第24話『還る灯火』
禁足地の森に、濁った鼻息が響いていた。
フゴッ。
フゴッ。
フゴッ。
湿った土を踏み潰し、若木をへし折りながら、不気味な影が森の奥を突き進んでいく。
それは、巨大な犬型のモンスターだった。
ただの犬ではない。
かつて骸黒犬の一部だったもの。
骸黒犬の頭部が分離し、別の眷属として形を与えられたもの。
丈夫な黒皮は剥がれ落ち、代わりに薄紫色の皮膚が全身を覆っている。
そこには、くすんだ黒い斑点が無数に浮かび、湿った腐肉のような鈍い艶があった。
身体は痩せている。
肋骨の形が浮き出るほど細い。
けれど、その四肢は異様に長く、しなやかだった。
身を守るための厚みを削ぎ落とし、速度だけを残したような、歪な体躯。
その背には、上半身裸の男がいた。
センリョウ。
乗っているのではない。
繋がっていた。
腰から下が、犬型の怪物の背肉へ沈み込んでいる。
背骨と背骨を無理やり縫い合わせたように、黒い血管が絡み合い、肉と肉の境目を曖昧にしていた。
センリョウの口元から、白い息が漏れる。
フゴッ。
フゴッ。
フゴッ。
それは犬の鼻息なのか。
センリョウの呼吸なのか。
もはや、判別できなかった。
やがて、森が途切れる。
木々の間を抜けた先に、広い砂利場が開けていた。
その向こう。
岩壁と緑に抱かれるように、蛇骨の里が見える。
角鱗族の民が住む場所。
クマシゲの命を受けた眷属は、そこへ向かっていた。
だが。
センリョウは、足を止めた。
砂利場の中央。
ひとりの男が立っていた。
少年のようにも見える。
腰まで流れる蒼髪。
深藍の民族衣装。
白煙を燻らせる煙管。
薄暗い空気の中で、その青い瞳だけが、異様なほど鮮やかに浮かび上がっていた。
男は静かに煙を吐いた。
ゆらりと白煙が広がる。
「やあ」
クエンティンは、煙管を口元から離した。
「申し訳ないのだがねぇ。ここから先は、通行止めだよ」
フゴッ。
犬型の怪物が、低く唸った。
センリョウの顔が、ぐにゃりと歪む。
それは笑みのようにも見えた。
クエンティンは、小さく溜息をついた。
「吾輩、あまり力仕事は得意ではないのだがね」
☆
骸場。
時刻は昼。
空は灰色に沈み、細かな雨が降り始めていた。
ぽつり。
ぽつり。
雨粒が腐った骨と黒い灰の上へ落ちる。
大穴の周囲には、まだ濃い死臭が漂っていた。
骸場の中央で、ティプスタンは剣と盾を構えていた。
右手には刺突剣、直継。
左手には緋幻紋の丸い小盾。
対峙する相手は、邪骨王と化したクマシゲ。
三メートルを超える巨躯。
全身を覆う歪な骨鎧。
胸元に埋め込まれた、握り拳ほどの闇魔石。
そこから漏れ出す黒い靄が、クマシゲの身体を不気味に包み込んでいる。
インスクリプト・ヴァーミリオンを発動してから、すでに使用時間は過ぎていた。
ティプスタンの身体を包んでいた赤い疑似魔力のオーラは、もう消えている。
胸元にあるマントの留め金具。
その五枚の赤い花弁の一つが、色を失っていた。
今のティプスタンは、生身に近い。
「フッ」
クマシゲの口角が上がった。
骨の鎧の奥で、血走った瞳が細まる。
「この私の姿を見ても逃げないとは。勇敢な少年ですねぇ」
ティプスタンは直継の柄を、ぎゅっと握った。
手のひらが汗で濡れている。
指が震える。
怖い。
それでも。
逃げるわけにはいかなかった。
「ホッホッホッ。私も幼い頃は、物語に出てくるような勇者に憧れたものですよ」
クマシゲは、どこか懐かしむように言った。
だが、その声に温かさはない。
「まあ……現実にはいませんけどね」
クマシゲが、すっと地面へ手をかざした。
バキバキバキッ!
