第25話 崩れる結界、繋がる真実
――その頃。
王宮で光が閉じた、ほぼ同じ時刻。
最初に異変に気づいたのは、アルバートだった。
胸の奥を、針でなぞられたような痛みが走る。
それが何を意味するか、考えるまでもなかった。
屋敷を包んできた結界が――
外側から、削られている。
破壊ではない。
衝突でもない。
精密に、静かに、存在を薄くされていく感覚。
「……来たか」
呟きは、息と同じ高さで零れた。
窓の外は変わらず静かだった。
風もない。
足音もない。
だからこそ、異常だった。
結界が削られているのに、何も起きていない。
音がない。
兆候がない。
敵が、姿を見せる気がない。
アルバートは、ゆっくりと息を吐いた。
夜織。
その名が、思考の底に沈む。
同時に、ユラも気づいていた。
空気が、薄く歪んでいる。
夜織が――
捕縛に動いた。
標的は一人。
精霊の少女、ティアラ。
「エルフィナ」
アルバートは、即座に名を呼んだ。
「使用人たちは、屋敷地下の避難区画へ。結界の内側に集めて、そのまま、守ってくれ」
指示は短く、断定的だった。
迷わせる時間はない。
問い返しも、必要なかった。
エルフィナは一瞬だけ唇を噛み、それから深く、強く頷いた。
「了解しました」
踵を返す音が、やけに大きく響いた。
アルバートは屋敷中央へと歩み出る。
両手を広げ、結界へ意識を集中させた。
――クラウスが張った結界。
若いが、精度が高い。
厚く、無駄がなく、本来なら、夜織を足止めできるはずの強度。
――だが。
「……っ」
触れた瞬間、悟ってしまった。
足りない。
強度ではない。
構造でもない。
質が、違う。
クラウス以上の結界を、今の自分は張れない。
魔力の密度が、すでに限界域にある。
補強しようとした箇所から、
逆に歪みが広がっていく。
光の膜に、細い亀裂が走る。
一筋。
また一筋。
蜘蛛の巣のように、静かに、確実に。
「っ……!」
呼吸が、わずかに乱れる。
肩が小さく上下し、指先に力が入る。
踏み出しかけた足が、止まったまま動かない。
唇が、かすかに震えた。
息が、浅くなる。
その瞬間だった。
リリスが、迷いなく一歩前に出た。
小さな身体が、反射的にティアラの前へ滑り込む。
盾になるつもりだった。
考えではなく、身体がそう動いた。
「ティアラ……」
声は、震えていない。
けれど、震えを押し殺しているのが、はっきりと分かった。
「お母様のところへ行って。一緒に隠れていて」
少しだけ、言葉を探す。
「……ここは、私が――」
ティアラは、静かに首を振った。
「いいえ」
小さな声。
けれど、曖昧さはなかった。
リリスが、思わず振り返る。
「私は……隠れない」
胸の前で、指を握りしめる。
白い指先が、僅かに震えた。
「逃げたくないの」
その言葉に、結界が――応えるように軋んだ
結界が、悲鳴を上げる。
音ではなかった。
圧でもなかった。
――成立が、崩れる感覚。
光の膜が、耐えきれずに歪み、次の瞬間、内側へと沈み込むように砕けた。
爆発ではない。
光が、吸い取られる。
空気が、一瞬の空白を置いて戻り、屋敷全体が、肺を潰されたように軋んだ。
壁が、内側から押し開かれる。
音を立てず、影だけが流れ込んでくる。
黒。
黒。
黒。
夜織。
侵入ではない。
処理開始だった。
その先頭に立つ男だけが、走らなかった。
一歩。
床を踏む音は、やけに静かだった。
漆黒の髪。
夜を吸い込むような黒が、輪郭だけを残して浮かび上がる。
灰銀色の瞳。
生き物を見る色ではない。
対象を確認するための金属の光。
視線が、屋敷の中央を一巡する。
アルバート。
リリス。
ティアラ。
ユラ。
――感情は、そこになかった。
「……夜織副隊長、カイ」
名乗りは、儀式のようだった。
「精霊の少女を引き渡してください」
声は低く、平坦。
怒気も、威圧も、焦りもない。
ただ、成功率を告げる声。
「それが確認でき次第、この場は終了します」
一瞬の処理のあと、カイの瞳が、ティアラに定まる。
「拒否が選択される場合」
ほんの僅か、首が傾いた。
「――排除工程に移行します」
脅しではなかった。
宣告ですらない。
次の手順だった。
その場の空気が、沈む。
音が、一段落ちる。
ユラが、無意識に一歩踏み出しかけ――
その動きが、途中で鈍った。
「……っ」
身体が、重い。
術式が、指先で組み上がらない。
カイが、踏み込んでいた。
