3 月にも見せない
「ねえ、エル。わたくしたちなら、立派な仮面夫婦になれるはずよ!」
突然の妻の発言に、エルティアードはぽかんとした。
彼の可愛い新妻はやけに気合が入っていて、目をきらきらと輝かせて意気込んでいる。
そんな彼女は夫の膝の間にすっぽり入り込み、甘えるように腰に抱きついた体勢だった。
「……仮面?」
仮面も何も、ぼくたちラブラブじゃない? とエルティアードは内心首をひねった。
エルティアードはこの世の何よりもミルシュリーズを愛していたし、その何分のいちかはわからないが、ミルシュリーズも大いに彼のことを愛している、はずだ。彼女がこんなふうにくっつく相手は、自分ひとりだけなのだ。——つまり、だから、自分は、この女性の特別である、と思うのは、自惚れではないはずだ。
「そうよ!」
「……そうなの?」
愛に飢えているエルティアードは、少しだけ不安になった。しょんぼりと眉尻が下がる。この蜜月で、もう飽きてしまったのだろうか……? ミルシュリーズは独自の世界を生きているひとなので、その可能性を否定できないのが、悲しいところだった。
その表情を何かと勘違いしたらしい、ミルシュリーズは「あっ」と声をあげた。
「ごめんなさい、エル。もしかしてあなた、仮面夫婦をご存じないのね?」
「う、うん? そうだね。ミルシュリーズのいう、仮面夫婦って、どういうことなの?」
こほん、と咳払いをし、彼女は真面目な顔で説明をはじめた。
「あのね、わたくしったら、知らなかったのだけど……政略結婚をした夫婦は、仮面夫婦になる必要があるみたいなの」
すでに突っ込みたかったが、エルティアーズはただ「うん」と相槌を打った。とりあえず最後まで聞こう。
「政略という大義を負うのだから、私的な感情は抑えて、極めて理性的に、この婚姻が国のためになるように、円滑な社交を夫婦で果たさなければならないわ。わたくし、わかっていたつもりなのだけれど……ぜんぜんだめだったの!」
「うーん、ミーシュはいつも最高だと思うけど」
「もう! エルはわたくしに甘いのよ!」
ぷいっ、としながらも、嬉しそうな色が隠せていない。
うん。とりあえず、ミーシュは変わらず、ぼくを好きみたい。よかった。
エルティアードはにこにこした。
「どうしてそんなに嬉しそうなの? わたくし、ぜんぜんできてないのに」
「できてないようには思えないよ。ミーシュはサザルーシャとの交易にも、グラン・バルジェ港の整備にもずいぶん力を尽くしてくれたし」
このような謎の勘違いをする、ふわふわしたミルシュリーズだが、頭脳は一級品だ。政治の才に恵まれているわけではないが、目端が利き、頭の回転がはやい。詰まったときや現時点の最善策と事後の対応策の作成に優れている。
ただ、日常生活において、やや素直すぎるのである。
「わたくしも、そういうことでは、役に立てる方だと思っていたのだけれど……」
肩を落として、彼女は続ける。
「昨日、皇女殿下のお呼びで、少し宮廷に顔を出してきたのだけれど」
ああ、あの迷惑な呼び出し……と正直に言いかけて、我慢する。なぜ蜜月の真っ最中に花嫁を呼び出すのか? 帝室一家はうっとうしいことばかりする。仕方ないので、ミルシュリーズに無断で彼女のドレスや宝飾品を端から注文して過ごしたのだ。届いたら彼女で着せ替えして楽しもう。
「クゼール橋建立の立役者で、わたくしたちの世代でも有名なマーシャル伯爵夫妻、いるでしょう? おふたり、特に夫人は国のためを考え、常に感情を乱すことなく冷静に、毅然とした夫婦関係を見せるよう、努力されているそうだわ」
「つまり、それが仮面夫婦?」
「そう! わたくし、あなたと一緒にいると、たしかにうまく感情を制御できなくて、冷静でいられないのだもの。あなたのことばかり考えて、他のことが二の次になってしまうわ」
「そ、そうなんだ」
いま、ものすごく嬉しいことを言われた気がする。
エルティアードは妻を抱きしめる力をぎゅっと強めた。
「社交界は、舐められたら終わりなのだそうよ」
「まあ、それはたしかに」
つけいる隙を見せないことは、大切かもしれない。
普段通りのふたりでいれば、思わぬところで足をすくわれる可能性もある。
それに、と彼は一考する。
基本的に、他人には淑女の鑑としてしっかりした姿を見せているミルシュリーズが、このように表情をゆるめてエルティアードに微笑む顔をさらしてしまうと、よけいな虫が大量発生して、その上調子に乗ってまとわりついてくる気がする。それはいただけない。今でさえ、邪魔者が少なくないというのに。
エルティアードは一瞬で決断した。
「なるほど。ぼくたちは、帝室からの命を受けた夫婦だ。その帝室に恥じない、冷静で毅然とした立派な貴族——という仮面を、かぶるべきということだね」
「ええ、その通りよ!」
「わかったよ。ぼくたち、国に誇れる、立派な仮面夫婦になろう」
にっこりと夫に快諾され、ミルシュリーズもさらに笑顔になった。さすがエルだわ、理解も判断も早い。わたくしの夫、最高!
