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第22話 帰る場所

 丘を越えた先で、視界がひらけた。

湖を見下ろす高台に、白亜の建物が静かに佇んでいる。塔と回廊を備えた古い屋敷は、夕暮れの光を受けて淡く輝き、長い年月を生き抜いてきた名家の重みをそのまま空気に刻んでいた。


 アルシェ公爵家。


 敷地の外周を巡る結界が、微かな揺らぎとなって空気を澄ませている。透明な層は目を凝らさなければ気づかないほど精緻せいちで、外界の気配を音もなく遮断していた。


「……無事帰ってこれたな」


 クラウスが低く呟く。

 その声を合図にしたかのように、張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。

 ティアラは無意識のうちに胸元へ手を当て、深く息を吐いた。ずっと続いていた緊張が、ようやくほどけていく。


「……アルシェ家……戻ってこれたのね……」


 小さく漏れた声は、感嘆というより、確認に近かった。

 リアンは何も言わず、ただ屋敷を見上げている。その横顔は静かだったが、肩の力が抜けているのがわかった。

 門をくぐり、広い前庭を進むと、噴水が水音を立てていた。花々は季節の移ろいに合わせて咲き誇り、戦いや追跡とは無縁の、穏やかな時間がここには流れている。

 玄関前に、人影があった。

 黒と白銀の軍服風コートに身を包んだ男が、まっすぐにこちらを見据えて立っている。

 その姿を見て、胸の奥に溜めていた力が、ふっと抜けた。


「父上……」


 クラウスが一歩前に出た。

 アルバートは、短く息子を見ると、すぐに視線を一行へ移す。鋭くも冷静なスレートブルーの瞳が、人数と様子を一瞬で把握していった。


「無事でよかった」


 感情の起伏を抑えた声だったが、その一言だけで、場の空気が完全に落ち着いた。

 ティアラが小さく頭を下げる。


「お世話になります……」


 アルバートは彼女を一瞥し、軽く頷いた。


「ここにいる間は、我が家の保護下だ。ゆっくり休むといい」


 それは優しく穏やかな口調だった。

 リアンはその言葉を聞き、わずかに肩を落とす。


 ――帰る場所がある。


 その事実だけで、胸の奥が静かに落ち着いていくのを感じていた。


 屋敷の中は、外観以上に静謐せいひつだった。

 長い回廊を進み、応接間へ向かう途中、別の足音が近づいてくる。


「……おかえりなさい」


 柔らかな声とともに現れたのは、白銀の髪を腰まで垂らした獣人の女性だった。狐耳の先が淡く紫を帯び、同じ色合いの尾がゆるやかに揺れている。


「お母様……!」


 少し遅れて、弾むような声が重なる。


「帰っていたんですね……!」


 リリスはほっとしたように微笑み、狐耳を嬉しそうに揺らした。


「エルフィナ……」


 クラウスの声が、ほんのわずかに和らぐ。

 エルフィナは一行を見渡し、ティアラの姿に目を止めた。氷紫の瞳に、警戒や驚きは浮かばない。


「……この子が」


 そう呟いてから、にこりと微笑む。


「長旅でしたでしょう。どうぞ、ゆっくりなさって」


 その自然な態度に、ティアラは目を瞬かせ、そして小さく頭を下げた。


「ありがとうございます……」


 エルフィナはそれ以上何も問わず、使用人に指示を出す。客間の用意、湯と食事の準備――すべてが手慣れていた。

 アルバートは歩みを進めながら、わずかに脇腹を押さえた。

 それに気づいて、リアンが足を止める。


「……あの時の傷、大丈夫なのか」


 アルバートは一瞬だけ視線を向け、すぐに前へ戻した。


「もう傷は塞がっている。心配ない」


 それだけで十分だと、リアンは胸の奥で理解した。

 それ以上の説明はなく、歩調も乱れない。

 リアンはそれ以上、何も言わなかった。



 夕刻。

 アルバートはクラウスとリアン、そしてティアラを連れて、屋敷奥へ向かった。


 図書塔。


 外観は屋敷と一体化した古塔で、内部は幾重にも重なる書架と螺旋階段が続いている。灯りは最小限で、紙とインクの匂いが静かに満ちていた。


「ここにあるのは、公にされていない記録も多い」


 アルバートが言う。


「学術資料として残されてはいるが、扱いには注意が必要だ」


 三人は黙って頷いた。


 調べるのは、精霊核と――光の器。


 書架を進み、年代の古い文書が集められた一角で、アルバートは数冊を引き抜いた。


「精霊王族に関する記録だ」


 ページを繰る音だけが響く。

 そこに記されていたのは、精霊核という存在――感情と生命、属性の制御中枢。

 核が不安定になった際に起こる異常現象。暴走、消失、そして例外的な生存事例。

 精霊核が損なわれた場合、理性の喪失や属性暴走を引き起こし、最悪の場合は存在そのものが崩壊すると記されていた。


「……光の器」


