32話 願いを込めて
飛竜競が始まり、アレックスとデミスが一気に先頭へと飛び出した。
そのまま背後の竜騎士四騎を突き放し、一気に加速していく。
思い切り翼を広げて飛べることに、デミスは喜びの咆哮を上げているけれど……。
「デミス、ちょっと飛ばし過ぎじゃないかしら?」
「同感です。この渓谷のコースは四十キルメルト。少し長めですし、後半は失速する可能性もありますな」
ソフィア様とリンジーさんは不安げに呟いた。
私も二人と同じ思いだった。
アレックスの後ろを付いて行く竜騎士たちは、明らかに竜の速度を押さえている。
竜の体力を温存しているのだ。
「この飛竜競は竜騎士がいかに竜を導くか、どれだけ竜の体力を残せるかが大きなポイントになる。アレックスの奴、デミスを自由に飛ばせている様子だが、何を考えている……?」
「分かりません。でもアレックスは考えなしじゃないはずです。顔つきを見る限り、間違いなく本気ですから」
「……そうだね。あの脱走王子のお手並み拝見といこうじゃないか」
リンジーさんはそう言いつつ、口角が上がっていた。
きっと心の中ではわくわくしているのだろう。
アレックスがどのように飛竜競を進めていくのか。
……そうしてコースはしばらく直線だったものの、途中、遂に渓谷のカーブに入った。
この渓谷は楕円形なので、急なカーブは二か所ある。
そこはあらかじめ、リンジーさんから「この二か所は狭くて、曲がりきるためにどうしても竜の速度が落ちる。そこからどう立て直すかも重要なのさ」と聞いていた。
だから当然、先頭を行くアレックスもデミスの速度を落とすものと思っていたけれど……。
「ア、アレックスの奴! 全く速度を落としていないじゃないか!」
「しかも先頭を飛ぶアレックスは、後続の竜騎士より速度が出ている状態です。これは……!」
デミスに速度を落とさせないアレックスに、リンジーさんたちだけでなく、周囲の観客たちも不安げにざわめき始めた。
「おいおい、あれ大丈夫なのかよ」
「曲がり切れずに岩壁にぶつかるぞ……!」
「いいや、竜によっては曲がり切れるさ。でも乗っている人間は間違いなく振り落とされるぞ……!」
私も不安に思っていたものの、今、近くの誰かが言った言葉。
竜によっては曲がり切れる。
でも乗っている人間は間違いなく振り落とされる……この二点を聞いて、私は「あっ」となった。
そう、今の発言はあくまで“普通の人間”が基準になっているものだったからだ。
「……なるほど。私、アレックスの考えていること、ちょっと分かりました」
「……奇遇ね、ティアラさん。私もよ」
「……あの脱走王子、まさか……」
私たち三人が遠い目でそう言った直後、デミスは急カーブに入った。
デミスは体を垂直に立て、岩肌に翼が擦れないようにする。
けれどその背にいるアレックスは、渓谷の狭いカーブ内の木々や張り出した岩に、体が擦れそうになっていた。
少しでも当たったら大惨事は免れないのに、アレックスの前方に大きく張り出した岩が見えてきた。
このまま行けばデミスは飛び続けられても、アレックスがぶつかってしまう。
遠見の魔道具を覗く周囲の観客たちが、大惨事の予感に、手で目を覆い隠す中……。
アレックスは不敵に笑っていた。
「……ハァッ!」
何と、アレックスは気合と共にデミスの背を蹴って、体を垂直に立てているデミスの首元に移動したのだ。
そうしてデミスの背中側が張り出した岩を通過した直後、背の鞍に素早く戻った。
「な、ぁっ……!? あの脱走王子、なんて無茶な……!」
「……全くあの子は……」
リンジーさんは絶句し、ソフィア様は盛大にため息をついた。
「よ、よかった……」
一方の私は強張った体から肩の力が抜ける思いだった。
アレックスなら無事に切り抜けると思っていたけれど、心配だったのは本当だ。
それに周囲の観客たちも魔道具に映ったアレックスを見て唖然としている。
「な、なあ。今のって……何?」
「普通は竜共々体勢を崩して真っ逆さまだぞ!?」
「というかルール上、鞍から離れても問題ないのか!?」
「……問題はない。飛竜競は竜騎士が竜から落ちた時点で失格だが、アレックス王子はあくまで竜の首元に移動しただけだ。あれだけ危なげなく移動を成功させれば、落下と判断する方が難しい」
「流石は魔族を倒した英雄ってところか……」
「飛竜競の歴史に残るな、今のは……」
周囲の人たちの反応は十人十色ながら、全員が胸を撫で下ろしている様子だった。
そして飛竜競の方は、アレックスが行った超絶技巧によって凄まじいことになっていた。
アレックスが減速せずにカーブを曲がり切ったから、後続との距離がとんでもなく離れていたのだ。
彼の背後の竜騎士たち四騎は、当然ながらカーブに入る前に目に見えて減速していた。
元々アレックスとの距離が離れていた分、カーブを出る頃には彼らの距離差は、後から加速しても届かないのではと思うほどだった。
