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ディジタルタトゥー  作者: 阿相アイ
1部
2/33

1話

 彼女はこの世界に詳しい。

 相談を持ちかけると全ての質問に完璧な解答を用意し、目的地までの複雑な分岐道を削ぎ、更にそれを縮め導いてくれる。

 ただ一つ、要求する報酬の高額度を除けば、最高の友人である。

 俺は女性プレイヤーのユウに別れを告げると、通行人を避けながら人通りの少ない裏路地で足を止めた。

 何もない空中で親指と人差し指をくっつける。間をおかず、二本の指を広げるように動かした。メニューウィンドウを表示する、この世界ならではのアクションだ。

 ポンと高いエフェクト音と共に、今まで何もなかった空間に半透明のウィンドウが飛び出した。色艶やかな街の装飾とは対照的に、必要最低限の項目を並べただけの、シンプルなウィンドウだ。

 運営情報、フレンドリスト、アイテム、アプリケーション、設定と並んでいるメニュー欄を最下までスクロールすると《ログアウト》を打鍵(だけん)した。半透明の確認ウィンドウがポップアップする。

 イエス/ノーを(うなが)すコメントを一瞥(いちべつ)し、慣れた手付きでイエスボタンを叩いた。


 七回目の《完全(フル)ダイブ》を終えると、まだ意識がはっきりしないまま枕元の照明リモコンをまさぐった。リモコンを掴むと同時に、別の何かが手に当たり床へと落下する。

 気にも止めず全灯ボタンを押すと、狭い空間をほんのり白色灯が照らした。

 一分前までダイブしていた華やかな街が嘘のような、質素な視界が広がる。その都度、虚無感を覚えるのにはもう慣れた。

 俺は頸部に装着している《サークフス》を外すと、首の骨を数回鳴らし、背伸びをした。首を覆う円形マシンの内側にはクッション材があるが、正直付け心地はイマイチ――といっても、サークフスの電源を入れ仮想現実へダイブしてしまえば、脳から身体への感覚は遮断されてしまうため、付け心地を気にする必要はまったくない。

 サークフスとは使用者に仮想世界を体験させるコントローラである。サークフスは、脳から神経を伝い全身へと駆け巡る信号の一切を遮断する。脊髄を通り、プレイヤーの生身へ与えられるはずだった五感情報を全て奪うのである。加えて、ハード側面に埋め込まれた数百の超小型コンデンサから発生される高周波電磁パルスによって、擬似五感情報が直接脳へ送り込まれ、脳内に仮想の空間を再生するのだ。

 「っ……!」

 ベッドから立ち上がると、今しがた床に転げ落ちた猫のキーホルダーを踏みつけた。キーホルダーをベッド脇に戻し、目を覚ますべく洗面台へと向かう。

 いかにも一人暮らし用の小さなユニットバスで顔を洗い、目が覚めたところで、パソコンチェアに深々と腰を下ろした。デスクには大学の教科書が散乱していた。情報工学専攻なだけあってプログラミング関係の本が大半を占めていたが、中には「株入門」や「やさしい株の本」といったタイトルの本も紛れ込んでいる。収まりきれない教科書たちは八畳間の三割ものスペースを我が物顔で占領し、学生の一人暮らしを部屋中に演出していた。

 時刻は午前八時五十五分。

 インターネットに接続しているノートパソコンには、昨夜閉じ忘れた友人のSNSが表示されていた。梨乃(りの)という名のその子は「久しぶりに女子力上がりました!」というコメントと共に手作りハンバーグの写真をアップしていた。「もう関係ないんだ」と自分に言い聞かせ、何故か二人分のハンバーグが盛り付けられたフォトページを閉じた。

 いつもの日課に取り掛かかるためだ。

 パソコンと隣合わせに置いてあるマルチモニタの電源を入れ、ブラウザをもう一つ起動する。ノートパソコンに一つのブラウザ、並行して、マルチモニタにもう一つのブラウザが全画面表示されている。マルチモニタで証券会社のホームページにアクセスし、ユーザ名とパスワードを入力するとマイページにログインした。