 ティアラが、その言葉を目にして小さく呟く。


「禁忌指定された現象だ。死の危機に瀕した精霊王族が、他者に強く依存することで、生存率を一時的に引き上げた記録がある」


 あくまで延命措置に過ぎず、恒久的な安定を保証するものではない。


「光の器となった側には、精霊の生命を維持するために過剰な負荷が集中する。精霊王族が生き延びるため、器の生命力を代償として消費した記録もある」


「いわば――身代わりだ」


 淡々とした説明だった。

 リアンは、驚き目を見開いた。


 「光の器の解除の可能性についての記述は……?」


 クラウスが問う。


「方法も条件も、記されていない」


 アルバートは本を閉じた。

 沈黙。

 書かれていない部分が、確かにあった。


「……以上だ」


 記録は残されていた。

 だが、ある時代以降の扱いだけが、奇妙なほど均質だった。


 欠けているのではない。

 選ばれて、残されている。


 リアンは、何も言わずに視線を落とす。


 身代わり。


 その意味だけが、説明の終わった空間に残り、

 ゆっくりと胸の奥へ沈んでいった。



 同じ頃。

 王都アストラルの玉座の間では、ユラが跪いていた。


「夜織は撤退しました。対象――ティアラは、アルシェ家の保護下にあります」


 淡々とした報告。


「また、精霊王族級の反応を確認。リアン様に接触した際、精霊核が安定することが確認されました」


 王は、白銀の髪を揺らすこともなく、ただ聞いている。


「捕獲できる状況か?」


 玉座の上から、低い声が落ちた。


「現時点では、失敗する可能性が高いかと」


 短い沈黙。


「命令は維持する」


 王は言った。


「状況が動いた時に、執行せよ」


 それ以上の言葉はなかった。



 湖面に月が浮かぶころ、アルシェ家は静寂に包まれていた。

 月見のテラスには、湖から渡る風が静かに入り込んでいた。

 白い手摺の向こう、月光を映した湖面が、ゆっくりと揺れている。

 その月明かりの中に、ティアラは佇んでいた。

 淡い光を纏うように、夜の気配と溶け合いながら。

 外気に触れることで、胸の奥に残るざわめきを、静かに手放そうとしているかのようだった。


 足音が近づく。

 振り返らなくても、誰かわかる。

 冷たい夜気の中で、その足音だけが、ひどく馴染んでいた。


「……眠れないのか」


「うん。本の内容が頭から離れなくて……」


 短い返事のあと、ティアラは視線を落とした。


「ごめん……」


 唐突な言葉だった。

 けれど、その声音には迷いがなかった。


「私……無意識に、リアンを……」


 言葉を探すように、一度息を吸う。


「光の器に、しちゃった」


 罪を告げるような声だった。

 月光に照らされた横顔は、かすかに震えている。


「リアンを選んだつもりなんて、なかった」


「でも……結果は同じ」


 自分が生きるために、誰かを縛った。

 その事実が、胸を締めつけていた。


「……ごめんね」


 リアンは、すぐには答えなかった。

 湖を見つめたまま、静かに息を吐く。


 身代わり。

 図書塔で聞いた言葉が、再び胸をよぎる。


「俺は――」


 短く言いかけて、言葉を選び直す。


「選ばれた、とは思っていない」


 ティアラが、わずかに目を見開いた。


「ティアラが、生きようとした結果だ」


 肯定でも否定でもない。

 ただ事実として、受け止める声だった。


 それでも、ティアラの胸の奥の重みは消えない。

 俯いたまま、指先を握りしめる。


 リアンは一歩だけ、距離を詰めた。

 触れはしない。

 だが、確かに隣に立つ。


「……俺は、すべてを受け入れる」


 その言葉に、ティアラの瞳に静かに光が滲んだ。


 受け入れる。

 それは、赦しではない。

 軽くなる言葉でも、救いでもなかった。


 それでも――

 胸の奥で、何かがわずかに揺れた。


 重さを分け合うことすら許されないと、どこかで思っていた。

 けれど今、リアンはその重さごと、引き受けると言った。


 ティアラは俯いたまま、そっと息を整える。

 震えは消えない。

 それでも、ひとりではないと知ってしまった。


 ティアラは、思わず唇を噛んだ。

 顔を上げれば、涙を零してしまいそうで。


 リアンの言葉は誓いでも、慰めでもなかった。

 静かな受容だった。

 光も、罪も、重さも。

 この身に降りかかったすべてを、抱えて進むという選択だった。


 遠くで、結界が微かに揺らぐ気配がした。


 ここは、安全だ。

 だが――きっと永遠ではない。


 それでも今は。

 月光に包まれたアルシェ家の静寂が、二人を守っていた。




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