第14話 霧の回廊 ―追われる光、戻される運命―
静かな部屋に、かすかな緊張が残っていた。
それは戦いの名残というより――
光が通り過ぎたあとにだけ残る、薄い余韻に近い。
ティアラは胸元にそっと手を当て、一度だけ深く息を整える。
「……私、行かなきゃいけない場所があるの」
リアンはすぐに、視線を向ける。
「どこだ?」
「精霊国。 ――ルミナシア王国」
その名が落ちた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
「精霊の王国か」
クラウスが低く呟き、ユラが小さく息を呑む。
アルバートは静かに続けた。
「……簡単な道ではない。
王国へ入るには、“霧の回廊”を通らねばならん」
それは地理の問題ではない。
結界であり、選別であり、拒絶の象徴でもある場所。
ティアラは、ゆっくりと頷いた。
「うん。でも……危険と分かっていても行きたいの」
リアンは眉をひそめたまま、しばらく黙っていた。
「……行かなきゃならない理由が、あるんだな」
ティアラは視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。
「私は……ルミナシアで生まれたの」
一瞬、誰も言葉を挟めなかった。
「……精霊と、人間の血が混ざるのは、いけないことなんだって」
そう言われてきた。
何度も。理由も、選択肢も与えられないまま。
「だから……生まれてすぐ、力を封じられて」
言葉が、少し詰まる。
「母と一緒に……外に出られない場所に、いたの」
守られていた、とは言えない。
あれは――閉じ込められていた。
握りしめた指先が、わずかに震える。
リアンは、無意識に一歩、彼女のそばへ踏み出していた。
「……じゃあ、森で出会ったあの時は」
「うん」
ティアラは小さく頷く。
「十六歳の誕生日に、封印が壊れて……
力が暴走して……
私だけが、外へ弾き出されたの」
声が、わずかに揺れる。
「母は……
まだ、向こうにいる」
クラウスは、珍しく口を挟まなかった。
いつもの軽口を探すように、唇だけがわずかに動いて、結局なにも言葉にならない。
リリスは、無意識のうちにティアラのそばへ寄っていた。
小さな体が、並ぶように、ほんの半歩だけ前に出る。
ユラは視線を伏せ、静かに息を整える。
状況の重さを、言葉にせず受け止めていた。
沈黙が落ちた。
やがて、ティアラはぽつりと続ける。
「……母が教えてくれたの。
精霊王は、私の伯父にあたる人だって」
空気が、張りつめる。
アルバートは目を細め、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
その声は重かった。
「夜織が動いたのも、偶然ではない。だが――問題はそれだけじゃない」
リリスの尻尾が、ぴくりと揺れる。
「……精霊国も……?」
「可能性は高い」
アルバートは断言した。
「封印が壊れ、精霊核の反応が外界に漏れ出した。
向こうが感知していないはずがない」
「……そんなの、狙われないわけないよね」
リリスが、かすれるように呟いた。
ティアラは、ぎゅっと唇を噛む。
「……“迎え”じゃない。
“回収”される、ですよね」
アルバートは否定しなかった。
「精霊王家にとって、お前は“戻すべき存在”だ。
意思など、考慮されんだろう」
だからこそ――
ルミナシアへ行くこと自体が、危険だった。
霧の回廊を越えた先にあるのは、安息ではない。
拘束か、選別か、あるいは――再封印。
それでも。
ティアラは顔を上げた。
「……それでも、行きたい。母が生きているなら、確かめたい」
リアンは、迷わなかった。
「行こう」
即答だった。
クラウスは一瞬だけ目を伏せ、それから肩をすくめた。
「……決まったなら、俺は異論なしだ」
リリスは迷わずティアラの手を取る。