「あの脱走王子め。最初からこうするつもりでデミスを全力で飛ばしていたな? こんなデタラメな状況になったら後続の竜騎士たちだって、竜の体力を温存したって意味がない。後半に多少デミスが失速したところで、大差で逃げ切り勝ちだろうよ」
「これは間違いなく新記録ですね……。でも本当に後でお説教よ」
ソフィア様は拳を握りしめて、怖い笑顔になっていた。
これはあれだ、アレックスが私のことを何もソフィア様に話していなかったと発覚した時と同じだ。
私は心の中でアレックスに「ご愁傷様」と言いつつ、後でソフィア様と一緒になって「危ないことはしないように」と注意しようと決めた。
それからアレックスは直線を飛ばし続けて次のカーブに入るものの、その時には既にデミスが疲労で失速し始めていたのか、今度は危なげなく曲がり切る。
その末、背後の竜騎士を突き放したままゴールに突っ込んだ。
正に最初から最後まで、背後の竜騎士四騎を完全に突き放しての勝利だ。
アレックスが拳を振り上げると、観客たちが一斉に湧いた。
「決まったーッ! 第五百十回、エクバルト王国公式飛竜競を制したのはアレックス第一王子! さらにタイムも歴代一のものが出ております! 文句なしの圧勝です!」
「うおおおおおおおっ! 流石はアレックス王子だ!」
「前に飛竜競に出たのって留学前だったよな? それであの腕前かよ……!」
周囲が立ち上がって騒ぐ中、ソフィア様はどこか残念そうに言った。
「ああ、こんなことならコリンも連れてくるべきだったわね……。あの子、ちょうど騎士学園の合宿と被っているからって、連れて来られなかったのだけれど……」
コリン王子の姿が見えないと思ったら、騎士学園の行事だったのか。
それはどうしようもないなと思いつつ、アレックスが大好きなコリン王子のことだ。
残念ながら後でむくれてしまうかな。
「おっ、アレックス王子がこっちに飛んできたぞ!」
「何だ何だ……? もしや“鱗渡し”か?」
「鱗渡し?」
聞いたことのない単語だ。
これもエクバルト王国の伝統みたいなものなのかな?
そう思っていると、アレックスがデミスと一緒に観客席の方まできた。
デミスの翼で突風が巻き起こり、服がはためく。
するとアレックスは何かを手に持ち、デミスの背から飛び降り、こちらに駆けてきた。
周囲の人たちが注目する中、彼は私に右手を差し出し、開いた。
そこには一枚の鱗が乗っていた。
「黒い鱗……? これってデミスの?」
「そうだ。俺の兄弟分にして栄えある飛竜競の勝者となった、デミスの鱗だ。飛竜競はめでたき日に天神へ捧げるもの。だからこそ飛竜競で勝利した竜騎士は相棒の鱗を大切な誰かに渡し、これを見守っている天神へその者の幸せを願う習わしだ。今まで既に、家族や師匠の分は勝って願い終わっている。……だから今回は、ティアラの幸せを願いたい。受け取ってくれるか?」
そう言われて、私は「ありがとう」とアレックスから一枚の鱗を受け取った。
意外とずっしりとしていて、つやつやしている。
鱗の感触に驚いていると、アレックスは私へ手を向けた。
まるでその姿は、今から私を紹介するようだ。
どうしたのかなと思えば、彼はそのまま周囲の観客たちに言った。
「皆、今回の飛竜競に集まってくれてありがとう! 今回は俺が魔族を倒したって触れ込みで集まってくれたのだと思う。でも……俺だけじゃない。ここにいるティアラの力がなかったら、俺は魔族を倒せなかった。彼女も王都を、王国を救うのに、大いに力を貸してくれた。だから……皆も祈ってほしい、彼女の幸せを。多くの苦難を超えてここにいる、彼女に幸多かれと!」
──ちょっ、そんなに堂々と!
私がびっくりする間もなく、アレックスの言葉に周囲の人々たちがまた湧いた。
「あのお方、もしや噂の聖女様か? 帝国から来たって言う!」
「ああ……帝国と教会に酷いことされたって噂の……」
「今まで大変だった分、この王国で羽を伸ばしてくだされ!」
……ちなみに、私が帝国の元聖女であるという噂は、アレックスが魔族を倒したのと同時に流れ始めた。
つまり私の方も正体が既に露見しているので、アレックスももう隠す必要はない、といったふうに判断したのだろう。
──こうなったら、委縮している方がおかしいかな。
私は手にした鱗を「えいっ!」と、皆も見えるように思い切り掲げると、周囲の人たちは拍手を送ってくれた。
こうやって大勢の中、良い意味で騒ぎの中心になる経験は初めてだったので、私は少し楽しく感じていた。
何より……こんなに大勢の人がアレックスの呼びかけに応えて、私を思ってくれている。
それが今の私には、とても嬉しかった。
──やっぱり私、この王国が好き。帝国を出た私を受け入れてくれたこの国が、アレックスのいるこの国が大好き。
私はそう思いながら、これからもこの王国で過ごしていこうと、柔らかな笑みを浮かべるアレックスを見つめていた。