第13話 王命を拒んだ夜 ―捕獲命令の、その先で―
アルバートの言葉が続こうとした、その時――
森を撫でる風が、ふいに温度を変えた。
ひどく静かで、闇を薄く押し返すような“光の気配”。
それは近づいてくるというより、気づけば、そこに在ったと錯覚させる類のものだった。
ティアラが胸元を押さえ、息を詰める。
「……この感じ……さっきと、違う……」
リアンも、リリスも、クラウスもユラも構える。
クラウスは半歩前に出て、周囲の魔力の流れを探るように指先をわずかに動かし、ユラは無言のまま、森の奥――夜織が潜むであろう方向へ、鋭く視線を走らせていた。
だがアルバートだけは、わずかに目を伏せた。
「……来る」
足音はない。
殺気も、敵意も感じられない。
夜霧の奥で、白い光が淡く滲み、それが“形”を結ぶまでに、誰も瞬きをしなかった。
月を背に、淡金の髪の青年が立っていた。
透明な青の瞳。
感情の揺らぎを拒むような、静かな眼差し。
その姿を見た瞬間、リアンの胸の奥が、理由もなく強くざわめいた。
「……レイヴン?」
その名に、リリスが小さく息をのんだ。
「……やっぱり……」
幼い頃、この屋敷の庭の端に、いつの間にか立っていた王家の子。
遊びに混ざることもなく、ただ淡い光をまとって、空を見上げていた――
その後ろ姿だけが、記憶に残っている。
レイヴンは答えない。
淡い光を揺らしながら歩み寄り、迷いのない足取りで一直線に進む。
そして――最初から決められていたかのように、ティアラの前で静かに足を止めた。
その瞬間。
森の空気が、音もなく澄みきった。
風が止まり、夜霧が薄くほどけ、世界そのものが、二人の間に生まれた“何か”を見守るように静まり返る。
ティアラは息を呑んだ。
胸の奥、精霊核の深部が、かすかに――
ひとつの音を思い出したように、脈を打つ。
「……レイヴン……?」
名を呼ぶ声は、震えていない。
だが、彼女自身も気づかないほど微細に、呼吸のリズムだけが乱れていた。
名を受け取った瞬間、レイヴンの淡い光が、ほんのわずかに――揺らいだ。
それは感情ではない。
意志でもない。
王家に連なる光が、精霊の核と“同じ階層の存在”を認識した反応だった。
距離が、さらに縮まる。
そのたびに、ティアラの髪の先に、白く澄んだ光片が生まれては、静かに溶けていく。
光は弾かれない。
拒まれない。
まるで――
最初から、ここに戻ることだけが、決まっていたかのように。
リアンは、無意識のうちに一歩踏み出した。
ティアラを庇う位置に立ち、淡い光をまとう青年を、真っ直ぐに睨む。
その瞬間、クラウスが何も言わずに腕を伸ばし、リアンの動きを静かに制した。
「……何の用だ」
低く、間に入る声だった。
クラウスの声は低く、警戒を隠さなかった。
レイヴンは、ゆっくりと視線を上げた。
凍てついた湖面のように静かな、青い瞳。
「……確かめに来た」
短い言葉。
だが、それは言い訳でも、挑発でもなかった。
「……何をだ」
間髪入れず、リアンが問う。
レイヴンは答えず、再び視線を落とす。
その青い瞳に映るのは、姿ではない。
魂の奥で脈打つ、精霊核そのものだった。
「……そこに在るものが、何なのか」
静かな声。
だがその問いは、個人に向けられたものではない。
王家の光と、精霊の力。
その“結びつき”そのものを測る響きを帯びていた。
「……なるほど」
ごく低く、誰に向けたのでもない声。
その言葉に、判断はない。
だが――確信だけがあった。
リリスが、思わず声を落とす。
「……レイヴンが……誰かの“存在”に、こんなふうに……」
言葉は、続かなかった。
それ以上は、言語に落とせない領域だったからだ。
レイヴンの光は、ティアラへ向かって“伸びる”ことはない。
ただ、静かに共鳴しているだけだった。
触れず、奪わず、互いが互いを映し合うように。
その時だった。
アルバートが、はっとしたように周囲を見渡す。
