七話 始まる論議
『明日帰る。またすぐに出るが』
父さんからの短なメールが届いたのは、午後十一時を回った時だった。
そのメールから時計の短針が一周した頃、「客がいる。茶を用意してくれ」という父さんの声が家に響いた。
「お邪魔します」
続いた声は静かな印象で、仕事人間の父さんが連れてくる客のイメージに合っていた。
「メイリン、出てこい」
靴を脱いだ父さんがメイリンの部屋の戸に向かって言って、そのままリビングへと歩く。元々体面を取り繕うような人ではないが、それでも全く気にしていない姿を見ると、ただの仕事相手ではないようだ。
二人分のお茶を用意してリビングに入り、お茶を置く動きの中で客の顔を見る。まだ二十代前半に思える女性は、相当に美人だった。
「なに?」
メイリンがボサボサとした髪の毛を恥じる様子も見せずに現れた。客の前でも全く気にしない様は父さんに似ている。父さんでも守る節度を一切守っていないが。
「あぁ、まぁ座れ」
入口を背にした父さんが言う。客と父を前にして俺が上座に座るのも変な気分だが、気にする必要もないだろう。
俺が女性と向き合う位置に座り、メイリンがその横、父さんと向き合う位置に座る。
「再婚することになった」
「あっそ、それじゃ」
唖然。
「いや待て、今のなんだ」
平然と言い放つ父さんにも驚きだが、それを聞いて即座に立ち去ろうとするメイリンにも驚きだ。
「ユウジさんの家って本当にこんな感じなんですね」
言葉の割に驚いた様子も見せずに女性が言う。ここまで全員が平然としていると、異常なのは俺なんじゃないかと疑ってしまう。
「変わったことはあったか?」
崩した姿勢で座る父さんが問うてくる。
「特には何も。あぁでも変な奴は増えたか」
今この部屋にいるのは父さんと俺だけで、メイリンは自室に戻り、女性は仕事に戻ると帰っていった。
「お前が言う『変な奴』とは、メイリンみたいな奴のことか」
あんたもその中の一人だよ、と言ってやりたいが、そんなことは承知しているだろうから「そうだよ」とだけ返す。
「例えば?」
「ムーチー教とかいうエセ宗教の信者だな」
ユウカが宗教勧誘に来るようになったのは俺が中学に上がった年の夏で、その春には父さんが家を出ていたため、父さんは知らないはずだ。
「あのガキに信者ができたか」
返ってきた言葉に言葉を失う。エセ宗教を知っているどころか、馬鹿みたいな教主まで知っていたとは。
「知り合い?」
問うと「いや」と首を振った。
「それほど知っているわけではない。私の意見に対して徹底的に罵倒してくれた意地汚いガキだということくらいしか知らない」
これ以上踏み込んだらダメだと脳が警告してくる。
「他には?」
「そうだな。理性の化物……、『理性だけの人間は化物だ』とか言う同級生がいる。その姉、双子だから同級生なんだが、これもなんだか意味深なことを言う」
危険な香りのする教主から、トガナガ姉弟の話に変える。しかし、ただ話題を変えただけのつもりだった言葉は、僅かに愚痴のようでもあった。
「それはまた、尖った奴だな。それで、お前はどう思うんだ?」
意外にも真剣な表情になった父さんが、要領を得ない質問を投げてくる。
「どう、って言われても何を聞かれているのかも分からん」
率直に答えると「分かった」と呆れるような言葉が返ってきた。以前のナガミとの会話に似ている。
「お前は考えておらず、逆にメイリンやその二人は考えていた。それだけの話だ。……それだけの話だが、だからこそ溝は深い」
再び要点のはっきりしない言葉が発せられた。
意味が分からずに視線で問うと、父さんは考えるような顔をしてから話し始める。
「この世界は神が創った。信じるか?」
質問の意図が分からない。そんな話は小学生でも分かる。
「信じない」
「この世界は神が支配している。信じるか?」
「信じない」