「でも、ミーシュ?」
「なあに?」
「蜜月はまだ終わっていないよ。ふたりだけのぼくたちは、いつも通り、感情のままに行動したって問題ないと思うんだけどね」
どう思う、奥さん? と甘く問いかけられて、ミルシュリーズは真っ赤になりながら頷いた。
・・・
——というわけなのである。
このふたりの内情について、身内に等しい帝室は、もちろん把握している。なぜそのような行動に至ったのかも理解しているし、貴族間にちょっとした緊張感を与えてはいるものの、むしろ腐乱を呼ぶよりちょうどいいスパイスだと判断していた。
とはいえ、若い夫婦、しかも仲睦まじいふたりが、せっかくの夜会でダンスを楽しむこともなく、おつとめの風情で過ごすのは勿体なくないだろうか……と呆れる思いもあった。それゆえに、彼らは身内として、たまには肩の力を抜いて好きに過ごせとすすめたのだが、真面目な彼らはそれを突っぱねて、真面目に『立派な仮面夫婦』を遵守したのだ。
夜のファルネリウス邸は、すでに多くの使用人は下がっており、使用人室に執事のひとりが待機している程度だ。
つまり、現在のミルシュリーズとエルティアードはふたりきりだった。このふたりは、緊急時に対応できるよう、さらには帝室の支えになれるよう育てられているため、基本的なことは自分でできるたちだった。
ふたりきりなら、仕方ないわ。ミルシュリーズはそう、自分を甘やかしてしまう。あちこちにくちづけられて、ぼうっとしていた彼女はふと、夜会のことを思い出す。
「ねえ、エル。わたくし、あのとき……」
「ん、あのとき?」
「その、あなたが、クレーン伯爵が羨ましいかと、わたくしにたずねた、でしょう? わたくし、愛人のことかと思って、あんなふうに言ってしまったけれど、もしかしてあなた、したかった?」
エルティアードは妻の首筋に埋めていた顔をあげ、熱情に濡れた青い瞳を瞬かせた。
少し汗ばんだひたいに、彼のつややかな黒髪がかかる。
「どういう意味?」
「つまり、えっと……ダンス中に、くちづけを、交わす、こと」
恥ずかしげに目を逸らす妻を、夫がまじまじと見つめた。
「あの、あのね、そんなことをしたら、わたくしきっと、仮面をかぶっていられなくなってしまうと思うの。でも、エルがしたいのに、わたくしのせいで我慢させていたら……」
「ふっ」
エルティアードはこらえきれないように吹き出し、背を震わせた。
「あははっ。ミーシュ、あなたって本当に可愛いね。ぼくのほうが、おかしくなっちゃうよ」
「わたくし、真面目に聞いているのだけどっ」
「あはははっ、ごめんね。ごめんなさい。こっちを向いて、ぼくを許して。キスをさせて、ミルシュリーズ」
ていねいに名前を呼ばれて、そっぽを向いていた顔をつい戻してしまう。すかさずキスをされ、舌で愛撫される。しびれるような感覚が、背中を駆け上っていく。
「あれは少しだけ、ぼくが不安になっただけだよ。だから、気にしなくていい。それに、ダンスをしながらキスをしたければ、うちのホールでやればいいよ。そこにはあなただけがいればいい」
エルティアードはミルシュリーズの繊細な手を取って、その指先に唇を寄せた。人差し指、中指、それから薬指。彼の吐息が触れるたび、ミルシュリーズの体温が上がる。
「そうだな、真夜中にワルツをするのはどう? あなたを独り占めしながら好きなだけ踊って、秘密のキスをできるなら、きっと夢みたいに楽しい。月くらいは覗き見を許してもいいかな」