 ノートパソコンに向き直ると、お気に入りから《株価一覧》を選択し、新しいページに切り替えた。ディスプレイには一六企業の株価が一覧表示されている。数値はリアルタイムに変動し、その右隣には矢印のアイコンが置かれていた。数値が上がれば赤い矢印が上向きに表示され、逆に下がれば青矢印が下向きに表示される。今日はどちらかと言うと、赤い矢印の数が多いようだ。保有株に目をやると、昨日買った医療株は、一・四一パーセント上がり、手数料を差し引いても五千円弱の利益を出していた。

 投資家は自然とルールを科し、それを遵守した取引を重ねることで己のスタイルを確立していく。俺の場合は《一パーセントの利益が出たら売り》というのを自分ルールの一つと決めていた。現に、このルールを守ることで、必死にバイトで貯めた軍資金五〇万を一八〇万にまで増やすことに成功していた。少なからず株のセンスは持っているという自負もある。

 その自信は徹底したルールの厳守から来るものであり、どれほど欲にかられても三つの自分ルールを守り続けた。

 一つに、利益一パーセント即売り。単発で得られる利益は小さいが、数をこなすことでいくらでもカバーすることは可能だ。例えば、前場(ぜんば)三パーセントプラスに動いた電力株があるとしよう。この電力株は後場(ごば)になるとマイナス側に同じだけ変動する可能性を持つ。つまりマイナス三パーセント。合計すると、最大で六パーセントの幅を持つことになる。俺はこの幅をリスクと呼んでいる。要するに、電力株は六パーセントのリスクを有する。そして、リスクを抑え、損失を回避するためのマネジメントをリスク管理と位置づけ実行した。プラス一パーセントの利益で株を手放すことで、マイナス側のリスクも同時に一パーセントに抑えることが可能であり、俺はこのリスク管理を徹底した。

 二つに、損切り。株式を購入する以上、損失は覚悟の上で購入ボタンを押さなくてはならない。損する覚悟の有無は、判断を大きく鈍らせる。俺の場合、損切りを見誤り、塩漬け株を持つことだけはどうしても避けなければならなかった。一時的でも塩漬け株を保有してしまうと、少ない資金で運用している俺はたちまち身動きが取れなくなってしまうからだ。

 三つに、信用取引。この取引は己の資金を担保に金を借り、増えた資金で株式を運用するという方法である。軍資金以上の金額を扱えるが、反面、借金という言葉に魅力を感じなかったし、先刻説明したリスク管理を徹底する俺は社会に出ないうちに人生を詰み兼ねない危険を犯したくはなかった。

 欲張らないこと。浮き沈みの多い株式市場の世界で、自分に課した決め事である。この決め事によれば今持っている医療株は一〇〇パーセント売りのタイミングだ。

 モニタを睨み、現物売のボタンへとマウスポインタを運んだ。株数、注文方法を選択し、売り注文の手順を踏んでいく。もう何百回も行った工程だ。指値だとタイミングによっては売れない可能性がある。成行注文で売るのも自然と身に付いた自分のスタンスだった。

 手順も最終段階に入り画面中央の確定ボタンで作業終了だ。マウスポインタを赤点滅する確定ボタンに重ねると、来客を知らせるインターホンが最後のワンクリックを妨げた。

 玄関に向かうべきか売却を続けるべきか躊躇(ちゅうちょ)したが、常に更新し続けるノートパソコンの株価に目をやると、数秒前まで一・四一パーセントあった株価は既に〇・九八パーセントにまで変動していた。一パーセントに満たない株は売りではない。自分で決めたルールだ。守らなければならない。売りを諦め、「投資の世界ではよくあることだ」と、玄関へと向かう自分に言った。

 「なにがよくあるって? また心の声が漏れていたわよ、志堂芹人」

彼女が俺のことをフルネームで呼ぶときは、何かで気分を害しているときだ。玄関の鍵が開いていたらしい。玄関には同じ学科の夏乃かえでが立っていた。

 「今日は二限からでしょ? 朝がゆっくりだから迎えに来てあげたわよ。こう見えて芹人の時間割は全部把握しているんだから」

 かえでは黒のパンプスを脱ぐと、下駄箱の最上段右端に押し込んだ。

 「把握しているんじゃなくて、俺の履修登録を丸々ぱくったんだろ」

 下駄箱の右上エリアは、いつの間にかかえでの定位置となっていた。なぜかえで専用スペースがあるのか理由は定かではないが、学科の仲間内でもこの話は浸透していた。

 一説には、以前開催した我が家のホームパーティーでのこと。おニューの靴を履いてきたかえでは、客人たちで満杯になった下駄箱に靴の置き場を見出せず、酔っ払って大泣きした。という、でっち上げ話まである。たしかに、うちのホームパーティで泣きじゃくるかえでを介抱したことはあるが、そのときは別の理由だったと記憶している。なにせあの場の全員が酒で出来上がっていたので、鮮明な記憶を有する者は俺を含め、いなかっただろう。真相は闇の中である。

