プロローグ 後半 王の記憶 ―青白き運命の子―
時は流れ、リュミエルは六大公爵家の一つ――アルシェ家の娘として「六番目の王妃」に迎えられた。
アルシェ家は結界術の名門。家督を継ぐ兄、アルバート=アルシェは、銀灰の髪と冷静な瞳を持つ王国最高の結界術師で、その若さに似合わぬ落ち着きと威厳を備えていた。
厳しくも静かに妹を見守ってきた彼の背を離れ、王宮という異世界へ踏み込んだ時、リュミエルは胸の奥に言葉にできない心細さを覚えていた。
王宮へ入ったばかりの頃のことだ。
光宮の中庭――白光の中庭。
純白の大理石は朝の光を受けてきらめき、壁面を走る魔力線は淡い青白の光を宿していた。
花も樹もすべてが白く統一され、あまりに精緻に整えられているせいで、自然の庭というより“光の造り物”のように感じられる。
リュミエルは、その広すぎる庭園で道を見失っていた。
甘く清らかな香り――白百合の群れが、風に揺れて波打つように咲いていた。
その前で立ち尽くしていた時だった。
音もなく、ヴァレストが姿を現した。
白銀の髪が光を受けて淡く輝き、黄金の瞳は揺らぎ一つなく静かだった。
王座につく前から“光の継承者”と呼ばれていた彼は、感情を失いかけた冷たい気配を纏っていたが、不思議とその場の光と調和していた。
「……迷ったのか」
静かな声。
責めるでもなく、ただ状況を言い当てるだけの響き。
「……少しだけ、道が分からなくて」
「この庭は複雑だ。慣れぬうちは誰でも迷う」
ヴァレストが近づき、白百合に手を伸ばした。
手袋越しでありながら、その指先の動きにはわずかな優しさが滲んでいた。
「白百合は、光をよく映す。
朝日を受けると、一瞬だけ銀に輝くのだ」
「銀に……?」
「明日の朝、見に来るといい」
ただそれだけ──
それだけなのに、リュミエルの胸はふっと熱を帯びた。
そして翌朝。
彼女が白百合の前に立つと、ヴァレストはすでにそこにいた。
朝日が白い花弁を照らすと、ゆるやかな風の中で百合はほのかに銀を宿した。
「……綺麗……」
「お前は、この光を好むのだと思った」
淡々とした声なのに、不思議と温度があった。
ヴァレストは本来、何も与えない“光の王”になるはずの人。
恋など許されない。
それでも――胸が震えた。
その日を境に、彼が時折見せる“わずかな柔らかさ”が、リュミエルにとって小さな光となった。
だからこそ、その後の現実はあまりにも残酷だった。
◆
最初に授かった子は、女児だった。
産声が響いた瞬間、赤子を抱きしめようと伸ばしたリュミエルの手は、侍従によって拒まれた。
「王妃様、掟にございます」
泣き声を残したまま、赤子は母の温もりを知らぬまま連れ去られる。
「待って……その子を……返して!」
叫んでも、空気は固く閉ざされたままだった。
涙すら許されぬ沈黙の中、命は冷たく処理されていく。
奥で見ていた王は、眉ひとつ動かさない。
白百合の前で向けた微かな温度は、どこにもない。
「……次は男子を」
それだけが告げられた。
◆
一年後。
夜を震わせる痛みの中で、ついに男子が生まれた。
生まれた瞬間――
赤子の身体を、淡い金色の光が包んだ。
光をまとうように産まれ落ちたその子を、侍従も医師も言葉を失って見つめた。
「……レイヴン……」
抱きしめた時、レイヴンの体温は不思議なほど温かく、王家の光を受け継ぐ者の証が確かに息づいていた。
胸に灯火が宿ったような幸福が、ほんの一瞬彼女を満たす。
だが、その幸福は長く続かなかった。
「ま、まだ……! もう一人……!」
医師が震える声を上げた瞬間、リュミエルの身体が再び強く痙攣する。
次の産声とともに――
部屋の空気が変わった。
赤子の身体を包む光は、兄のそれとは明らかに違った。
青白い──
まるで炎でも氷でもない“冷たい光”が、揺らめきながら漏れていた。
その光を見た瞬間、ヴァレスト王の黄金の瞳が僅かに揺れた。
「……青白い……光……」
予言がヴァレストの脳裏に蘇る。
『光は国を映す。
青白い光は、王家を滅ぼす影となる』
リュミエルは、震える腕でその子を抱き寄せた。
「この子は……リアン……。レイヴンの弟……私の……愛しい……」
王が近づいた気配を感じると、 リュミエルは必死に身体を丸め、赤子を覆った。