地面から骨が生えた。
白く濁った骨。
獣の骨。
人の骨。
それらが地中から飛び出し、クマシゲの手元へ集まっていく。
骨は絡み合い、噛み合い、巨大な刃を形作った。
骨の大剣。
クマシゲはそれを、片手で軽々と持ち上げた。
「あの頃の自分が、いかに無知で愚かだったのか。あなたを見ていると思いますよ」
ティプスタンは、ぐっとクマシゲを睨んだ。
「僕は、あなたとは違います」
「どうでしょうねぇ」
クマシゲは愉快そうに首を傾げる。
「人は変わるものですから」
「僕は……僕を支えてくれる大切な人を、無下にはしない」
クックック、とクマシゲは喉を鳴らした。
「うんうん。社会を知らないクソガキらしい意見ですねぇ。実に虫唾が走りますよ」
その声が、低くなる。
「まだ裏切られたこともないのでしょう? あなた」
「僕の大切な人は、僕を裏切ったりなんかしない!」
その言葉を聞いた途端、クマシゲは大きく笑った。
骨鎧の隙間から、黒い靄が吹き出す。
「ホッホッホッホッ! いいですねぇ。実にいい」
笑い声が、骸場に響く。
「あなたを骸にしたら、面白そうですねぇ」
ティプスタンの呼吸が止まった。
クマシゲは、楽しそうに続ける。
「あなたを操って、その大切な人を殺せば、もっと面白くなりそうだ」
ティプスタンの栗色の瞳に、怒りが浮かんだ。
「そんなこと……」
直継の切っ先が、わずかに震える。
「絶対に、させるもんかっ!」
ティプスタンは叫んだ。
「インスクリプト・ヴァーミリオン!」
紅の光が脈動する。
赤い疑似魔力がティプスタンの身体へ流れ込む。
脚に力が宿る。
視界が鋭くなる。
心臓の鼓動が、熱を持つ。
ティプスタンは地面を蹴った。
狙うは、胸元。
クマシゲの身体に埋め込まれた闇魔石。
「来なさい」
クマシゲが、骨の大剣を大きく振りかぶった。
グオッ!
大気が唸る。
巨大な骨刃が、ティプスタンへ振り下ろされた。
だが、避けられない速さではない。
ティプスタンは身を沈め、横へ滑る。
ズガンッ!
大剣が地面にめり込んだ。
ティプスタンは、その隙を逃さず懐へ踏み込もうとした。
しかし――
地走骨槍――《ボーンスパイク》
クマシゲが唱えたと同時に、地面に突き立った骨の大剣を起点に、白い亀裂が蜘蛛の巣のように走った。
バキバキバキィッ!!
裂けた地面から、鋭利な骨槍が四方へ一斉に噴き上がる。
「なっ――!」
ティプスタンの背筋が凍った。
速い。
しかも、地面から来る。
予備動作を見て流れを読む暇がない。
咄嗟に丸い小盾を身体の前へ滑り込ませ、急所を庇う。
ギャリィッ!!
突き出した骨槍が盾表面を激しく擦り、火花のような白片を散らした。
衝撃で腕が痺れる。
防ぎ切れない。
左右から突き上がった数本の骨槍が、ティプスタンの脇腹や足元を掠めて抜けた。
ビシッ――と黒い旅装の裾が裂ける。
だが、骨槍は深くは入らなかった。
角鱗族特有の鱗模様が刻まれた装甲布が、突き込まれた衝撃を鈍らせていた。
胸元から腰へ重ねられた鱗布が裂傷を受け止め、革巻きの脚装が骨槍の擦過を逃がす。
ユハから譲り受けた角鱗族の旅装。
軽装でありながら、見た目以上に丈夫だった。
「くっ……!」
受け流しではない。
ただ、反射的に盾を差し込み、装備に助けられながら致命傷だけを防いだだけ。
もし、この装備でなければ。
骨槍はとっくに肉を抉り、脚ごと貫いていた。
そこで、ティプスタンは、ハッとした。
しまった。
槍に気を取られ過ぎた。
クマシゲに、背を向けてしまった。
背後で、骨が軋む音がした。
クマシゲの右腕。
骨と肉が絡み合った異形の腕。
その指先から伸びるモンスターの爪が、ティプスタンの背へ迫っていた。
間に合わない。
そう思った刹那。
詩が、聴こえた。
透き通るような、まっすぐな声。
雨音の中を抜けるように、細く、確かに響く声。
一瞬。
ティプスタンの視界の端で、赤いノイズが奔った。
――ジジッ。
[ External Signal Detected ]
「……っ?」
深紅の文字列は、すぐに消えた。
巡鎮詩――《還浄の詩》
――巡る風よ
乱れた命へ
静かに流れを繋げ
流れる水よ
燃え続ける痛みを
優しくほどけ
終わりを失った炎も
沈み続ける孤独も
巡る時の調べは
やがて穏やかな岸へ還っていく
クマシゲの腕が、ぴたりと止まった。
「うっ……うぐぅ……」
苦しむように、クマシゲの身体が震える。
骨の大剣が、ドスッと地面へ落ちた。
ティプスタンは目を見開く。
ユハさん?
