第24話 精霊核の悲鳴
ティアラの身体から、力が抜けていく。
「……ティアラ様」
白金の翼が、崩れていく。
零れた光粒が、
音もなく消えていた。
ユラは、ティアラの右胸へ視線を落とした。
服越しに滲む白金の光。
それは、
壊れかけた心臓みたいに脈打っていた。
その中心に。
薄く。
けれど確かに、亀裂が走っていた。
「……精霊核に、ひびが……」
間に合わなかった。
その事実だけが、
喉の奥へ、冷たく落ちた。
息が、止まる。
ユラの頭の中が、真っ白になった。
精霊核の損傷。
それが意味するものを、ユラは知っている。
最悪の場合。
ティアラは――。
『――留守の間、家のことを頼む』
低い声が、脳裏に響いた。
振り返らないまま告げられた言葉。
命令じゃない。
信じて、預けられた。
だから。
壊させるわけには、いかなかった。
胸の奥で。
何かが、弾けた。
ユラは、そっとティアラを床へ横たえる。
壊れ物に触れるみたいに、静かに。
そして。
ゆっくりと、立ち上がった。
銀青の瞳が、カイを捉える。
「精霊を引き渡してください」
感情のない声。
まるで。
決められた手順を読み上げるみたいに。
ユラは、一歩前へ出た。
「……ここから先は、通さない」
ユラの背後で、黒い影が揺らめく。
空気が、沈んだ。
夜織の隊員たちが、同時に殺気を放つ。
ユラは、迷わず詠唱へ入った。
「――影よ、我が足となれ」
床へ広がった影が、波紋みたいに揺れる。
次の瞬間。
ユラの姿が、掻き消えた。
――違う。
一人じゃない。
右。
左。
背後。
三人のユラが、同時に現れる。
黒と白のメイド服が、視界を裂くように翻った。
どれが本物か、分からない。
カイを囲むように、分身たちが一斉に踏み込む。
「――夜は、刃を拒まない」
低い詠唱。
斬撃が、同時に走った。
夜織の隊員が二人、崩れ落ちる。
急所は外れている。
殺していない。
止めるためだけの斬撃。
だが。
カイだけは、動かない。
「あなたは――どちら側なのですか?」
淡々とした声。
その瞬間。
空気が、鳴った。
「っ――!」
見えない斬撃が、ユラの肩口を裂く。
血が、宙へ散った。
分身の一体が、音もなく掻き消える。
それでも。
ユラは止まらない。
床を強く蹴り、
本体が、一気にカイとの距離を詰める。
「――守る側に立った時点で」
カイの声が、静かに落ちる。
「あなたは、夜織ではない」
その言葉は、
斬撃より深く、胸へ入った。
否定されたのは、
立場じゃなかった。
一瞬。
ユラの動きが、止まる。
『――留守の間、家のことを頼む』
脳裏に蘇る。
ぶっきらぼうで。
不器用で。
それでも。
確かに信じて託された声。
残っていた分身が、わずかに揺らいだ。
ユラは、ゆっくり息を吐く。
「……それでいい」
怖かった。
今から自分が、
帰れない側へ立つことを、
ユラは分かっていた。
それでも。
短剣を、握り直す。
「私は、選んだ」
その瞬間。
炎が、横から爆ぜた。
「ティアラを……連れていかないでぇッ!!」
リリスだった。
尾の炎紋が、真紅に染まっている。
狐火が、一斉に空間を埋め尽くした。
「燈狐乱牙――!!」
牙のような炎が、四方からカイへ喰らいつく。
逃がさない。
噛み砕くためだけの殺意。
同時に。
空間へ黒い亀裂が走った。
「虚界穿孔」
アルバートの低い声。
裂け目の奥から、白い光槍が撃ち出される。
狐火を縫うように。
一直線に、カイの急所へ。
二方向同時。
回避を許さない挟撃。
轟音が、広間を揺らした。
爆炎。
衝撃。
砕け散る床石。
熱風が吹き荒れる。
誰も、動かなかった。
ただ。
煙だけが、揺れている。
その奥から。
黒い影が、ゆっくり現れた。
カイだった。
肩口が裂けている。
黒衣が焼け焦げている。
血も流れていた。
なのに。
カイは、歩いてくる。
「損傷率、軽微」
感情のない声。
「任務継続に支障なし」
リリスの呼吸が、止まる。
アルバートの指先が、微かに震えた。
倒したはずだった。
なのに。
カイは、歩いてくる。
一定の速度で。
何一つ変わらないまま。
まるで。
目の前の攻撃など、存在しなかったみたいに。
カイが、踏み込んでいた。
たった一歩。
それだけで、空間が沈む。
「――《夜織・零式封鎖》」
音が、落ちた。
息苦しい。
空気が重い。
違う。
空間そのものが、噛み合わなくなっている。
魔力が、流れない。
思考と身体が、繋がらない。
「……っ」
アルバートが、術式を展開する。
光陣が浮かぶ。
――崩れた。
「な……」
発動しない。
術式が、成立する前に壊される。
リリスの狐火も、不安定に揺らいだ。
燃え上がるはずの炎が、空中で掻き消える。
「ぁ……」
尾が、震える。
力が、入らない。
アルバートの膝が、わずかに沈む。
リリスも、
