二 精神の行方
精神とは何か。
それはどこから生まれ、どこへ行くのか。
精神とはイコール感情と言ってもいい存在だが、では感情とは何か。
そもそも精神とは、すなわち感情とはいつ生まれるものなのか。
よく言われる話でいえば、中絶される胎児に感情はあるのか否か。
思考することができるなら、そこに感情は生まれるだろう。ならば胎児は思考できるか。
「メイリンは知ってるか? 胎児が思考できるかどうか」
リビングで瞑想という名の斬新な昼寝をしているメイリンに問うが、答えは返ってこない。
科学に明るければそのあたりも分かりやすいのだが、如何せん科学には疎い。
「なに、もっと単純に考えればいいのさ」
シキはからからと言う。
「哲学とは時に科学に反するものだよ、青年」
そこまで堂々と言われるとなんだか正しいことのように聞こえるが、この現代で科学に反するということは、要するに間違っているということだ。科学的でない発言に意味などなく、馬鹿を騙すのが関の山だろう。
「じゃあ君に聞くけど、精神とはどこから生まれる? そして、どこへ行く?」
産まれた時には感情も持っているのか。それとも、育っていく過程で身に付き、育つものなのか。
そして死ぬ時、肉体とは別物の精神はどこへ行くのか。それこそ、あの世へ行ってしまうのか、それとも霧のように消えるのか。
「簡単だよ。君も言っただろう? 精神とは思考から生まれる」
「なら、その思考はどこから生まれる?」
「思考は精神から生まれる。要は鶏と卵だ」
それでは答えになっていない。そう言おうとしたが、シキがそんなことも分からないはずがないだろう。ただ単に、からかわれたのだ。
「ただ、そうか」
ふと思い付くことがある。
「精神なんてものがなくても、痛みは感じる。その『痛い』というのは感情で、ここに感情が生まれると言うこともできるかもしれない」
独りごつように言うと、「屁理屈だね」と相槌が返ってくる。
「哲学なんて、結局は立派そうに見える屁理屈だろう?」
どれだけ崇高な理論だろうと、何も生まなければ意味はない。何も生まない理論など、屁理屈と大差ないだろう。
「痛いという感情が精神だとすれば、腹が減った、眠い、そういった欲求も感情で、ひいては精神ではないだろうか」
シキは言う。
「ならば繁殖を繰り返すだけの動物にも感情はあり、精神がある。産まれたばかりの子供にも、同様に感情があり、精神がある」
結局のところ、答えなど出ないのだろう。
「感情から思考が生まれ、思考から精神が生まれ、その精神が感情と同一化する。机上論に過ぎないか」
吐き捨てると、シキは笑った。
「哲学なんてものはそのほとんどが机上論だよ。神はいるのかいないのか。不可知論者から言わせれば論ずるまでもないことなのだろうが、どちらを論ずるにしても机上論であるという大前提は揺るがない」
だから机上論でもいいのだと言いたいらしい。それは赤信号をみんなで渡る理屈だが、今はまぁ良しとしよう。
「なら、感情から生まれた精神は、その主である人間が死んだ時、どこへ行く?」
その問いはシキやメイリンに向けたものではなく、自らに向けたものだった。
思考することができなくなった時、精神はどうなるのか。
痛みを感じなくなった時、精神はどうなるのか。
それは空っぽの虚ろな器になるのか、それとも器ごと消えてなくなるのか。
あるいは、消えゆく肉体とともに消えていくのか。
「精神が肉体とともに消えるなら、肉体が消えない現代では精神は不滅のものとなるのだろうか」
俺の思考を読むようにして、シキが問う。
「肉体が消えない? それは遺骨が土に還らない、ということか?」
「あぁ、そういうことだ」
あくまで精神が肉体とともに消えゆくという前提の話だが、そうなると、墓や骨壷というのは地獄と同義だ。肉体が死んでも精神は死にきれず、半永久的に閉じ込められるのだから。
しかし、思考できなくなった肉体に、いつまでも精神は生きられるだろうか。
そもそも精神は何かという定義が曖昧なままでは進まない論議ではある。
「あの世は存在すると思うか?」
今にしてみれば一周回って突飛な発言である。
「ないね」
「だよね」
二人でその事実だけを確認して、笑っておく。
あの世がないなら、精神はこの世に留まるか、それとも消えるかの二択になる。この世に残るなら、それは俗に言う幽霊ではないだろうか。
ならば。
「幽霊は――」
「いないね」
だよね、と内心で相槌を打つ。
こうして消去法で考えると、いとも容易く片付くものである。
「精神は肉体が死んだ時点で霧散すると考えるのが妥当だろうか」
結論が正しいかどうかの最終確認を行うと、シキは静かに頷いた。
しかし。
本当にそうなのだろうか。
結局は、分からない。分かるはずなどない。
だが。
それが分かる時が来た時、人はどうなるのだろう。