いや、違う。
この声は。
レヴィの声だ。
レヴィが、ユハから教わった『還浄の詩』を歌っている。
少し離れた場所で、茶色の瞳の、褐色で小柄なレヴィが、両手を胸の前で組み、こちらに向かって歌っていた。
赤いバンダナが、雨に濡れた黒髪へ張り付いている。
その隣で、ユハがレヴィを見つめていた。
ユハの瞳が、わずかに震える。
(やはり……この子は、詩紡ぎの……)
今だ!
ティプスタンは地面を蹴った。
クマシゲの懐へ飛び込む。
直継の柄を、掌の中でひねる。
ただ突くだけではない。
力を足から腰へ。
腰から肩へ。
肩から腕へ。
そして、切っ先へ。
回す。
流す。
貫く。
皇流短剣盾術――《廻閃突》
直継の剣先が、クマシゲの胸元を捉えた。
闇魔石。
その中心へ、切っ先が突き込まれる。
キイィィィン!
金切り音が鳴り響いた。
「くっ……硬い……!」
切っ先が止められる。
闇魔石の表面に、わずかな傷すら入らない。
「クソガキがぁ!」
クマシゲが吼えた。
闇魔石から、不気味な黒いオーラが噴き出す。
クマシゲの身体から衝撃波が広がった。
「うっ!」
ティプスタンは、とっさに盾を構えた。
身体ごと押し飛ばされる。
ズザザザッ!
泥混じりの地面を滑り、ティプスタンは膝をついた。
直後。
ティプスタンを包んでいた赤い疑似魔力のオーラが、ふっと消えた。
クマシゲは、血走った目でレヴィを睨む。
「その詩を……」
骨鎧の奥で、怒りが膨れ上がる。
「私の前で……歌うなぁ!」
クマシゲはレヴィへ向けて左手を広げた。
キュイィィィン!
高密度の黒い魔力が、手のひらへ収束していく。
空気が歪む。
雨粒が黒い魔力に触れ、じゅっと音を立てて消えた。
「ま、まずい……」
疑似魔力の再発動には、まだ時間が足りない。
今のティプスタンは、生身も同然だ。
このままでは、レヴィたちが危ない。
レヴィが。
ユハが。
みんなが。
焦りが、胸を締め付ける。
ティプスタンの視界に、赤い走査線が奔った。
「な、なんだ……?」
世界が一瞬、砂嵐のようなノイズに侵される。
――ギィィィン……
耳鳴りにも似た高周波が、脳を震わせた。
「うぅ……!」
ティプスタンは頭を押さえた。
視界が黒く暗転し、漆黒の表示領域が現れる。
そこへ、深紅のコードが高速で流れ始めた。
[ Vermilion Phase-2 Authentication Complete ]
[ External Circulation Connected ]
[ Ability Expansion Approved ]
赤い文字列が、視界の端から端へ流れていく。
その向こうで、レヴィの巡鎮詩が響いていた。
――砕けた願いも
零れ落ちた涙も
閉ざされた夜の底で
なお静かに
次の朝を待っている
歌声に呼応するように。
ドクンッ。
ドクンッ。
深紅の脈動が、ティプスタンの全身を巡った。
黒い視界の中央へ、新たな文字列が浮かび上がる。
[ Resonance Complete ]
無数の赤いコードが視界を埋め尽くした。
[ Phase-2 Pseudo-Circulation Excitation Approved ]
そして、一際強く明滅する文字列が浮かび上がる。
[ Vermilion Resonance ]
視界が戻る。
クマシゲの黒い魔弾が、レヴィたちへ向けられていた。
ヴォン。
ヴォン。
黒い球体が、手のひらの前で不気味に震えている。
ティプスタンは、考えるより先に動いていた。
レヴィたちの前へ飛び出す。
緋幻紋の盾を構える。
「阿呆が……まとめて消え失せろ」
クマシゲが、魔弾を放った。
――ギィンッ、と空気が裂けた。