 「梨乃ったらあんな写真アップして信じられない」

 かえではカーディガンを脱ぐとショルダーバッグと共にベッドに放り投げた。

 「あからさまなのよね。芹人の気持ちも考えないで、わざわざ二人分の食器並べて写真撮るなんて……」

 今朝方アップされていたハンバーグの写真のことを言っているのだろう。しかし、言い終わらないうちに、かえでの視線が枕元のマシンを捉えた。

 「ところで、その不気味な黒い物体はなに?」

 かえでは湾曲したメタリックな(くび)(かせ)を指差した。

 「不気味とは心外だな。これぞ医療と通信技術を融合させた、日本技術の極みなるぞ」

 「はあ? なにが極みなるぞ、よ。どうせまた秋葉原の変な店で買ってきたんでしょ。エル……ジェップ……? こんな会社聞いたこともないわ」

 ハード側面の製造会社情報をかえでが覗き込んだ。

 「知らなくて当然だ。CMなんかのメディアには一切出ていない上に、設立してまだ三年。おまけにうちら情報工学のソフト屋とは無縁の医療メーカーだ」

 「なんで医療メーカーがこんなおもちゃ作っているわけ? それで、なんでそれが芹人の枕元にあるわけよ」

 「まぁ、落ち着けよ」

 食って掛かるかえでから俺はマシンを取り上げた。

 「こいつはサークフスと言ってだな……」

 コホンと咳払いをして俺はマシンのプレゼンを披露した。

 二〇〇四年以降、大手SNSの誕生により、コミュニティ型WEBサイトはスマートフォン市場で一世(いっせい)風靡(ふうび)した。人と人との繋がりはインターネットを媒介に、距離、時間の障害を克服。限定的ではあるが、一部著名人との交流も可能となった。

 その十五年後、タブレット型の携帯電話機は目元に装着するヘッドマウント方式を採用したメガネ型へと姿を変え、夢のハンズフリーを実現した。端末の進化と共に、SNSも不特定多数の人と交流するという目的の元、成長を繰り返してきた。

 メガネ型端末の登場から更に五年の開発期間を経て、SNSに特化した次世代機として注目を集めているのがサークフスである。正確には注目を集めるだろうと予想されている。かえでがサークフスの存在を知らなかったように、一部の人間しか知る者はいない。

 未発表のサークフスの存在を俺が知ることになったのも偶然の産物であった。そもそも、エルジェップ株式会社を知ったことすら、証券取引でたまたま株式を手にしたからという理由だった。

 サークフスに対応したソフトはまだ一本しか存在しない。それどころか、今後発売されるかすら不明である。

 通常、据置き型ゲーム機を開発したゲームメーカーは、様々なソフトで消費者が遊べるよう、専用の開発キットを事前に無償なり有償で公開する。そして、ゲームメーカーの開発キットを使って、ソフト会社がゲームを開発していく。それがゲーム開発において順に踏んでいく工程である。

 しかし、サークフスを開発したエルジェップは開発キッドを一切公開していない。まるで、自社で独占せんと言わんばかりに。

 サークフスを媒体に唯一稼動できるソフトウェア――Ⅴ(ヴァリアス・)Ⅴ(バーチャル・)(ワールド)

 SNSの交流場所を仮想世界に構築し、従来のコミュニティサイトでは考えられない人数との交流を可能にした。この事象に大きく貢献した機能に、並列多言語翻訳機能なるものがある。七十七の言語に対応し、仮想世界内で外国人プレイヤーとの会話が可能。発した言葉がリアルタイムに翻訳変換され、相手の耳へと入る。まさに、世界一の社交場を提供していた。

 俺もゲーム内でスウェーデン人の男性プレイヤーと関わる機会があったが、声と口の動きに感じる違和感を除けば、流暢な日本語で聞いて取れた。おそらく相手にはスウェーデン語で喋る俺の姿が写っていたのだろうと考えると、自分の声をサンプリングして聞いてみたくもなってくる。

