4話
予定より三十分も早く鳴ったインターホンに出ると、コンビニ袋をぶら下げたかえでが、息切れした様子で仁王立ちしていた。我慢できず駅から走ってきたらしい。
シングルベッドとテレビの中間には背の低いテーブルがある。二人分の夕食を並べるには、十分な大きさだ。
「腹が減っては戦はできぬ、ってね。はい、差し入れのお弁当よ」
かえでは二人分の弁当が入ったコンビニ袋を突き出した。両手を合わせ「いただきます」と言うと、ぐちゃぐちゃに振り回された痕跡のある唐揚げ弁当に着手した。
「久しぶりだね……こうやって食べるの」
「ああ、そうだな。試験前になるとよくうちに来てたよな。試験勉強なんてまったくしないのに」
かえでには入学当初から、この部屋でよく相談を聞いてもらった。と言っても、そのほとんどが当時付き合っていた彼女の愚痴だった。俺の一方的な意見だったが、かえでは一度も彼女の肩を持たずアドバイスしてくれた。そう言えば、俺がかえでの相談を聞いた記憶はほとんどなかった。
かえでは余程フルダイブが楽しみなのか、二、三回嗚咽を漏らしながら白飯を口へ詰め込むと、最後に唐揚げの油分を大量に吸ったスパゲティを掻き込んだ。ものの五分で平らげると、かえでに急かされるがままフルダイブのレクチャーに取り掛かった。
「これが電源ボタンでその隣のLEDランプが……」
かえでのサークフスを手に取り、呼称を始めた。一度も使われていないマシンは、傷一つない輝きを放っている。
「もう。そんなこと取説見たらわかるわよ! ね、ダイブしましょうよ。ダ・イ・ブ!!」
うんざりしたように言葉を遮ると、数センチのところまで顔を近づけてきた。
「オ、オッケー」
条件反射で頷くと、かえでは嬉しそうにベッドに飛び乗った。かえがベッドに乗ることで、自ずと一つの問題が浮上する。
「ちょっと待った、かえで。そこは俺の場所だ」
サークフスの取り付けに苦戦しているかえでは、不思議そうに首を傾げた。
「黙って横になっているだけなんだから、この小さなベッドに二人寝ても問題なしよ。それよりこれ……上手くはまらなんだけど」
「なっ……小さくて悪かったな!」
ぶっきら棒に吐き捨てると、かえでの背後に回り、華奢な首に重厚なハードをカチリと装着した。
「いいか、ハードの電源を入れるとVVWが立ち上がる。データサーバと通信が確立すると神経系の信号が遮断されていく。意識がなくなるのは、このタイミングだ。睡魔に似た感覚かな。生身の体は指一本動かせなくなる。あとは、ゲームのアナウンスに従えばログインできる」
サークフスはインターネット回線を介さない。エルジェップの独自回線に接続し、VVWのデータサーバと直接通信を行う。独自回線と言ってもインターネット回線と変わらぬ速度を誇り、ベータ版ではタイムラグを感じたことがない程に通信環境は良好だ。
「芹人、あたしが動けない間、変なことしようなんて考えてないでしょうね」
「しねえよ。何なら俺が先にログインしてようか?」
睨みつけるかえでに、俺は慌ててサークフスを首に取り付けた。
「なら、いいんだけど。ログインはわたしが先にするから」
ベッドに横になるかえでの表情は、いつになく不安げに見て取れた。
「心配しなくていいよ。かえでは初めてのログインだから初期設定に五分くらい時間がかかるけど、俺も直ぐにログインして待ってるから。そうだな……集合場所は宿屋のフロントにしよう。ログインしたら必ずそこから始まるし、直ぐにわかると思う」
かえでは頷くと、目を閉じサークフスの電源を入れた。かえでは拳を強く握っている。
電源左のLEDランプが、緑に点滅した。通信状態を知らせるランプで、緑点滅はサーバへの接続要求を表す。更に左隣のLEDランプが橙色に点灯し、メモリーカードの有無を告げた。