ティプスタンは盾を構えたまま、静かに口ずさんだ。
「ヴァーミリオン・レゾナンス」
ティプスタンの胸元から、深紅の細い光が放たれた。
それはクマシゲへではない。
レヴィへ伸びた。
細い糸のような赤光が、レヴィの胸元へ触れる。
「……え?」
レヴィが目を見開いた。
ティプスタンの直継と緋幻紋の盾へ、深紅のオーラが流れ込む。
これまでのように、身体だけを包む力ではない。
剣へ。
盾へ。
疑似魔力が流れていく。
それはまるで、イッサが魔導具へ魔力を宿す時のようだった。
制御系。
装備に魔力を纏わせる戦い方。
だが、ティプスタンに魔力はない。
今、それを満たしているのは、ヴァーミリオンが生み出した深紅の疑似魔力だった。
レヴィは、何かを悟ったように息を呑む。
「ティプスタン……」
繋がっている。
言葉にしなくても、分かる。
レヴィは反射的に叫んだ。
防御強化魔法――《グランシェルド》
レヴィの腕輪の魔石が光った。
だが、その効果はレヴィ自身ではなく、遠く離れたティプスタンの身体へ宿った。
翠色の薄い光が、ティプスタンの身体を包み込む。
その刹那。
黒い魔弾が、盾に触れた。
カッ!
緋幻紋が赤く輝く。
レゾナンスによって装備へ宿った《還浄の詩》の破邪の力が、盾の上で共鳴し、黒い魔弾の流れを捻じ曲げていく。
皇流短剣盾術――《破邪・盾刃流し》
魔弾は盾の表面を滑り、ティプスタンの横を抜けた。
レヴィたちのいる位置から大きく外れ、禁足地の森へ飛んでいく。
――ヴォンッ!! ズガァァァン!!
黒い魔弾が着弾した瞬間――大地が爆ぜた。
炎ではない。
黒い衝撃が地面を抉り、木々を根元から吹き飛ばした。
土砂が噴き上がり、森の一角が消し飛ぶ。
「なにっ!」
クマシゲが驚愕の表情を浮かべた。
レヴィは、赤い光の先にいるティプスタンを見つめる。
胸の奥に、ティプスタンの想いが微かに流れ込んでくる。
怖い。
でも、退かない。
そんな感情が、レヴィにも伝わっていた。
レヴィは小さく息を吸う。
速度強化魔法――《グランアクセラ》
腕輪の紫色の魔石から再び光が走った。
その効果は、ティプスタンへと流れる。
脚が軽くなる。
視界の中で、雨粒の落ちる速度が少し遅く見えた。
ヴァーミリオン・レゾナンス。
それは、共鳴した相手の能力を宿すことができる力。
しかし、その力は、相手の能力を奪っているという感覚ではなかった。
レヴィの力が、勝手に流れ込んでくる感覚とも違う。
向こうから手を伸ばしてくれている。
その手を、胸の奥の赤い何かが掴んだ。
ティプスタンには、そんなふうに感じられた。
(ありがとう……レヴィ)
ティプスタンの想いが、レヴィへ届いた。
レヴィは、ぱちくりと目を丸くする。
頬を少し染め、視線をそらすようにして呟く。
(貸しだかんな)
ティプスタンは、クマシゲへ向かって走った。
「くそがぁ!」
クマシゲは地面に落ちていた骨の大剣を掴む。
黒いオーラが、大剣へ流れ込む。
放たれる一刀。
避けない。
今度は、真正面から迎える。
ティプスタンは赤いオーラを宿した緋幻紋の盾を構えた。
盾と大剣が触れた瞬間。
クマシゲの大剣を覆っていた黒いオーラが、ふっと薄れた。
「な、なぜだっ!」
黒い力が乱れる。
装備へ宿った《還浄の詩》の力が、盾を通じて黒い流れをほどいていた。
ティプスタンは、そのまま盾をひねった。
皇流短剣盾術――《破邪・盾刃流し》
ギャリィンッ!
骨の大剣が横へ逸れる。
黒いオーラを失った大剣は、もはや、ただの骨の塊に過ぎなかった。
ティプスタンの勢いは止まらない。
そのまま、クマシゲの懐へ近づく。
クマシゲは左腕を胸元へ構えた。
バキバキバキッ!
