
しかし佳乃子の言葉をかき消すように、強い風が中庭を舞った。
四方を縁側に囲まれた坪庭は、地は苔で覆われて、孟宗竹が程よく育っている。風が上へ抜けていくまで、笹の葉はざわざわと大きな音を立てた。
「すごい風……」
強風にあおられて、二人の髪はひどく乱れた。目にかかる前髪をむずがって、清光は面倒くさそうに手でかきあげる。
佳乃子も額にかかる髪をよけながら、まとめ上げていた髪から幾つかのヘアピン抜いた。三つ編みになっていた髪を下ろしほぐして耳にかけると、肩を越す長さの髪がふわりと広がった。
「後で掃除をしなくちゃね」
庭と縁側に散らされた笹の葉も無残だ。言いながら、佳乃子も清光の隣に腰かける。
少女のように縁側に脚を投げ出して、清光の方を見た。
「そうだね。本当に、春は風が強い」
強風は佳乃子の体温を奪ったが、清光には心地よさそうでもあった。
佳乃子はそば近くに舞い落ちた葉を一枚手に取ると、清光の鼻先をくすぐった。そのまま絵筆の様に首筋をなで、葉先を揺らす。
清光は手をついて身体をよじらせたが、佳乃子は手を緩めない。
「佳乃子ねえさんってば」
清光は、距離をせばめてくる佳乃子に手を伸ばした。そして、手をつたっていたアリを佳乃子の肩へのせる。
「やだ、服の中に! かまれちゃう」
アリは佳乃子の肩を這って、胸元へと近づいた。佳乃子は慌てて笹の葉を手放して、アリを指に伝わせて縁側へとうちやった。
「こら、酷いわ」
「何もしなければアリもささないよ」
清光は少年らしく笑い、佳乃子もつられて笑った。年相応に笑う時の清光の顔が、佳乃子は好きだった。
「改めて、高校入学おめでとう。お祝いはなにがいいかな?」
「ありがとう。式に来てくれたのと、今晩のご馳走で充分だよ」
「欲が無いんだから。でも、全然参列席を見ていなかったでしょう。もっとびっくりしてくれるかと思ったのに」
「ごめんごめん。母さん一人だと、来ないかなと思ってたんだ」
清光の両親は仲睦まじく、ほとんどの行動を共にしている。例外は父親が仕事の時ばかりだ。
清光の父はよく出張で家を空けるが、その間志づ葉は家からほとんど出ない。
「あ――そういえば聞きたいことがあったんだ。清光くんの学校に、上加地って先生いる?」
「……上加地? 聞いたことないな。その先生の授業、受けたことないだけかもしれないけど」
「こっちの友達に、同級生が早瀬に赴任したって聞いたんだ。上加地って男の子で――あ、今はもう男の子じゃないか。私は転校しちゃったから二年しかいなかったんだけど、小学校が一緒だったの」
「二年生までだったのに、よく同級生のこと覚えてるね」
清光はすごい、という顔をした。
「清光くん、人の顔と名前覚えるの苦手だもんね。私は逆に得意なのもあるけど、家が近所だったんだ。元気にやってるかなって、気になって」
佳乃子が言うと、清光はふうんと相槌を打った。
「覚えていたら、尾々にでも聞いてみるよ」
「それ、きっと忘れちゃうでしょう。人の顔と名前を覚える以前に、興味のないことは忘れちゃうんだから」
「そんなことないよ、覚えてることはちゃんと覚えてるって」
「尾々くんとは、また同じクラスだったんでしょう? よかったね。他にお友達が出来ないのが心配だけど……また私がいるうちに連れて来てよ、挨拶したいわ」
「尾々といると楽なんだ。きっと喜んで来るよ、佳乃子ねえさんに会いたがってたし」
ほんと? 嬉しい、と佳乃子は笑った。
尾々はよく、清光の美人な従姉妹を羨んでいた。佳乃子がいると言えば、部活をさぼってでも喜んで遊びに来るだろう。
そこまで話したところで、二人の間を爽やかな風がそよいだ。
清光は、佳乃子のほうを見て言った。
「――佳乃子ねえさん、仕事の方は最近どうなの?」
「ん……、まあまあかな。忙しいけど、楽しいよ」
佳乃子は思わず、清光から目を逸らす。
食事の時にも仕事の話はしたのに、二人きりの時に清光から問われると口ごもってしまう。
仕事中の嫌な出来事が頭の中に浮かんできて、ため息がでそうになる。それに気づいてか気づかずか、清光も目線を外し、柔らかく言った。
「そっか。今日は来てくれて、嬉しかったよ」
佳乃子に会ったそばから、今日はどうしたの、と清光は言った。
昔からそうだ。清光は、幼い頃からほとんど変わっていない。
全てを見透かした上で包み込むような雰囲気をまとっていて、清光と話していると、嫌気のさす仕事のことや、日々の些事が薄められるような気がした。
「やっぱりこの家好きだな、落ち着く」
佳乃子が呟くと、清光は笑った。そろそろ戻ろうか、と佳乃子は立ち上がりふと庭の地面に目をやると、アリの行列ができていた。
おそらく清光が落とした菓子の欠片を、せっせとどこかに運んでいる。清光の足をよけるようにして、列は縁側の下まで続いていた。先ほどのアリはその中の一匹だったようだ。
菓子を落として、清光中心に行列が出来て、アリをつかまえて――まるで気まぐれな神様みたいだ、と佳乃子は思った。




