第40話 母の国へ
馬車が、真横に並んだ。
激しく蹄を打ち鳴らしながら、もう一台が隣を走る。
距離は、もはや逃げ場と呼べるほどもない。
窓越しに、御者台の影がはっきりと見える。
木枠が軋み、風を裂く音が重なった。
その瞬間――
リリスの身体が強く跳ねた。
伏せていた耳が一気に立ち上がり、淡い紫の瞳が見開かれる。
視線は、隣の馬車へ。
◆
揺れる車内。
護衛に囲まれて座る、一人の女性。
白銀の長い髪が、揺れに合わせて静かに流れる。
毛先には、淡い紫が溶け込むように滲んでいた。
頭には白銀の狐耳。
耳先だけが、わずかに紫を帯びている。
氷紫の瞳が、こちらを見た。
穏やかで柔らかい。
だが、ただの貴婦人ではない。
腰の後ろで揺れたのは、一本の白銀の尾。
ミストフォルン王族。
白銀狐の獣人――エルフィナ。
その姿を認めた瞬間、リリスの呼吸が止まった。
「……っ」
喉が震え、言葉にならない音が漏れる。
「お母様――!!」
叫びが、夜明け前の空気を裂いた。
リアンは、はっとして隣を見る。
リリスは座席から身を乗り出し、窓の外を見つめていた。
恐怖でも怒りでもない。
混乱と、切実な渇望。
リアンは視線を隣の馬車へ向ける。
窓越しに、女性と目が合った。
気品のある面差し。
その瞳に浮かんだのは、明らかな動揺。
(……エルフィナ)
名前が胸の奥で形を取る。
アルシェ家の後妻。
リリスの母。
御者台から、鋭く息を呑む気配が伝わった。
「――アルシェ家の馬車だ」
クラウスの低い声が緊張を帯びる。
馬具の意匠。
車体に刻まれた紋章。
見間違えるはずがない。
「止まれ!!
エルフィナ、馬車を止めろ!!」
手綱が強く引かれ、馬が嘶く。
並走していた二台の馬車が、ゆるやかに速度を落とす。
追っ手ではない。
敵意をもって追ってきたわけでもない。
あの馬車にいるのは――家族だ。
リアンは、胸に溜めていた息を、静かに吐いた。
やがて、二台の馬車はゆるやかに速度を落とした。
土煙が静まり、張り詰めていた空気がわずかにほどける。
クラウスが御者台から降りる。
同時に、隣の馬車の扉が静かに開いた。
先に護衛が地に降り立ち、周囲を確認する。
その後ろから、ゆっくりと一人の女性が姿を現した。
白銀の髪が朝の淡い光を受け、月光のように揺れる。
長い睫毛の下で、氷紫の瞳がこちらを捉えた。
エルフィナは地に足を下ろすと、ゆっくりと顔を上げた。
すぐ前に停まる馬車。
その扉の奥に、リアンの姿がある。
氷紫の瞳が、静かに揺れた。
その視線が、リアンの姿で止まる。
リアンは、ティアラの方へ一瞬視線を向ける。
「少し待っていてくれ」
小さく告げると、ティアラは不安そうに頷いた。
リアンは馬車を降りる。
続いてリリス、ユラも地面へ。
リリスは、躊躇いなくエルフィナへ駆け寄った。
「お母様……どうしてここに?」
その声には、再会の喜びと戸惑いが混じっている。
エルフィナは、わずかに息を整えた。
そして、王族としての静かな面差しを取り戻す。
「王命を受け、ミストフォルンへ向かっている途中なの」
それ以上は語らない。
だが、氷紫の瞳は一人ひとりを確かめるように見つめていた。
「あなたたちは……なぜここに?」
問いは穏やかだが、鋭い。
クラウスが一歩前に出る。
「ミストフォルンへ向かう途中だった」
短く、余計なことは言わない。
エルフィナの視線が、静かに移る。
馬車の窓の奥。
薄く身を横たえるティアラの姿。
その気配の弱さに、わずかに眉が寄った。
リリスが言う。
「お母様、ティアラの体調が良くないの」
エルフィナは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
何かを察したように。
「……そう。ならば、しばらくミストフォルンの王城で休むといいわ」
その声音は柔らかい。
だがリアンにはわかった。
これは、ただの厚意ではない。
そして、ゆっくりと視線を横へ。
ルカへ向けられる。
「そちらの方は……?」
静かな問い。
ルカは、にこりと笑った。
「僕はリアンたちの友達だよ」
一瞬。
空気が止まる。
リアンとクラウスが同時にルカを見る。
驚き。
だがすぐに、その意味を理解する。
王子と名乗れば、事は外交問題になる。
今はまだ、隠すべきだ。
エルフィナの瞳が、わずかに細められる。
その一瞬だけ、空気が冷えた。
だが追及はしない。
「……そう」
風が、静かに草を揺らす。
そしてエルフィナは、改めてリアンを見る。
「話は、城で聞きましょう」
穏やかな声音。
だが、逃げ場はない。
リアンは小さく頷いた。
「……わかりました」
エルフィナは、わずかに微笑んだ。
「行きましょう。ミストフォルンは、すぐそこです」
再び馬車へ。
二台は並び、霧の向こうの国境へと進み出す。
◆
国境を越えた瞬間、空気が変わった。
湿り気を帯びた森の匂いが、ゆるやかに馬車を包む。
深く、やわらかな緑の気配。
街道脇に立つ兵は槍を携えているが、視線は鋭くない。
問いかけるように、静かに通り過ぎる馬車を見送っている。
やがて車輪が石畳へと乗った。
城下町には露店が並び、石と木を組み合わせた家々が寄り添うように続く。
灰緑や深い土色の壁が、森の色と溶け合っていた。
獣耳の子どもが駆け抜ける。
尾を揺らして笑う少女。
人と獣人が、自然に肩を並べて歩いている。
リリスの視線が、落ち着かなく揺れた。
きらめきではない。
けれど、行き交う耳や尾に、何度も目が引き寄せられる。
街並みの一つひとつを確かめるように、視線が動く。
母の母国。
けれど、自分は初めて訪れる国。
胸の奥に、小さな波が立つ。
それを抑えるように、リリスは唇を結んだ。
ルカは窓の外を興味深そうに見つめている。
森と町が溶け合う景色に、隠しきれない好奇心が滲む。
クラウスは無言で周囲を観察していた。
兵の配置。
城壁と地形の関係。
防備は整っているが、閉ざされてはいない。
その均衡を、静かに見極めている。
リアンは、ほとんど景色を見ていなかった。
視線は馬車の奥。
横たわるティアラの呼吸を確かめる。
(……もう少しだ)
胸の内で呟き、再びその寝顔へ目を落とす。
時折、窓の外へ視線を向ける。
だがそれは景色を楽しむためではない。
危険がないかを確かめるだけだ。
やがて馬車は、なだらかな丘を登りはじめる。
城は町を見下ろしてはいない。
包み込むように、背後から支えている。
霧が、ゆるやかに流れた。
その向こうに、灰緑の城壁が浮かび上がる。
白ではない。
土と森の色をまとった城。
なだらかな高台に、曲線を描く塔が重なる。
それは空を刺すのではなく、大地から生えたかのように佇んでいた。
ミストフォルン王城。
巨大な門が目前に迫る。
石と木を組み合わせた重厚な扉。
蔦の彫刻が、柔らかな曲線を描いている。
静寂をまとった門が、ゆっくりと軋みをあげた。
重厚な扉が、内側から押し開かれていく。
霧が、わずかに流れ込む。
――門が、開いた。