「……夜織だ。第一陣が退いた直後になのに、もう別動隊を走らせてきたようだ」
その名が出た瞬間、ユラの表情がわずかに引き締まった。
意識が、一気に戦場へ引き戻され、 空気が張り詰める。
レイヴンは、森の奥に漂う気配を静かに読み取った。
「……追跡の反応だな。この場で、強い光が立ち上がった以上――夜織は必ず、そちらへ寄せてくる」
淡い光が、彼の足元から静かに立ち上る。
「ここに留まれば、彼女の存在と、この光が重なって見える――だから、俺が離れる」
アルバートと、ほんの一瞬だけ視線が交わる。
言葉はない。
だが、それで十分だった。
「俺が動く」
レイヴンの声は低く、静かだった。
「王家の光を前面に出せば、夜織は――捕獲対象が、こちらにあると誤認する」
クラウスが息を呑む。
「……つまり……」
「夜織を、この場から引き離す」
それは義務でも、使命でもない。
状況を読み切った上での、冷静な判断だった。
クラウスは一度だけ小さく息を吐き、苦い表情のまま頷いた。
「……合理的だが、無茶だな」
アルバートは一瞬だけ目を伏せた。
他に選択肢がないことを、誰よりも理解していたからだ。
「……頼む」
レイヴンは再びティアラを見る。
「君は……ここにいろ。俺が離れれば、夜織の視線は、必ず俺を追う」
敵でも味方でもない。
だがその言葉は、結果として彼女を守る選択だった。
淡い光が一気に広がり、次の瞬間、レイヴンの輪郭が夜気へと溶けていく。
消える直前、彼はティアラへだけ、低く言葉を残した。
「……いずれ、また」
白い残光が散り、レイヴンの気配が完全に消える。
森は、すぐには元の静けさを取り戻さなかった。
ユラは、消えた光の名残を追うように森の奥を見つめたまま、低く呟いた。
「……あの光……夜織はきっと追うはず」
夜霧が遅れて流れ込み、風が葉を揺らし、ようやく世界が動き出す。
だが――
ティアラの心だけが、取り残されていた。
胸の奥。
精霊核のさらに深い場所に、触れられた感覚だけが、静かに残っている。
光はもうない。
温度も、音もない。
それなのに、消えたはずのものが、まだ“在る”と知ってしまったような感覚。
彼女は、無意識に息を整える。
世界が、ほんのわずかに遠い。
――共鳴は、終わったのではなく、沈んだだけなのかもしれない。
そう思った瞬間、足元の感覚が、ようやく地面に戻ってきた。
◆
森のさらに奥――
夜霧の中を進んでいた夜織の別動隊が、同時に足を止めた。
「……光だ」
次の瞬間、視界が白に塗り潰される。
攻撃ではない。
だが、進路も距離感も――すべてが狂わされた。
気づけば彼らは、アルシェ家の結界から完全に引き離された場所に立たされていた。
「……馬鹿な。転移系の光術だと……?」
返答はない。
ただ、夜霧の奥で淡い光が揺れ、それは“追うな”と告げるように、静かに消えた。
◆
レイヴンが去った直後ティアラは胸を押さえ、小さく息をつく。
「……胸が……変な感じがする……」
リアンはそっと肩に手を置く。
「……今は、落ち着いていればいい」
リリスは尻尾を垂らし、複雑そうに呟いた。
「……変わって、ないはずなのに……なのに……前より、ずっと……近づいちゃ、いけない感じがする……」
クラウスは険しい表情でアルバートを見た。
だが、問いは口にしなかった。
アルバートの脳裏には、妹リュミエルの面影と、二人の幼子の姿が重なっていた。
――同じ光の下に生まれ、
――別の運命を歩かされることになった二人。
だが、それを口にすることはない。
「……王家に連なる光だ。だが、あれは――お前たちが知っている“王子”の姿ではない」
リアンは拳を握りしめた。
掴めないものが、すぐそこまで来て、また遠ざかった。
アルバートは短く目を閉じた。
「……知らぬ方がいいこともある。少なくとも、今は」
それ以上は語らなかった。
夜風が一度だけ強く吹き抜け、運命が大きく動き出したことだけを、森に残していった。