左腕に骨が集まる。
瞬く間に、大きな骨の盾が形作られた。
さらに、クマシゲの身体全体が黒いオーラに包まれる。
斬断強化魔法――《グランラッシュエッジ》
レヴィの声が飛ぶ。
キリキリキリ。
直継の刃が鳴った。
刃の輪郭が、深紅と翠の光を帯びて鋭く震える。
レヴィの胸の奥が、強く灼けた。
「くっ……!」
レヴィは胸を押さえ、膝をついた。
赤いバンダナの下で、顔を歪める。
火の精霊イグニスの呪怨。
強化魔法を重ねすぎたことで、胸の奥に眠っていた呪怨が悪化し始めた。
「レヴィちゃん!」
ユハがとっさに還元符を取り出す。
(レヴィ!?)
ティプスタンの想いが、赤い糸を通じて届く。
レヴィは歯を食いしばった。
(大丈夫だ! 構わずいけっ! アニキ!)
ティプスタンは、直継の柄をぎゅっと握りしめた。
レヴィが必死に繋いでくれている。
なら。
今、やるしかない。
「インスクリプト・ヴァーミリオン!」
ティプスタンは、すうっと呼吸を整えた。
深紅の疑似魔力が、再び身体へ巡る。
脚へ。
腰へ。
肩へ。
腕へ。
レゾナンスによって装備へ宿る力。
インスクリプト・ヴァーミリオンによって身体を巡る力。
二つの力が、ひとつに重なる。
今、まさにティプスタンは、制御系と循環系の能力を擬似的に併用した。
足を沈める。
肩の力を抜く。
皇流短剣盾術――
レヴィの強化魔法。
《還浄の詩》の破邪。
ヴァーミリオンの疑似魔力。
すべてが一点へ集まっていく。
『奥義』《閃皇・破邪迅連断》
ティプスタンの姿が、ぶれた。
刹那。
超高速の突きが、連続して放たれる。
――シュドドドドドッ!!
直継の切っ先が、闇の衣を穿つ。
突く。
突く。
突く。
闇を剥がす。
骨の大盾に、無数の亀裂が走る。
ビシッ。
ビシビシビシッ。
「ぐっ……うおぉぉぉ!」
クマシゲが吼える。
だが、止まらない。
ティプスタンの突きは、盾を穿ち続ける。
骨の大盾が、限界を迎えた。
バギィィンッ!
クマシゲの盾は、左腕ごと粉々に砕け散った。
骨片が雨の中へ飛び散る。
ティプスタンはさらに踏み込む。
狙うは、闇魔石。
直継の柄を、掌でひねる。
今度は、ただの廻閃突ではない。
渦を巻くように。
芯へ届くように。
まっすぐに。
皇流短剣盾術――《破邪・廻閃渦貫》
直継の切っ先が、闇魔石へ触れた。
切っ先から、深紅の竜巻のような渦が流れ込む。
コオォォォ!
闇魔石が鳴いた。
まるで、石そのものが叫んでいるような音だった。
闇の衣を剥がされた闇魔石の表面に、深紅の渦が食い込む。
ピシッ!
小さな音が鳴った。
闇魔石に、ヒビが入った。
「やった……!」
ティプスタンが息を呑む。
だが。
その直後。
装備を纏う《還浄の詩》の効果が切れた。
「ぐおぉぉぉ!」
クマシゲの咆哮が、骸場を揺らした。
闇魔石から再び、闇のオーラが噴き出す。
クマシゲの身体から、衝撃波が放たれた。
「うっ……!」
ティプスタンは盾を構える。
だが、押し返される。
身体が浮き、泥の上を転がった。
クマシゲから引き離される。
「私が……」
クマシゲは、砕けた左腕の断面を震わせながら、ティプスタンを見た。
「私が……こんなガキに……」
右腕をティプスタンへ向けて広げる。
黒い魔力が再び集まる。
ティプスタンは立ち上がろうとした。
だが、身体が重い。
ヴァーミリオンの出力が乱れている。
レヴィも限界が近い。
雨音の中へ、新しい詩が流れた。
今度は、レヴィの声ではない。
包み込むような、柔らかく深い声。
ユハの声だった。
――巡る命の環は
決して孤独を置き去りにはしない
傷ついた記憶も
灼きついた痛みも
やがて誰かを守る
小さな優しさへ変わっていく
クマシゲの身体が、ぐらりと揺れた。
「う……ぐ……」
胸元の闇魔石が、今にも砕けそうに軋む。
クマシゲは、ぎろりとユハを睨んだ。
ティプスタンは、すかさずユハを守るように前へ出る。
しかし、身体は限界を迎えていた。
ぼろぼろで傷だらけの少年の膝は震え、肩で息をしている。
クマシゲの瞳の色が、わずかに変わった。
(こいつは、なぜ逃げない?)