俺はかえでの隣に横になった。遊びに来たことは何度もあるが、宿泊、ましてや、同じベッドで寝るのは初めてのことだ。今回に限っては《寝る》の意味合いが違ってはくるが、それでも緊張がないと言えば嘘になる。
伝わる呼吸に聞き惚れていると、緑点滅していたランプが点灯に変わった。通信接続が確立したようだ。固く握られていた拳は、ふっと力が抜けていた。
俺も自分のハードを起動した。かえでの手に触れようか悪戯に悩んだが、その答えが出ないまま、現実世界から完全に意識を失った。
――遅い。
かえでを追いかけるようにログインしたが、かれこれ三十分は経過している。
俺は宿屋のソファーに深々と座り、適当にポップアップさせたウィンドウを手持ち無沙汰に操作していた。
どんな古株プレイヤーでも、フルダイブ時は首都セントラルの中央宿屋にログインする。一般公開が発表された今も、この仕様は変わらないようだ。
一度ログアウトしてかえでの様子を確かめようかという選択肢が脳裏をよぎるが、しかし、その決心は一瞬にして滅失された。直後、俺は一人の女性プレイヤーに釘付けになった。
上階から降りてきた妖美な女性プレイヤーは、少し高い位置からフロントを鳥瞰していた。どこの国のプレイヤーだろうか。ベータ版のときは見かけなかった顔だ。
ふと我に返り周囲を見回すと、フロアにいた十人ほどのプレイヤーも同じようにその美貌に注目していた。歩き始めた彼女を見失うまいと目で追いながら、メニューウィンドウを操作している者までいる。操作手順からするとおそらく、翻訳機能をONにしたのだろうと予想がついた。彼女に声を掛けようか迷っているのだろう。
そんな勇気などない俺は、傍観する他にない。女性プレイヤーは自分が注目を受けていることなど意にも介さない様子で、目標物に向かい真っすぐ歩いている――が、何かがおかしい。俺の勘違いでなければ、女性の目標物は間違いなく俺だ。
「エクスキューズミー」
英語圏プレイヤーのようだ。女性は俺の隣に無遠慮に腰をかけると、流暢な英語で訊ねた。
さっきまで女性に憧憬の視線を送っていた男性プレイヤーたちは、今や俺に嫉妬の視線を突き刺している。俺は降り注ぐ視線を振り払うと、即座にウィンドウを操作し、翻訳機能をONにした。
「や……やあ」
明らかに強張っているであろう、表現し得る最高の笑顔で声を振り絞る。
「セリト?」
女性は聞き慣れた単語を口走った。
「ん? どうして俺の名を……あっ」
数秒の困惑の後、全てを悟った俺はノイズ処理幅を超えるほどの声を上げた。エコーの効いた絶叫が室内に響く。
「……もしかしてかえで? どうしたんだ……その容姿」
今度は女性側が何言っているか聞き取れないらしく、「何?」を繰り返していた。
たしか、翻訳機能はデフォルトではОNだったはず。俺の日本語は女性プレイヤーには英語で伝わってしまう。俺は親指と人差し指をくっつけると、メニューウィンドウを表示するピンチアウトの仕草をして見せた。女性は見様見真似でくっつけた二本の指をゆっくり広げる。ポンと高音を鳴らして、メニューウィンドウが空中に飛び出した。初めての操作に、女性プレイヤーは驚いたように目を見開いている。
女性が開いた半透明のメニューウィンドウを覗き込む。
やはり――メニューにはアルファベットがびっしりだ。しかし、俺のレイアウトとまったく同じで助かった。翻訳機能を切り替えるだけなら手早いが、言語機能を日本語に変更する必要がある。
自分のメニューウィンドウと見比べながら、システム設定――アカウント設定――地域種別とメニューを操作していく。ようやく言語の項目を見つけると、七十七の選択肢から日本語を選んだ。
