第23話 静かな来訪者
夜の名残がまだ屋敷に沈んでいるころ。
アルシェ家の結界が、わずかに波打った。
それは、いつもの光の転移ではなかった。
正面から、正規の通過手順を踏んだ反応だった。
それでも、屋敷の空気は一瞬、張りつめる。
応接間に通されたその人物を見て、クラウスは小さく息を吐いた。
「……来るとは思っていたが、早いな」
黒を基調とした外套。
淡い金の髪に、光を映すような蒼い瞳。
レイヴンだった。
回廊の奥、扉から少し離れた位置に、人影があった。
視線を伏せ、壁際に控えるように立っている。
「時間を置く理由がない」
淡々とした声だった。
だが、その視線は確かにリアンを捉えている。
「無事だったようだな」
「……ああ」
短い応答。
それだけで、言葉のやり取りは終わった。
沈黙のまま、レイヴンは室内を一度だけ見渡す。
「……光の反応が、ここに残っていた」
そう告げてから、レイヴンの視線がわずかに動く。
応接間の奥。
一歩下がった位置に立つ少女へと、静かに向けられた。
名を呼ぶことはない。
けれど、その視線は一瞬たりとも揺れず、月光よりも淡い光を宿す瞳が、確かにティアラを捉えていた。
空気が、ひとつ分だけ張りつめる。
ティアラは、思わず呼吸を浅くした。
視線を返すことができず、ただ静かに目を伏せる。
胸の奥で、何かがきしむ。
理由は、言葉にならないまま――。
沈黙が、応接間に落ちた。
誰も言葉を挟まないまま、数拍が過ぎる。
リアンは、意を決したように口を開く。
「レイヴン。頼みがある」
その言葉に、レイヴンの眉がわずかに動いた。
「王宮に保存されている記録を調べたい。精霊国、精霊核、そして……光の器についてだ」
空気が、静かに沈む。
クラウスが口を挟まなかったのは、
その内容が軽くないと理解しているからだ。
扉の向こうで、人影が微動だにせず、会話を聞いていた。
レイヴンは、すぐには答えなかった。
数拍置いてから、低く告げる。
「おそらく簡単に閲覧できる場所にはない。禁忌指定の事象は、表の文書庫には置かれない。あるとすれば王宮地下、封印区画にある王家封蔵庫ではないかと思う。」
ティアラが、思わず息を詰める。
「……読むことはできないのか?」
「原則、封印区画へ入れるのは王の許可があった者だけだ」
即答だった。
「王の許可があっても、開示されるとは限らない。内容によっては、存在そのものが伏せられている」
つまり――
調べること自体が、王の監視下に入る。
リアンは視線を伏せる。
それでも、言葉を引かなかった。
「それでも、行く」
迷いはない。
レイヴンは、その横顔を静かに見つめていた。
「……ティアラは連れて行けないな」
今度は、クラウスが言った。
「王宮に姿を見せた瞬間、捕縛されてしまう可能性があるからな」
ティアラは反射的に口を開きかけ、けれど――何も言わずに唇を閉じた。
それが事実だと、理解してしまったから。
「俺と、レイヴンと、クラウスで行く」
リアンが告げる。
「調べるだけだ。深入りはしない」
レイヴンは、ほんのわずかに目を細めた。
「……王宮に入れても、封印区画に入ることが出来ないかもしれない」
「知っている」
それでも、退かない。
「このままじっとしているよりましだ」
短い沈黙のあと、レイヴンは頷いた。
「準備は俺が整える。王宮には、表向き別件で入る」
それ以上の説明はなかった。
だが――
その裏にある危険を、誰もが理解していた。
いつの間にか、回廊の人影は消えていた。
◆
王都アストラル。
玉座の間に、ユラが報告のため姿を見せていた。
「報告があります」
跪いたまま、淡々と告げる。
「レイヴン殿下が、アルシェ家を訪問。近く、リアン様、クラウス様と共に王宮へ入る動きがあるかと」
王の指先が、肘掛けを軽く叩いた。
「……好機だな」
低く、冷たい声。
「精霊の少女は?」
「同行しない見込みです」
一瞬の沈黙。
そして、王の口角が、わずかに持ち上がった。
「夜織を動かせ」
ユラの目が、わずかに伏せられる。
「二人が不在になった時を狙いアルシェ家に残る精霊を――捕縛せよ」
それは、命令だった。
王宮が動く。
そして、夜織が動く。
静寂の裏で、確実に歯車が噛み合っていく。
アルシェ家の結界の内側で、その気配を知る者は、まだいなかった。
◆
屋敷の灯りが落ち、回廊に足音すら消えた頃。
リアンの部屋の扉が、小さく叩かれた。
「……どうぞ」
返事をすると、控えめに扉が開く。
白銀の髪を揺らし、リリスが顔を覗かせた。
いつもより背筋が伸びているのに、指先だけが落ち着きなく組まれている。
「リアンお兄様……」
名を呼ぶ声が、かすかに震えた。
リアンはそれに気づいたが、何も言わず、向かいの椅子を示す。
リリスは首を振り、一歩だけ部屋に入ったところで立ち止まった。
「王宮へ行くと、聞きました。ティアラを守りたい気持ちは……わかります。でも……」
一度、言葉が途切れる。
唇を噛み、視線を伏せてから、絞り出すように続けた。
「……リアンお兄様が、危険にさらされるのは、嫌です」
その言葉には、感情を抑えようとする必死さが滲んでいた。
怒りでも、反対でもない。
ただ、失うことへの恐れだけが、そこにあった。
リアンは、しばらく黙ってリリスを見つめる。
「大丈夫だよ。王宮には、レイヴンがうまく入れるようにしてくれると思う」
静かな声だった。
慰めるというより、事実を並べるような言い方。
それでも、逃げないという意志だけは、確かに伝わる。
リリスの肩が、わずかに揺れた。
「……それでも」
続く言葉は、最後まで形にならなかった。
リアンは立ち上がり、ゆっくりと距離を詰める。
そして、そっとリリスの頭に手を置いた。
軽く、二度。
「留守の間、皆を守ってほしい」
少しだけ、声が柔らぐ
「リリスがいるから、安心して俺は行けるんだ」
指先が、白銀の髪に触れたまま止まる。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
じんわりと、温度を持って広がっていく。
役目を託された重さよりも先に、信じられたという事実が、心を満たしていた。
リリスは、しばらく動かなかった。
やがて、小さく息を吸い込み、頷く。
「……わかりました」
低く、けれどはっきりとした声だった。
けれど、その一言には、迷いを飲み込んだ強さがあった。
リアンは手を離す。
夜の静けさが、ゆっくりと部屋を満たしていく。
それは、まだ何も起きていないというだけの静けさだった。
この屋敷の内と外で、すでに歯車が噛み合い始めていることを、その夜は、まだ誰も知らなかった。