震え、怯えながらも。
大切な人を守るために前に出る少年。
その先には。
包み込むような声で、詩を歌うユハ。
かつて、クマシゲが心から欲したものが、そこにあった。
「ぐっ……あぁぁぁぁ!」
クマシゲは震える手を、自分の胸元へ当てた。
闇魔石を掴む。
指が石に食い込む。
メリメリメリッ。
肉が裂ける。
黒い血が流れる。
クマシゲは、握り拳ほどの闇魔石を、自分の身体からえぐり出した。
「なっ……」
ティプスタンは目を見開く。
クマシゲは、その闇魔石を地面へ投げ捨てた。
ひび割れた黒い石が、泥の上に転がる。
クマシゲの胸元の火の呪印から、炎が噴き出した。
赤黒い炎。
胸から、肩へ。
肩から、骨鎧へ。
炎がクマシゲの身体を包んでいく。
「クマシゲさん……?」
ティプスタンが呟く。
炎に包まれながら、クマシゲはティプスタンを見た。
そして、ふっと微笑んだ。
それは、邪骨王の顔に浮かぶには、あまりにも静かな笑みだった。
「あなた……ティプスタン君といいましたかね……」
「は……はい」
「あなたはどうか……そのままでいて下さいね」
クマシゲは、ちらりとユハを見た。
ユハは、歌を止めていた。
瞳を震わせ、炎に包まれるクマシゲを見つめている。
「クマシゲ……ちゃん……?」
その声が、雨に溶けた。
クマシゲは、何かを言おうとした。
だが、言葉にはならなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
そして。
背後の大穴へ、身体を預けるように落ちた。
「クマシゲさんっ!」
ティプスタンは大穴へ駆け寄った。
闇の底へ、炎が落ちていく。
小さな灯のように。
ロウソクの火がふっと消えるように。
その光は、やがて見えなくなった。
☆
落ちていく。
骸場の大穴を、クマシゲは落ちていた。
炎が身体を焼いている。
胸が熱い。
喉が焼ける。
それでも、不思議と痛みは遠かった。
意識が、過去へ沈んでいく――
クマシゲは、詩を歌うことが大好きな少年だった。
刻継の里下層で生まれた。
小太りで、動きは鈍く、鼻は少し吊り上がり、目は細かった。
声も、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
それでも、歌うことが好きだった。
詩を覚えることが好きだった。
誰かのために、声を届けることが好きだった。
いつか。
男でも立派な詩紡ぎになる。
そう、心に決めていた。
「男が詩紡ぎ? 気持ち悪っ」
「その顔と声で詩紡ぎとか……ないわ〜」
「みっともないからやめろ!」
笑う者もいた。
馬鹿にする者もいた。
けれど、クマシゲはめげなかった。
当時、夢中で読んでいた冒険譚の本の主人公は、どれほど周りから馬鹿にされても、決して諦めなかった。
だから、自分も諦めない。
自分も、いつか誰かを支える主人公になる。
勇者のように。
そう思えば、つらくはなかった。
そんな中で、ひとりだけ違う大人がいた。
ユキナガ。
刻継の里上層の里長。
青白い肌と、青い長髪、青灰色の瞳を持つネクロクレイマンの男。
ユキナガだけは、にこにこと笑って言ってくれた。
「それは凄い。楽しみですねぇ」
その一言が、嬉しかった。
胸の奥が、熱くなった。
ユキナガは、自分と自分の夢を馬鹿にはしなかった。
この人を支える立派な詩紡ぎになりたい。
いつしか、そう思うようになった。
クマシゲは必死に詩を練習した。
同時に、ユキナガを支えるため、役人の仕事も学ぼうとした。
ある日。
ユキナガの紹介で、角鱗族の詩紡ぎだという歌姫に会うことができた。
柔らかな雰囲気の女性だった。
ふくよかで、あたたかくて。
声は、水のように優しかった。
クマシゲは、その人に相談した。
自分の声が嫌いだと。
詩紡ぎになりたいのに、自分の声では誰も聞いてくれないのではないかと。
