プロローグ 前編 王の記憶
それは、まだ王が王になる前の記憶だった。
霧雨のように細い風が、王都ルミナ・アストラの外れに佇む古い祭殿の庭を揺らしていた。
その薄い揺らぎの中、一人の少年――ヴァレスト――が静かに歩いていた。
ルミナ・アストラは、光を中心とした魔力文明の象徴だった。白石の建物は日差しを受けて淡く輝き、白銀の石畳の大通りには魔導ラインが走る。夜になれば、魔力灯が星のように点灯し、昼よりも明るい幻想的な光景を街にもたらす。しかし、王国の美しさは外側から見える部分だけで、皇子制度の影に潜む闇とは対照的だった。
アストラル王国の王族は、幼少から儀式と祈りに縛られる。本来なら祭殿の奥で神聖な儀式を見守るはずだったが、ヴァレストは“視察”を理由に外へ出ていた。胸の奥に横たわる、言葉にならない空白から逃れるように。
王族は光属性を濃く継ぐほど、幼い頃から感情が薄れていく。嬉しさも悲しみも、やがては風のように指の間をすり抜ける。それが“王となる者の証”だと教わってきた。
理解はしている。だが、感情が薄れていく感覚には、どうしても馴染めなかった。
祈りの声が遠ざかり、庭に柔らかな光が差し込む。
光の中に、ひとりの少女が立っていた。
淡い金の髪が風に揺れ、瞳は澄んだ水面のように静か。華やかでも劇的でもないのに、目が離せなくなる不思議な存在感。
――後に第六王妃となる少女、リュミエル。
その姿を見た瞬間、ヴァレストの胸に、小さな波紋が広がった。
揺れた理由はわからない。ただ、心の中の何かが反応した。
「……何を祈っていた?」
訊ねたのは、思考より先に声が動いたからだ。
リュミエルは振り返り、静かに微笑む。その柔らかな表情を見た時、胸の奥の空白がほんの僅かに動いた気がした。
「皆様に、少しでも恵みが降り注ぎますように……と」
「……そうか」
優しい、と言いかけて、ヴァレストは言葉を飲み込んだ。自分の中に “優しさ” という基準がまだ残っているのかすら曖昧で、正確な言葉を選べなかった。
「……わたしには、それくらいしかできませんから」
薄く滲む寂しさ。その響きが胸に触れた瞬間、ヴァレストはふと、自分の心臓の鼓動に気づいた。
決して大きな動きではない。
痛みとも呼べないほどの、微かな揺れ。
感情なのか、ただの反応なのか――判別がつかない。
アストラル王国には、継妃制度というものがある。王妃は代々六代公爵家から輩出される。女児は生まれてもすぐに命を奪われる。そして、男子を一人産めば廃妃になる。
祈りや願いすら踏みにじる、そんな制度がこの国を形づくっていた。
残酷なのは知っている。けれどその冷たさに、これまで胸が動いたことは一度もなかった。
なのに今、この少女の言葉に、微かなざわめきが宿っている。
その理由を、ヴァレストはまだ知らなかった。
――やがて王となる運命を背負う少年ヴァレストにとって、この出会いが、取り戻せない何かの始まりになることを、この時の二人はまだ知らなかった。