「この世界を神が見守っている。信じるか?」
続けられる理解不能な質問に耐えかねて、「なんの話だ」と怒声を上げてしまう。
父さんは再び呆れるような顔をして、ため息をついた。
「それをお前は考えず、メイリンたちは考えた。それだけの話だ」
言い捨てるように吐かれた言葉は、やはり理解に苦しむ。
「どうして考えてないことになる。この世界はビッグバンで始まって、世界を支配しているのは物理学や生物学のそれで、世界を見守る神なんて曖昧な存在は証明されていない。これ以上どう考えるんだ」
聞きかじったような言葉を並べ、反論する。
「それはムシンロンシャの確立された、使い古された理屈だな」
父さんは一蹴するが、その言葉に納得できる答えは含まれていない。そもそも『ムシンロンシャ』とはなんだ。
「ムシンロンが分からないか」
驚くように呟いてから「無い神の理論で無神論だ」と説明する。最後に付いた『シャ』は者だろうか。
「無神論者は物理学だ生物学だと叫ぶが、その学術が正しいという証明は、悲しいかな今の科学には不可能だ」
父さんの言葉は理解できる。大昔に天動説が覆ったように、今では常識とされる科学的な意見も、数百年後――いや数年後でさえ正しいとは限らない。だが、だからといってそれを否定すればいいという話でもない。
「何を言っているんだ……?」
半ば呆然として問う。その問いは眼前にいる父さんにではなく、自分の内心に向けられていたのかもしれない。
「お前が言う『変な奴』とは、それを真剣に考え、それぞれの意見を持った者だ。無論、その意見を否定するのは自由だ。かつての地動説がそうであったように、誰にも理解されないと覚悟してやっている。だが、それを笑っていい道理はない」
自分の行動を思い出す。笑った記憶はないが――いや、中学時代はメイリンを笑ったか――まともに聞いてはいなかった。それをナガミに注意されたのが、つい数日前か。
「ただ、まぁ日本人は多宗教すぎて信心があまりないからな。お前みたいなのが普通だ。それに、世界全体で見ても哲学臭いことを考えてる人間なんて少数派だろう」
怒りさえ浮かんでいた表情を一変させ、笑いながら言う。
「それじゃ、どうしろってんだよ」
投げやりに問うと「どうにでもすればいい」と同じく投げやりな言葉が返ってきた。
「考えるのは自由だ。変な奴らと仲良くしたいなら相手の話を聞いて、同調しろとは言わないが、真剣に考えてみればいい。面倒臭いって思うなら、考えなければいい」
続く言葉は、投げやりに見えて投げやりではなかった。ただ自由だと言っているだけで、それ以外は何も言っていない。だが、それが自由なのだろう。
「それじゃあ、聞いてみたい。父さんは神様を信じてるのか? 神様が世界を創って、支配して、見守っていると」
「その言い方だと否定も肯定もできないが、神は信じている。だが、創ったとも支配しているとも思っていない。ただ見ているだけだと思っている」
父さんの答えは、少し意外だった。神様には創造や救済といったことが付き物だ。
「どうして、そう思うんだ?」
真剣に問う。証拠も何もないものを、何故信じられるのか。
「さてね、私自身よく分からない。気付いた頃にはそういうものだと思っていて、今では理由もなく確信している。まぁ、それをあのガキに否定されたのだが」
幼い頃の夢でも語るような声音で紡がれた言葉は、途中から憤怒のそれになった。どれだけ怒らせたんだエセ教主は。
「ええと、なんて言われたの?」
恐る恐る訊ねる。ここまで来ては気になって仕方がない。
「『意味のないものは存在しない。ただ見ているだけという無意味なものが存在する道理はない』だったか。それと、その証明を屁理屈で延々と続けやがった。あれは頭がイカれている」
怒声で吐き捨てた父さんは、そのまま貧乏揺すりを始めてしまった。被害が出る前に退散しよう。