 もうひとつ驚くべき点は、本端末の使用環境にある。使用者は横になりサークフスを首に装着する。目を閉じ、ハードと脳の通信を開始すると、身体は外部から一切の感覚を遮断される。サークフスの仕様が事実なら、外部との接触を絶った使用者の身体は睡眠状態にあるという。驚くなかれ、寝ながらにして仮想世界で作業ができると外部仕様書に謳っているのだ。

 この機能も実体験済みである。本日二限の授業で提出するレポートを先刻のフルダイブ中に終えてきたところだった。サークフス外部に挿入されたメモリーカードに課題のデータが入っているはずだ。

 メモリーカードの背をグイっとひと押しする。LEDランプの消灯を確認すると、小指ほどのカードを回収した。

 「要は、サークフスってハードにインストールされているのが、その……バーチャルなんちゃらの体験版なわけね」

 かえでは「なるほど」と言いつつ、覚えられなかったゲームタイトルを濁した。

 「ヴァリアス・バーチャル・ワールドね。《ⅤⅤW》って略したり、仮想世界の人はWを二つのⅤに分けて《Ⅴ4》って呼んでる人もいるよ」

 「そう、それ。どんなゲームなのかはわかったわ。ところで……」

 かえでは目を輝かせて言った。

 「わたしもやってみたい! 体験版はどこで手に入るの!!」

 「そう来ると思った。……残念だけど、市場では手に入らないんだ。一つのハードに持てるアカウントは一つだし困ったな」

 頭を掻きながら俺は続けた。

 「実はこれ、内々定くれた企業が合格通知と一緒に送ってきたんだ。弊社の製品理解のためにもモニターとして使ってくれって」

 企業サイドはモニターと言っているが、聞こえのいいボランティアデバッガーということは俺にもわかっていた。

 動作に不具合を見つけた場合は、その大小に関わらず対象の画面キャプチャをVVW内から送信ください――合格通知にはこうも書かれていた。デバッグ作業と言っても、仮想世界内のオブジェクトに多少のポリゴンの擦れはあったものの、ほとんどバグらしいバグは見つからなかった。微々たる不具合を報告すると、いつも次のフルダイブまでには完璧に修正が施されている。

 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……な、内々定ですって?」

 「あれ……言ってなかったっけ?」

 思い返してみれば、確かにかえでに内々定の報告をした覚えはない。というか、学校の誰にも言っていなかった。瞬間、かえでの小さな掌は、俺の左頬を強振していた。

 「今度からはちゃんと報告してよね。友達なんだから」

 かえでは口も達者だが、手も早い。日頃から貧弱な理系男子を束ねるかえでに対抗しうる猛者は、おそらくうちの学科にはいないだろう。

 「以後、気をつけます」と俺は左頬を擦る。かえではフンと鼻を鳴らし、玄関へと向かっていった。

 追いかけるように玄関の外へと片足踏み込んだ俺は、忘れものに気づき再度室内に戻った。

 下駄箱の上には全面液晶パネルの立方体が置かれていた。四枚の側面パネルは全て同期し、九〇度ずつ視点を変えた三次元グラフィックスを描画している。流体力学に基づき粒子運動を滑らかに表現した水グラフィックの中には、色彩豊かな熱帯魚が数匹泳いでいた。熱帯魚もまた三次元グラフィックスであるが、ちっぽけなヒレは半透明で精微、目を凝らせば緻密な鱗が体表を覆っている。個体はAIアルゴリズムに準じ、それぞれがランダムな方位に魚体をくねらせていた。

 最近発表された飼育型ゲーム機で、熱帯魚の他にも、海水魚、深海魚、大型動物、面白いものでは空想上の怪獣、珍獣まで飼育でき、そのバージョンは様々だ。アニメやゲームとコラボし、キューブ内で生活するキャラクターを眺める日もそう遠くはないだろう。

 《ツフト》とロゴの入った天面パネルにトンと触れる。少量のエサを液晶に撒き散らすと、デジタルグラフィックの色鮮やかな熱帯魚たちが、水中の固形物に群がった。

 今度こそと、夏の始まりを蝉の声に聞き、輝く栗色の髪を追いかけた。


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