たった一歩。
それだけで、空間が変質する。
――《夜織・零式封鎖》。
攻撃ではない。
破壊でもない。
成立しない状態が、周囲に敷き詰められる。
魔力の流れが、遅れる。
判断と反射が、噛み合わない。
結界を張ろうとしたアルバートの手が、空を切る。
――失敗。
最初から、成功の目が存在しない。
カイは、その様子を一瞥しただけだった。
「……抵抗の兆候を確認」
淡々と、事実を処理する。
次の瞬間。
黒い影が、アルバートの目前にあった。
「《無名処断》」
技名だけが、落ちる。
踏み込み。
それだけ。
剣は、見えなかった。
斬撃も、感じなかった。
――なのに。
アルバートの身体から、力が抜け落ちる。
魔力循環。
身体制御。
意思の接続。
すべてが、同時に断たれる。
膝が、床に触れた。
痛みは、ない。
動けない。
その結果だけが、そこにあった。
カイは、もう見ていなかった。
倒れた存在は、
すでに盤面から外れている。
次に視線が向く。
――ティアラ。
その瞬間、リリスが前に出る。
小さな背中が、精霊の少女を覆い隠す。
カイの瞳が、僅かに細まる。
判断。
犠牲数。
成功率。
感情ではなく、計算。
「……保護対象、確保可能」
静かに、告げた。
◆
光が、閉じている。
王家封蔵庫。
クラウスは、肌で理解していた。
――屋敷の結界が、完全に破壊された。
「……くそっ」
光の檻から抜け出そうと、力を解放する。
だが。
結界は、揺らぎすら見せない。
ヒビひとつ、走らない。
「っ……!」
もう一度。
さらに、もう一度。
衝撃が封蔵庫を打ち、壁龕が震え、古い書物が次々と床へ落ちる。
鈍く、乾いた音。
「っ」
リアンの肩に、硬い感触。
足元へ転がった書物が、衝撃で開かれる。
リアンは、無意識に視線を落とした。
――その瞬間、思考が止まる。
そこにあったのは、家系図。
アストラル王国
国王 ヴァレスト
第六王妃 リュミエル 死亡
長女 死亡
長男 レイヴン
次男 リアン 死亡
――死亡。
文字が、視界の中心で歪む。
心臓の音だけが、やけに大きい。
夜織襲撃の夜。
第七王子と呼ばれた、自分。
アルバートが、いつも核心を語らなかった理由。
精霊王の言葉。
――「権力の内側を知る者のものだ」
すべてが、一本の線で繋がった。
――俺は。
息が、浅くなる。
クラウスは、リアンの異変に気づき、視線を追う。
そして、一瞬で理解してしまった。
――昔の記憶が、脳裏に滲む。
まだ、クラウスが二歳だった頃。
病弱だった母が、ある日、静かに赤ん坊を抱いていた。
淡い光を映す湖畔の部屋。
窓辺に立つ母の髪は、深い栗色で、柔らかな波を描いていた。
淡色のドレスは装飾が少なく、けれど不思議と品があった。
振り返った母の瞳は、淡い琥珀色。
いつものように、穏やかな微笑みを浮かべている。
その腕の中で、赤ん坊が抱かれていた。
湖の光を反射して、透き通るような青い瞳だけが、はっきりと記憶に残っている。
「クラウス、今日からお兄ちゃんよ」
声は静かで、押しつける響きがなかった。
命令でも、願いでもない。
ただ、事実を告げるような口調。
「リアンを、守ってあげてね」
それ以上、何も言わなかった。
守れとも、犠牲になれとも、責任を負えとも言わない。
――でも。
その沈黙の奥に、どれほど重い意味が込められているかを、クラウスは幼いながらに、理解してしまった。
小さな指先。
折れてしまいそうで、触れることをためらった。
それでも、赤ん坊は屈託なく笑った。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
消えない感触が、そこに残った。
それは、教えられた言葉ではなかった。
母の視線が、そう思わせた。
重要なことほど、言葉にしない。
答えは、自分で選び取れ。
それが、リディア・アルシェという女性のやり方だった。
それからずっと。
クラウスは、兄として生きてきた。
血の繋がりが、近くはないことも、わかっていた。
けれど、共に過ごした年月が、すべてだった。
――今のリアンは。
この事実を、受け止められているのか。
光の檻の中。
脱出は、不可能。
クラウスは、歯を食いしばり、思考を巡らせる。
アルシェ家では、夜織副隊長カイが動いている。
感情を削ぎ落とした処刑具。
盤面しか見ない男。
そして今、
盤面の中心に並び始めているのは、リアンとティアラだった。