心臓が止まりそう。ミルシュリーズは、はくはくと唇を震わせた。おかしい。わたくし、どうして御伽噺みたいに口説かれているのかしら。エルのおかしなスイッチを押してしまったみたい。
今だって、月すら見えない夜に隠れて、飽きることなく戯れているのに。
「ミーシュ?」
「っ、そ——あの、エル、不安って?」
咄嗟に気になっていたことが口から飛び出した。
「ん? ああ……ミーシュがぼくに飽きはじめていたら、どうしようかと思って」
「え!?」
なぜそんなことを考えるのだろう。というか、そんな不安がある人が、このような甘い言葉で妻を翻弄してくるものだろうか。わたくしにものすごく愛されているって、自覚があるからの言動ではないの!? 深く考え出すと、そこはかとなく悔しいものがある。
とにかく——
「そんなこと、ありえないわ!」
「うん。よかった」
「……えっと。安心してくれた?」
「そうだね。安心しているから、こうしてあなたに触れられているんじゃないかな」
ミーシュにはない? とからかうように彼は言う。
「想い合っていても、ふと、誰かのほうをより好きになられてしまったらどうしよう、って不安になるとき」
ミルシュリーズは、束の間、言葉をなくした。
それは……ない、とは言えなかった。この前も、デビューしたての初々しい少女が、夢見るようにエルティアードを褒め称えてくれた。あのときは純粋に嬉しかったけれど、もし彼女がエルティアードに恋をしてしまったら、それはとても焦るだろう。
でも。
「ある、けれど……だめ」
「ん?」
「エルは、わたくしのことを愛していなければだめ」
きっ、とミルシュリーズは夫を見据えた。
「わたくしたち、永遠を誓ったじゃない。だから、どんなに心が揺れても、わたくしを愛さなければだめよ」
ぱちくりと目をしばたたかせたエルティアードは、やがて花咲くように破顔した。まいったなあ、と言いたげに頬を緩める。
「なるほど。それが、あなたの信じるってことだね」
「信じるというか……そうでなくてはだめなの!」
「うん、そうだね。だってぼくたちは、相思相愛の幸せな夫婦で、なおかつ国に誇れる仮面夫婦なんだからね?」
「その通りよ!」
エルティアードはまぶしげに目を細めてから、宝物にするように優しくミルシュリーズを抱き上げた。
「でもね、奥さん。ぼくは欲張りなので、うちにいる間は、もっとあなたの可愛い姿をひとりじめしたいんだ」
彼女のこめかみにくちづけながら、寝室に繋がる扉に向かう。
「とても立派な仮面夫婦とはいえないけれどーーぼくのわがままを、叶えてくれる?」
レースのカーテンが月を隠すから、月明かりすら遠のいていく。微かに残るあわい光の残響が、エルティアードの美しい顔を一瞬照らした。
その眼差しに宿るたしかな愛を見つけて、ミルシュリーズは微笑んだ。
「もちろんよ、わたくしのエル。それがわたくしのわがままでもあるって、わかっているくせに!」
だって、いまはふたりきり。
仮面を脱ぎ捨てて、素顔のわたくしたちでいても許される時間なのだから!
久しぶりにおはなしを書いたのでお手柔らかにお願いします\(^q^)/
でも感想いただけたら嬉しいです!
ほんとうはおまけでふたりの子供視点(未来)か、ふたりの幼少期(エル視点)を追加しようかと思ったんですが、蛇足かな〜って迷ってます。