尾を支えにするように息を乱した。
カイだけが、変わらない。
灰銀色の瞳が、静かに三人を見ていた。
だが。
ユラだけが、動いていた。
床を蹴る。
零式封鎖が閉じ切る、その寸前。
ユラの身体が、一気に跳び上がる。
黒と白のメイド服が、宙を翻った。
ユラが、カイの頭上を越える。
そのまま。
背後へ着地。
握られた短剣が、静かに振り抜かれる。
「……終わりです」
ユラの低い声と同時に、
《無音斬》が走った。
音もなく。
短剣が、カイの首元を裂く。
――斬った。
確かに、そう見えた。
だが。
斬った感触が、ない。
遅れて。
背筋が、冷えた。
「――っ」
ユラの斬撃だけが、空を裂いた。
横。
気づいた時には、もういた。
カイが、ユラの隣へ立っている。
灰銀色の瞳が、静かに向けられた。
「遅い」
避けたはずだった。
そう思った時には、
もう、斬られていた。
遅れて。
肩口から、血が噴いた。
鮮血が、宙へ散った。
「……っ、ぁ……!」
何をされたのか、分からない。
斬られた感覚だけが、遅れて神経を焼く。
体勢が、崩れる。
カイが、静かに踏み込む。
「《無名処断》」
それだけだった。
なのに。
ユラの身体が、止まる。
「……ぁ……?」
魔力が、繋がらない。
身体が、
自分のものじゃなくなる。
指先の感覚が、消えていく。
まるで他人のものみたいだった。
分身が、崩れる。
身体と意思の間へ、
何かを差し込まれたみたいだった。
立っている感覚だけが、遠ざかっていく。
膝が、落ちた。
その瞬間。
黒が、閃いた。
「――っ!」
ユラの右腕が、深く裂ける。
血が、床へ散った。
遅れて、激痛が走る。
力の入らなくなった腕から、
短剣が滑り落ちた。
乾いた音を立て、
刃が、床を転がる。
ユラの膝が、床へ落ちる。
もう。
力が、入らない。
立たなきゃいけないのに。
カイが、見下ろす。
「……隊長」
感情のない声。
「もう、終わりです」
ユラは、動けない。
リリスも。
アルバートも。
立ち上がれない。
カイは、ティアラへ視線を向けた。
透明な結界が、まだ彼女を包んでいる。
アルバートの術式。
カイは、無造作に手を伸ばす。
触れた。
瞬間。
結界表面へ、亀裂が走る。
硝子みたいな音を立て、
結界が、砕け散った。
「……っ」
アルバートの喉が、震える。
夜織の隊員たちが、慎重にティアラへ近づいていく。
壊れ物を扱うみたいに。
そっと。
その身体を、抱え上げた。
連れていかれる。
視界の中で。
なのに。
指一本、
届かなかった。
精霊の少女は、軽かった。
白銀の髪が、力なく揺れる。
カイは、ティアラの首元へ触れる。
呼吸を確認するみたいに。
数秒。
そして、小さく頷いた。
「……確保完了」
その言葉だけで。
ティアラが、
“物”になった気がした。
名前じゃ、なくなった。
撤収の合図。
夜織が、影のように引いていく。
広間に残されたのは、
砕けた床と、
血の匂いと――
ティアラがいた場所だけだった。
アルバートは、動けないまま、それを見ていた。
ユラは、膝をついたまま、歯を噛み締める。
守れなかった。
選んだ結果が、これだった。
その少し後ろで。
リリスは、立ち尽くしていた。
床に残る、何もない空間。
確かに。
そこにあったはずの温度だけが、
まだ消えずに残っている。
白銀の尾が、途中で止まる。
怒りなのか。
悲しみなのか。
もう、分からなかった。
『――留守の間、皆を守ってほしい』
脳裏に、あの夜の声が蘇る。
『――リリスがいるから、安心して俺は行けるんだ』
――守れなかった。
約束したのに。
伸ばした指先は、
空を掴むだけだった。
そこにいたはずなのに。
もう、届かなかった。
視界が、滲む。
堪えようとしたものが、
静かに崩れた。
白い床へ、
一筋、雫が落ちる。
「……リアンお兄様……ごめんなさい」
返事は、なかった。
もう、いない。
なのに。
温度だけが、残っていた。
◆
その頃。
王家封蔵庫。
光の檻の中で、リアンの身体に異変が走った。
胸の奥を、鋭い痛みが貫く。
思わず息を詰めた、その瞬間。
手のひらから、淡い光の粒が零れ落ちた。
光は散らない。
まるで何かに呼ばれるように、
アルシェ家の方角へ流れていく。
胸を押さえる。
冷たい。
心臓だけ、
取り残されたみたいだった。
何かが、
遠くで失われていく。
違う。
壊れているのは、
向こうじゃない。
自分の感覚から、
何かが抜け落ちていく。
息の仕方すら、
分からなくなっていた。
……嫌な予感が、胸に沈む。
名前を呼ぼうとして、
喉が、閉じた。
呼べば。
認めてしまう気がした。
――ティアラ。
答えは、返らない。
最初から、
繋がってすらいなかった。
それでも。
リアンは、立ち上がる。
――間に合え。
それ以外、
もう考えられなかった。