その小さな指に、力がこもった。
ユラは何も言わず、ただ静かに頷いた。
それが、了承の合図だった。
「危険だぞ」
アルバートが静かに釘を刺す。
「分かってる」
リアンは視線を逸らさない。
「……それでも、ここで足を止める理由にはならない」
クラウスが肩をすくめる。
「夜織も、精霊国も相手か。……面倒だけど、嫌いじゃない」
リリスはティアラのそばへ寄り、小さく言った。
「……私も……一緒……」
ユラも、静かに頷く。
ティアラは、堪えきれないように微笑んだ。
「……ありがとう」
誰も、すぐには言葉を発さなかった。
だがその沈黙は、迷いではなかった。
それぞれが理解していた。
この選択が、戻れない一歩になることを。
――こうして一行は、
霧の回廊へ向かう決意を固める。
◆
屋敷を離れようとした、その瞬間だった。
夜気が、ひやりと撫でる。
淡い光が、空気に残光のように滲んだ。
アルバートが、即座に察知する。
「……来たか」
次の瞬間。
「ずいぶん、話し込んでいたようだな」
低く澄んだ声。
淡金の髪。
静かな青の瞳。
感情を削ぎ落としたような気配。
「……レイヴン」
リアンが、低く名を呼ぶ。
レイヴンは淡々と告げた。
「夜織の別動隊は散らした。だが――精霊国側も、動き始めている」
その一言で、場の空気が変わる。
「戻る途中で、回廊付近の気配が揺れた。
……向こうが、気づいていないはずがない」
彼の視線が、ティアラへ向く。
「王家の光と、精霊の核が共鳴している。
あれほどの反応を、放っておける相手じゃない」
それは王命ではない。
彼自身の判断だった。
リアンが一歩前に出る。
「同行する気か」
「そうだ」
レイヴンは短く答えた。
「この状況で、単独行動は危険すぎる」
一瞬の沈黙。
レイヴンの視線が、ゆっくりと場を見渡す。
「……で、向かう先は?」
リアンは、迷わず答えた。
「精霊国だ。霧の回廊を越える」
レイヴンは、わずかに目を細める。
「なるほどな。
精霊核の反応が外界に漏れ出した理由も、それで説明がつく」
その言葉に、ティアラは小さく息を呑んだ。
レイヴンは続ける。
「回廊は、選別の結界だ。
お前たちだけで通るには、危険すぎる」
その視線が、ティアラに向く。
だがそこに、強制の色はなかった。
沈黙の中で、
ティアラは一歩だけ前に出る。
「……来て、くれるんですか」
確認するような声だった。
レイヴンは、ほんのわずかに目を細めた。
「もちろんだ」
こうして。
霧の回廊へ向かう旅は――
夜織の影と、精霊国の呼び声。
そのどちらからも逃れられないまま、始まった。
光と精霊と、
それぞれの思惑を抱えたまま。
◆
霧が、揺れた。
それは風によるものではない。
世界の境界そのものが、わずかに軋んだ音だった。
ルミナシア王国。
精霊たちの都、その最奥にある静謐の間で、淡い光が脈を打つ。
「――反応、確認」
低く告げる声に、複数の気配が応じた。
「座標、外界。
精霊核の共鳴値……基準を超過」
「……目覚めたか」
誰かが、そう呟いた。
「……王族核の反応。
沈黙は、破られたか」
答えは、すぐには返らない。
光の像に映し出されるのは、ひとりの少女。
白銀に近い髪、澄んだ紫の瞳。
その胸奥で、精霊の核が不安定に瞬いている。
「逃走状態、継続中。現在、外界の人間と接触」
一瞬の沈黙。
「精霊王の判断は?」
「――まだだ」
代わりに、別の声が静かに続ける。
「だが、このまま放置するわけにはいかない。彼女は“戻るべき存在”だ」
霧が、再びうねる。
「霧の回廊を開く。追跡ではない――回収準備だ」
淡い光が、静かに広がった。
それが、救いなのか。
それとも――拘束なのか。
答えは、まだ誰にも分からない。
ただひとつ確かなのは。
霧の回廊の向こうで、
精霊国はすでに――動き始めている、ということだった。




