第15話 霧の回廊 ― 理に拒まれる者
夜の森は、異様なほど静かだった。
風は吹いている。
それなのに、葉擦れの音が遅れて届く。
距離感が、少しずつ狂っていく。
前方に、白い靄が見え始めた。
霧というには、あまりにも輪郭がはっきりしている。
流れてはいない。
ただ、そこに“在った”。
一歩、足を踏み出す。
――その瞬間。
地面の感触が、ふっと消えた。
夜の冷たさが、霧に吸い取られる。
世界が、境界を越えた。
霧は、いつの間にか足元から立ち上っていた。
夜の森に差していた月光が、淡く滲み、輪郭を失っていく。
霧はただ濃いだけではない。
光を拒み、音を呑み込み、空間そのものを曖昧にしていた。
「……ここが、霧の回廊か」
クラウスの声が、わずかに遠く聞こえた。
次の瞬間、音が途切れる。
リアンは振り向いたが、そこに仲間の姿はなかった。
視界は白一色。
上下も、距離も、方向も失われる。
足の感触が、ふと曖昧になる。
地面を踏んでいるはずなのに、重さが伝わらない。
――拒まれている。
理由も説明もなく、ただそう感じた。
霧が、侵入者を測っている。
それは風景ではなく、意思を持つ結界だった。
霧の中で、淡い光が揺れた。
ティアラの姿だけが、ぼんやりと浮かび上がる。
彼女の周囲だけ、霧の色が微かに変わっていた。
白ではない。
淡い、光を含んだ霧。
ティアラが、胸元に手を当て、息を整える。
背中に、かすかな熱が走った。
見えないはずの“何か”が、霧に反応している。
「……来ちゃった、んだね」
誰に言うでもない呟き。
霧が、ざわりと揺れた。
次の瞬間、視界が歪む。
霧の回廊は、すべての者に等しく幻を見せるわけではない。
過去と未来に強く結びついた者だけが、
その奥へと引き込まれていく。
◆
冷たい夜。
石の感触。
閉ざされた空間。
意味を持たない感覚だけが、霧の中から滲み出す。
視界は曖昧で、形も定まらない。
ただ、リアンの中に何かに覆われていた記憶だけが残っている。
柔らかく、必死で、震えていたもの。
それが“誰”だったのか、分からない。
顔も、声も、思い出せない。
けれど――
手放せなかった温度だけが、胸の奥に沈んでいた。
次の瞬間、冷たい光が差し込む。
近づいてくる圧。
触れれば消えてしまいそうな、研ぎ澄まされた気配。
人の形をしているはずなのに、
そこには感情が存在しなかった。
言葉はない。
説明も、選択も与えられない。
ただ、光が告げている。
――ここに在ってはならない。
胸の奥が、きしりと冷える。
拒まれた理由は分からない。
それでも、拒絶された事実だけが、確かに残る。
霧の向こうで、何かが静かに閉ざされていく。
逃げ道だったはずの余白が、音もなく消える。
代わりに、一本の進路が浮かび上がる。
選んだ覚えのない道。
押し付けられるように続く、冷たい流れ。
リアンは、歯を食いしばった。
理解しているわけじゃない。
理由も、名前も、知らない。
それでも――
立ち止まることだけは許されないと、
霧が、無言で告げていた。
◆
別の場所で、ティアラは立ち尽くしていた。
白い聖域。
淡く光る結界。
幼い日の自分。
そして、母の背中。
声をかければ、振り向いてくれたはずの距離。
手を伸ばせば、触れられたはずの場所。
けれど今は、
そこにあるのは、埋まらない隔たりだけだった。
「……お母さん」
名前を呼ぶ。
それだけで、胸の奥がきしむ。
答えが返らないことよりも、
返ってくるはずだと思ってしまうことが、痛かった。
手を伸ばす。
――指先が、霧に触れた瞬間。
遮られる。
触れられない。
抱きしめられない。
それでも、離れたくなかった。
――それでも、いくの?
誰かの声が、心に直接響いた。
ティアラは、首を振る。
「違う……それでも」
ここに留まれば、安全だ。
守られる。
何も失わずに済む。
だが――外には、彼らがいる。
危険で、理不尽で、それでも手を離さなかった人たち。
ティアラは、そっと目を閉じた。
――守るために、残ったのだと。
そうだと、分かってしまったから。
「……戻らない」
その瞬間、胸奥の精霊核が強く脈打つ。
背中に、淡い光が満ちた。
結晶の欠片が、霧の中に舞う。
羽は完全には現れない。
だが、確かに“存在”を主張していた。
霧が、低く唸る。
拒絶と、承認がせめぎ合う音。
◆
最後に、レイヴンの前に映ったのは――
王座に座る、ひとりの男だった。
白銀の髪。
黄金の瞳。
光だけを宿し、感情を失った存在。
その姿を、レイヴンは知っている。
アストラル王国の王。
そして――父と呼ぶべき男。
――それでも、その在り方で、誰かを守れると、言えるのか。
問いは、言葉にならない。
レイヴンは、ただ静かに前を見据えた。
「……選ばない」
処分も、切り捨ても。
その未来を、受け取るつもりはなかった。
霧が、光を吸い込む。
代償として、何かが削られていく。
感情の輪郭が、さらに薄くなる。
それでも、足は止まらない。
◆
霧が、ゆっくりと晴れていく。
視界が開けた先には、白銀の森。
淡く光る木々。
静まり返った空気。
――そして。
結界が、強く脈動した。
精霊たちの気配が、一斉に立ち上がる。
無言の圧。
歓迎は、ない。
ただ、排除の意志だけが満ちていた。
「……混血が、戻った」
どこからともなく、理の囁きが響く。
ティアラは、胸を押さえた。
ここは、自分の居場所ではない。
その事実だけが、はっきりと突きつけられる。
リアンは、静かに前に出た。
冷たい嫌悪が、胸に広がる。
理と呼ばれる何かが、
命を選り分けようとしている。
そのあり方に、
説明のつかない違和感だけが残った。
霧の回廊は、すでに閉じ始めている。
戻る道は、ない。
越えてしまった。
裁かれる側として。
◆
精霊宮、最奥。
光樹ルミナ・ツリーの前で、ひとつの影が目を開いた。
「……やはり、通ったか」
精霊王セラフィオンは、静かに呟く。
それは嘆きでも、怒りでもない。
ただ、理に沿った事実確認だった。
「混血は、理の外で生を保っていた。
王家の血が、外界と結びついた」
白金の翼が、わずかに揺れる。
「……裁定の時だ」
その言葉と同時に。
精霊国は、完全に動き出した。