「これで、よしと――言葉通じるか? か・え・で」
「芹人っ!」
表情から不安が晴れた途端、英国美女がむんずと抱きついてきた。俺の胸部に違和感を与える膨らみは、現実世界のそれよりも豊満に思える。たかがポリゴンで、ここまで忠実に再現できるエルジェップの技術力が恐ろしい。
いつの間にかギャラリーは二十人ほどに増えていた。終始やり取りを見ていた男性プレイヤーの視線は爆発寸前だ。
「ちょ……ちょっと待った」
涙目のかえでを引き剥がすと、ギャラリーたちはぶつぶつ言いながら三々五々散りだした。
「何をどうしたらこの顔になるんだ?」
小さな頭部、やたらと大きな茶色い瞳、ツンとした鼻、胸部は豊満で、肌は透き通るほど白い……西洋人のような容姿はぱっと見、十六・七といったところか。改めて見ても栗色の髪以外、本人を連想させる面影はなかった。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。初期設定で適当に押してたら英語になっちゃったの」
それが建て前であるのは明白だ。適当に押さざるを得なくなった経緯があるはずだ。
「どうせ、容姿の設定に時間を使いすぎて、それ以外は焦ってOKボタン連打してたんだろ」
かえでは俯いていた。図星のときはいつも俯く。顔は別人でも仕草は本人然りだ。
「芹人はあんまりリアルと変わらないんだね」
かえでは上目で言った。作り物とは言え、その容姿で見つめられて悪い気はしない。
VVWはアバターを任意の姿に決定できる。ほとんどのプレイヤー、かく言う俺もそうだが――現実世界の自分に似せたアバターを作っていく。しかし、リアルの自分に酷くコンプレックスを持つ人の中には、全くの別人を作り上げてしまうプレイヤーがいるのも事実。性別まで変えてしまうプレイヤーも聞いた話ではいるようだ。
「しかしな。限度ってものがな」
俺は脱力して言った。
「えー、これがわたしの理想なのに。ちょっとやり直そうかな」
「それは難しいと思うぞ。このゲーム……」
「……?」
かえでは愛くるしく首を傾げた。自分の妖美を意識してなのか、計算されたその挙動にだんだんと腹が立ってきた。
「不可能ではないんだが……金が掛かるんだよ。それも超高額の」
VVWの世界には《ビル》と呼ばれる仮想通貨が存在する。課金システムも搭載しており、一ビル一円で千円単位から購入できる。なのだが、ベータ版経験者として言わせてもらえば、そのシステムはほとんど機能していない。物価が高すぎるのだ。
リアル世界のそれと比べると単純に十倍……二百円の缶ジュースが、VVW内だと二千ビルの計算になる。部位によって違いはあれど、アバターの局所変更でもリアルで高級車一台購入できるほどの金が動くと言われている。
「うーん、そんな高いなら諦めるしかないか……」
高額と言われ、かえでは何故か嬉しそうな顔を見せた。
「それはそうと、アカウント名……あれなんて読むんだ? ストア……ラ……」
言語設定の変更でメニューウィンドウを覗いたとき、かえでのアカウント名が目に入った。独特な英語表記で、見慣れない単語だった。
「あーあれね。スターラヴィ《STOERLOVIE》。ラヴィって呼んで」
「スターラヴィか……響きはいいけど、どんな意味なんだ?」
「え、それは……なんだっていいでしょ。造語よ、造語」
かえでは頬のテクスチャを桜色に染めた。
「ラヴィか。可愛くて、女の子らしい響きが気に入らない……。決めた、スタラビって呼ぶ。因みに俺は片仮名でセリトな」
納得のいかないかえでは頬を膨らませている。
ログインして既に三十分。このまま呼び名で揉めている時間はない。
「早いとこ、この世界を案内するよ」
途端、かえでの表情はわくわくを帯びた。




