第20話 光の去ったあと
境界を越えたあとの静けさは、思っていたよりも現実的だった。
夜霧が、森の奥から静かに流れ込んでいた。
精霊国を離れてから、半日ほど。
足を止めるには、ちょうどいい頃合いだった。
焚き火が、小さく音を立てて燃えている。
炎は強くないが、夜の闇を拒むには十分だった。
クラウスは焚き火の外側に立ち、森へ視線を向けている。
剣には触れていない。だが、足運びはいつでも動ける位置だった。
リリスは焚き火のそばに腰を下ろし、膝の上で手を組んでいる。
炎とティアラを交互に見つめながら、何かを測るように黙っていた。
ティアラは、焚き火の正面に座っている。
揺れる炎を見つめ、呼吸を整えるように、静かに瞬きをしていた。
背中に宿るはずの淡い気配は、今は静まり返っている。
そして――
焚き火の傍らに、淡い光をまとった青年が立っていた。
レイヴンだった。
その視線だけが、焚き火ではなく、夜霧の向こうを捉えていた。
月光と炎の光が重なり、その輪郭はどこか現実から浮いている。
夜霧の中にあってなお、彼の存在だけが澄んでいた。
リアンは、その背中を見ていた。
何かが起きる前触れのような気配が、胸の奥に沈んでいる。
レイヴンは、誰か一人を見ることなく、ただ場を見渡した。
「俺は、王都に戻る」
それだけだった。
理由は語られない。
補足も、説明もない。
けれど、その一言で十分だった。
クラウスが、わずかに視線を動かす。
「……今か」
「今だ」
短いやり取り。
それ以上の言葉は交わされなかった。
ティアラが顔を上げる。
何かを言いかけて、けれど声にならず、唇が閉じられる。
リリスは、黙ったまま一度だけ頭を下げた。
リアンは、言葉を探さなかった。
探してしまえば、きっと引き止めてしまうと分かっていた。
レイヴンが、焚き火から一歩離れる。
夜霧の中で、淡い光が集まった。
それは炎の揺らぎとは違う、均一で冷たい輝き。
光の転移魔法。
森の気配が、一瞬だけ歪む。
次の瞬間、光は静かに収束し――
そこにいたはずの青年の姿は、もうなかった。
焚き火の音が、遅れて戻ってくる。
ぱちり、と小さな爆ぜる音。
誰も、すぐには動かなかった。
レイヴンがいた場所には、霧だけが残っている。
そこに何かがあった痕跡は、すぐに夜に溶けた。
均衡は、まだ保たれている。
そう思わせる静けさだった。
森は、音を失っていた。
リアンは焚き火を挟んだ位置から、皆の様子を見ていた。
精霊国を出る前より、確かに空気は軽い。
それでも、胸の奥に引っかかるものだけが、消えずに残っている。
視線を動かしたとき、違和感に気づいた。
焚き火の輪の中に、ユラの姿がない。
周囲を見回し、背後の気配に意識を向ける。
少し離れた木立の前。
月明かりと影の境目に、ユラは立っていた。
誰よりも後ろ。
それでいて、焚き火の輪全体が視界に収まる位置。
誰か一人に近すぎるわけでもなく、
誰かから離れすぎてもいない。
ユラは、動かない。
剣にも触れず、腕も組まず、ただ立っている。
視線が、焚き火の輪をなぞるように一度だけ動いた。
その動きは、なぜかクラウスの位置で止まっていた。
リアンの視線に気づいたのか、ユラがこちらを向いた。
一瞬、目が合う。
そこにあったのは、読み取れる感情ではなかった。
敵意とも警戒ともつかない視線が、背中に残る。
リアンは、静かに視線を戻した。
そのとき、焚き火の向こうで、ティアラが小さく息を吐いた。
肩が、わずかに上下する。
「……疲れてる?」
リリスが、控えめに声をかける。
ティアラは顔を上げ、首を振った。
「ううん。大丈夫。ただ……」
言葉を切り、少しだけ間を置く。
「少し、考えていただけ」
穏やかな微笑みが添えられる。
だが、その奥にあるものまでは、読み取れない。
リアンは、焚き火越しにその姿を見つめた。
言葉にされていない情報が、いくつもある。
精霊王。
夜織。
そして、王都。
誰もが何かを知っていて、
けれど、核心だけが語られない。
「……今日は、ここまでだな」
クラウスが、森へ向けていた視線を焚き火の輪に戻す。
「このまま進むより、休んだ方がいい。交代で見張りを立てよう」
異論は出なかった。
それぞれが、黙って準備を始める。
焚き火は少しずつ小さくなり、
赤い熾火が、夜霧の中で淡く残る。
リアンは、木の幹に背を預けた。
完全に眠るつもりはなかった。
だが、意識を緩めた瞬間――
足元を、冷たいものがなぞった。
白い霧が、静かに立ち上る。
視界が曖昧になり、音が遠のく。
一歩、踏み出したはずなのに、距離が縮まらない。
地面は確かにある。
それでも、進んでいる感覚だけが、薄れていく。
前方に、淡い光があった。
人の輪郭をしている。
声をかけようとして、言葉が喉で止まる。
近づいているはずなのに、光は同じ距離に留まったまま。
伸ばした指先が、空を切る。
追いつけない。
――置いていかれる。
そう理解した瞬間、胸の奥が冷えた。
逃げるという選択肢は、最初から存在しない。
ここに立って、見送るしかない。
そんな感覚だけが、残される。
リアンは、浅く息を吸い、目を開けた。
焚き火は、まだ消えていない。
皆も、ここにいる。
それでも、何かが確実に変わり始めていると、
身体の奥が告げていた。
森の奥で、夜が静かに息をする。
均衡は、まだ保たれている。
だがそれは、踏み出し方ひとつで崩れる、仮初めの静けさだった。