歌姫は、少しだけ考え、それから微笑んだ。
「クマシゲちゃん。詩っていうのはね。心で歌うんだよ」
「心で……?」
「そう。大切な人を心から想って歌えば、それで良い。それが良いの」
「想うって、恋人みたいな感じですか?」
「う〜ん……どっちかっていうと、大切な人の幸せを心から願う感じね」
その言葉を、クマシゲはずっと覚えていた。
覚えていたはずだった。
大穴を落ちながら、クマシゲは小さく呟いた。
「ああ……」
炎の中で、声が漏れる。
「あの時の歌姫は、ユハ様でしたか……」
不思議なものですねぇ。
そう呟こうとして、喉が鳴らなかった。
(まあ……ユハ様も、私のことなんて覚えていないようでしたし……)
お互い様ですね。
そう思った。
記憶は、さらに流れる――
変わらず、クマシゲを馬鹿にする者は多かった。
コイツには、何を言ってもいい。
コイツなら、何をしてもいい。
みんなが馬鹿にしているなら、自分も馬鹿にしても許される。
そんな空気が、周りに漂っていた。
ある日。
クマシゲの食事に、毒草を混ぜた者たちがいた。
口に含むと、軽い麻痺状態になる毒草。
子供たちは遊びで、葉を一枚だけ口に含んで、よく遊んでいた。
だが、量を間違えれば危険な草だった。
彼らは知らなかった。
いや。
知ろうとしなかった。
毒草の葉をすり潰し、どろりとした液体をクマシゲの食事へ混ぜた。
その日から。
クマシゲは、歌えなくなった。
喉が焼けるように痛み、声が潰れた。
声にならない声で泣き叫んだ。
もう一度歌いたい。
もう一度、詩を口ずさみたい。
そう願っても、喉は戻らなかった。
それでも、時は残酷に流れた。
クマシゲは、詩紡ぎになる夢を失った。
だが、ユキナガを支えるという目標だけは捨てなかった。
死に物狂いで学んだ。
何かに取り憑かれたように、座学を学び、里の仕組みを理解した。
そして、十五歳という若さで、上層の役人へとのし上がった。
そこで、気づいた。
今まで自分を馬鹿にしてきた連中が、手のひらを返すように頭を下げてきた。
「クマシゲ様」
「クマシゲ様、さすがです」
「昔から、あなたは違うと思っておりました」
作り笑顔。
算段の滲む媚び。
魂胆の透けた称賛。
すべてが気持ち悪かった。
(なんだ? こいつらは)
(こんな奴らに……私は夢を奪われたのか?)
怒りが込み上げた。
詩を失ったクマシゲには、歪な目標だけが残った。
ユキナガ様を支える。
ユキナガ様に認められる。
そのためなら、何でもする。
刻継の里の民を想う気持ちは、いつの間にか心から消えていた。
そんなある時。
禁足地調査で向かった、円環の石畳のある遺跡で、クマシゲは二人の男に出会った。
ひとりは、赤銅色の肌と深紅の瞳を持つアルギオンの老人。
長い白髪と白髭。
片眼鏡。
杖をつき、腰を曲げた、弱々しい老爺の姿。
だが、その場に立つだけで、空気が重く沈むような異様な存在感を放っていた。
名を、ラウンセン。
もうひとりは、その背後に控える青年。
褐色の肌。
鋭い茶色の瞳。
人形のように、感情を失った顔で、静かに立っていた。
カグロイ。
ラウンセンは、クマシゲに魔石を用いた技術を提供した。
その代わりに、禁忌石の生成を命じた。
カグロイは監視役として、クマシゲの部下となった。
のちにカグロイは、屍術師としての技術と知識をクマシゲに与えた。
魔石技術は革新的だった。
水路。運搬。防衛。採掘。薬草加工。
刻継の里の生活水準は、飛躍的に向上した。
クマシゲは一気に出世した。
誰もが、クマシゲを一目置くようになった。
もはや、クマシゲに逆らう者など里にはいなくなった。
だが。
そんな時、ユキナガが病に倒れた。
「禁忌石は、どんな願いも叶える」
ラウンセンは、そう言った。
クマシゲは禁忌石生成を急いだ。
