第16話 霧の中の選択
追放された者が踏み入る霧の回廊は、迎え入れるための道ではない。
だが、ただ拒むためだけの場所でもなかった。
霧は、すべてを遮る。
光も、音も、距離も。
残されるのは、前へ進むかどうかという意思だけだ。
光の道が、背後で閉じた。
聖域の輝きが途切れ、白い霧が静かに満ちていく。
足元の感触はある。
だが、方向も距離も、輪郭を持たない。
声を出しても、音は届かない。
隣にいるはずの気配さえ、霧の中で曖昧になる。
立ち止まれば、終わる。
それだけは、本能的に理解できた。
黒い影が、霧の底で蠢いている。
白に紛れ、気づかれないまま近づくそれは、足を止めた者を、迷いごと呑み込む。
霧の回廊は、考え込む場所ではない。
選び続ける場所だ。
ティアラは、歩みを止めなかった。
振り返らない。
振り返った瞬間、足が止まることを、分かっていたから。
背中で、淡い光が揺れる。
結晶翼は形を取らないまま、霧の中に微細な光を零していた。
その光に、霧が反応する。
白一色だったはずの霧が、ティアラの周囲だけ、わずかに色を含む。
測られている。
精霊か。
人間か。
混血か。
――否。
問われているのは、それではない。
前へ進む意思が、あるかどうか。
◆
リアンは、霧の中でティアラの背を見つめていた。
足は止めない。
霧の奥で、視界がわずかに揺らぐ。
――『光は国を映す。
青白い光は、王家を滅ぼす影となる』
冷えた言葉が、思考に触れる。
霧の回廊で、戦えと命じた声と、同じ質感。
切り捨てるための理。
選別するための言葉。
白銀の髪。
感情を映さない光の瞳。
リアンは、視線を前に戻した。
霧の向こう。
揺れるティアラの背中。
追い出され、救えないものを背負ったまま、
それでも前へ進んでいる背中だ。
ここで離れるという考えは、
一瞬も、浮かばなかった。
たとえ拒まれてもいい。
手を取れなくてもいい。
それでも。
足が、自然と同じ方向を選んでいた。
歩みは、止まらなかった。
霧が、深く絡みついてくる。
幻ではない。
だが、心を撫でるような圧がある。
◆
少し後ろを歩くレイヴンには、また違う圧がかかっていた。
押し返されるのではない。
引き寄せられるわけでもない。
霧は、彼の存在を確かめるように揺れている。
光を拒まない。
だが、道を譲ることもしない。
淡い金の髪が、霧の中でわずかに揺れた。
青い瞳に、感情の揺らぎはない。
進めば、進める。
だが一歩でも迷えば、霧は即座に意味を変える。
ここは、立ち位置を誤れば――
再び、向こう側へ引き戻される場所だ。
それでも、レイヴンは歩調を変えなかった。
前にいるティアラと、同じ速度で。
同じ方向を、選び続ける。
◆
少し離れた位置で、ユラもまた、霧の中を進んでいた。
足取りは慎重だが、止まらない。
霧に飲まれそうな感覚が、何度も足元を掠める。
それでも、視線は前から逸らさなかった。
白い霧の向こうに、クラウスの背中がある。
距離は近くない。
だが、見失うことを考えた瞬間だけ、歩調がわずかに乱れる。
追いすがるわけではない。
かといって、一人で進んでいるつもりもない。
同じ方向を選んでいる。
その事実だけが、足を前へ運ばせていた。
◆
ティアラの視界に、聖域が映る。
光の泉。
静かに横たわる、母の姿。
呼びかければ、応えてくれる気がしてしまう距離。
だが、声は届かない。
留まれば、ここは変わらない。
母は眠ったまま、
時間だけが、静かに過ぎていく。
傷つくことはない。
だが、何も取り戻せない。
――それでも、進むの?
霧の奥から、問いが滲む。
ティアラは、唇を噛みしめた。
ここに居ても、母は救えない。
今の自分には、それが分かってしまった。
だから。
「……行く」
小さく、だがはっきりと。
胸奥の精霊核が、強く脈打つ。
背中に、淡い光が満ちる。
羽は、完全な形を取らない。
それでも、進む意思だけは、はっきりと示していた。
霧が、ざわめく。
拒絶ではない。
承認でもない。
ただ、道が開く。
◆
クラウスたちは、立ち止まらずに進み続けていた。
リリスの足元に、黒い霧が絡みついた瞬間も。
「止まるな。前だ」
その声に弾かれ、リリスが踏み出す。
一歩。
前へ。
黒い霧は、音もなく崩れ、白に溶けた。
霧の回廊は、足取りを試す場所ではない。
前を向き続けられるか。
それだけを見ている。
やがて、霧の濃度が変わる。
足元に、確かな感触が戻る。
冷たい空気が、肌を打つ。
振り返れば、白い回廊は、すでに閉じていた。
戻る道はない。
だが。
ティアラは、前を向いた。
まだ見えない未来が、そこにある。
母を取り戻すために。
生きていていいと、自分で言うために。
誰かに選ばされたのではない。
裁かれた結果でもない。
自分で選んだ。
霧の中で、前へ進むことを。
霧の回廊は、試す場所ではない。
前を向く意思を持つ者だけを、
次の境界へ送り出す場所だった。