「お願い……この子だけは……!」
王の手が、ゆっくりと掲げられる。
掌に宿るのは、淡く揺らぐ“光”――王家の力。
それは、本来なら王国を守るために振るわれる神聖な光のはずだった。
「……退け、リュミエル」
「嫌……です……! この子を……殺さないで……」
リュミエルは震える腕で、青白い光を放つ赤子を抱きしめ続ける。
小さな命を包むように、自分の身体ごと覆い隠した。
「この子は、私達の子です……レイヴンの……弟です……!」
王の瞳が細められる。
黄金の光がさらに濁り、冷ややかな無感情が満ちていく。
「……予言を無視することはできぬ」
「予言なんて……っ! 命より大切なものなの……!?」
「王家とは、そういうものだ」
その言葉は、あまりに遠かった。
かつて白百合の前で、わずかに揺らいだ心を見せてくれた男とは――
まるで別人だった。
「お願い……この子だけは……この子だけは……!」
王はもう、彼女の声を聞いてはいなかった。
淡い光が、冷たく収束した。
「退け」
次の瞬間――
鋭い閃光が、部屋を切り裂いた。
「……ぁ……」
リュミエルの身体が大きくのけぞる。
その腕の中で、リアンが小さく息を震わせた。
王の光は、彼女の胸を貫いていた。
崩れ落ちるリュミエル。
その腕は最後まで、赤子から離れなかった。
「リュ……ミエル……?」
その瞬間、王が一歩、無意識に踏み出した。
胸の奥で何かがひどくうずいた。
忘れたはずの“痛み”。
白百合の前で彼女が見せた、あの静かな微笑み。
そして――
自分に向けられた、名もない好意のかすかな揺れ。
それらすべてが、鋭く蘇る。
「……なぜ……だ……」
小さな、かすれた声だった。
ヴァレスト自身、その言葉が誰に向けられたものなのか分からなかった。
足元のリュミエルを見下ろす目に、感情という名の光が一瞬だけ揺れる。
「……リュミエル……」
呼びかけても――返事はない。
その場には、まだ温かい亡骸と、青白い光の余韻だけが残っていた。
◆
「……アルバート=アルシェを呼べ」
王の声は低く、震えていた。
ほどなくして、黒と白銀の軍服をまとい、銀灰の髪を揺らした男が部屋へ踏み込んで、足を止める。
深いストレートブルーの瞳が、床に倒れるリュミエルを捉えた瞬間、その表情が崩れる。
「……リュミエル……?」
膝を付き、リュミエルの躰を抱き上げる。
その頬にはまだ僅かに温もりが残っていた。
アルバートは静かにリュミエルを抱き締めた。その頬を、声のない涙が伝う。
「陛下……これは……」
「掟だ。……だが、私は……思い出してしまったのだ」
王は視線を落とし、赤子を見た。
青白い光はすでに弱まり、ただ静かに眠っている。
「リュミエルが……私の中に残してくれたものを」
それは、継妃制度が奪い続けたはずの──
「掟だ。だが――思い出してしまったのだ。 ……あの日のことを」
王は目を伏せ、低く告げる。
「アルバート。密命を下す。
リアンを――王子ではなく、お前の子として育てよ」
「……陛下?」
「王家に属するから、予言が影を落とす。ならば、王家から遠ざけるしかない」
その言葉は命令であり、同時に祈りにも似ていた。
「危険があれば……その時は私が――」
そこから先は、言葉が続かなかった。
アルバートは妹の髪に触れ、静かに立ち上がる。
「……リュミエル。守れなくてすまない。 せめて、お前の子だけは――必ず守る」
そして、王へ向き直る。
「陛下。リアン様は、私が命に代えてもお守りいたします」
その誓いは王への忠義誓いではなかった。
ただ一人の兄としての誓いだった。
◆
――そして、十七年の月日が流れる。
アルシェ家の裏庭。
朝の風の中、ひとりの美しい少年が静かに剣を握る。
淡い白金の髪。
透明な青の瞳。
静けさの奥に、強く研ぎ澄まされた芯を潜ませた少年。
名は――リアン=アルシェ。
冷静で、優しく、強くあろうとする少年。
彼はまだ知らない。
自分が
“青白光”の予言の子であり、本来なら生まれた瞬間に消されていたはずの命であることも。
そして、王家の影がいまも静かに自分を見つめていることも。
ただ、朝の風の中で、剣の軌跡だけが淡く溶けていった。
――これは、まだ彼が
自分の運命を知らなかった頃の話である。