だが、間に合わなかった。
ユキナガは死んだ。
クマシゲは、ユキナガの死体を残した。
いつか、禁忌石で完全に生き返らせるために。
ユキナガを上層の里長として祀り続けた。
死体を操り、里を支配した。
下層が病で苦しもうが。
五精霊の呪怨に侵されようが。
クマシゲは何とも思わなかった。
それは、ユキナガへの生贄だと思っていた。
やがて、クマシゲ自身も火の呪怨に侵された。
胸を灼く痛み。
止まらない熱。
身体の奥で燃え続ける炎。
その苦痛から逃れるため、さらに禁忌石へ執着した。
魔石生成を理由に、モンスターを討伐した。
病や呪怨で倒れた者たちを、大穴へ捨てた。
骸場は、ちょうどよい処分場だった。
同時に、屍術師としての経験を積むには、最適な場所だった。
人間に限らず。
モンスターの解剖を繰り返し、死体を操り、構造を学んだ。
知識と経験を積み重ねるたびに、クマシゲは自分の人生の最初の目標を、押し殺すように忘れていった。
そして。
邪の道へ進んだ。
だが――
ティプスタンの姿を見た。
震えながらも、大切な人のために、前に出る少年。
ユハの詩を聞いた。
大切な人の幸せを願う詩。
その二つが、クマシゲの奥底に沈んでいたものを呼び起こした。
なぜ、自分はこっち側にいる?
私は……彼らのようになりたかったのではないのか?
その疑問が、クマシゲを最後に人として繋ぎ止めた。
落ちていく。
炎に包まれながら。
骸場の大穴を。
クマシゲは、幼い頃に夢中で読んだ冒険譚を思い出していた。
「勇者か……」
焼けた喉で、かすれた声が漏れる。
「勇者ティプスタン……」
クマシゲは、ふっと笑った。
「カッコイイじゃあないですか」
そして。
かつてユハから教わった還浄の詩を、声にならない声で口ずさんだ。
――眠れ 迷い子
止まった願いも
閉ざされた運命も
巡る風は静かに動かし
流れる水は優しく抱いていく
燃え盛る身体は、大穴の闇へと消えていった。
☆
蛇骨の里周辺。
青白い煙とも霧とも思えるものが、砂利場に漂っていた。
雨粒がその霧に触れるたび、じゅっと小さな音を立てて消える。
その中央に、センリョウは立っていた。
いや。
立っているように見えた。
薄紫の皮膚も。
黒い斑点も。
背に繋がった犬型の身体も。
すべてが、白く凍りついていた。
雨粒がその身体に当たり、そこから僅かな煙が立つ。
まるで、ドライアイスの彫刻のようだった。
その少し離れた場所に、クエンティンが立っている。
蒼髪が雨に濡れ、深藍の衣が風に揺れていた。
彼は煙管をくわえ、静かに青い瞳を細めている。
「う〜む」
クエンティンは、煙を吐いた。
「少々冷やしすぎたかねぇ」
強い風が吹いた。
凍りついたセンリョウの身体が、ぐらりと揺れる。
傾く。
そして――
――パキィィンッ!! ガシャァァァン!!
氷像となった身体が、粉々に砕け散った。
薄紫の皮膚も。
黒い斑点も。
犬型の胴体も。
すべてが氷片となって、砂利場へ散らばる。
そこから、ゆらゆらと、青い煙が四方から集まってきた。
「おやおや?」
青い煙は、ゆっくりとクエンティンに向かってきた。
煙がクエンティンを覆い尽くそうとした時だった。
シュルルルル……。
まるで吸い込まれるように、クエンティンの手のひらに青い煙が収束していく。
その手のひらには、小さな卵型の遺物――覇王の卵。
それは、まるで生き物のように、脈動した後、ゆっくりと静まっていった。
クエンティンはそれを見届けると、卵を懐にしまい、煙管をゆっくりと吸った。
「さて、と」
白煙が、口元から流れる。
「向こうも、無事に終わっていると良いのだがねぇ」
雨は、さらに強くなっていく。
骸場。
蛇骨の里。
刻継の里。
玄冥郷に降る雨は、積もり続けた淀みを洗い流すように、静かに大地を濡らしていた。
☆25話に続く☆




