三十八話 破滅の思想
勢いのままに特急とバスを乗り継いで、俺は海から帰っていた。
青春という言葉を知らない日本人はいないだろう。言うまでもなく、まだまだ若い者たちが謳歌するそれだ。
青春を歳に例えるなら、まず間違いなく十代半ばから二十代前半である。
ならば夏は、秋は、そして冬は何歳だろうか。
少女は、俺が歳を問うた時に黒と答えた。その言葉が意味するのは、恐らく。
「すみません、まだやってますか?」
俺はその店に来ていた。確認していなかったが、もう時間も相当だろう。もう閉めるところだという可能性もある。
それに……。
「マスター、少しいいかね?」
危惧していた少女の不在は、幸いにして無駄な心配に終わった。
「えぇ、まぁ」
白髪の店員は少女の言葉に頷き、「コーヒーでよろしいでしょうか?」と俺に問うた。
「はい」
それだけ答えて、俺は少女の前に向かい合った。
「答え合わせをしてほしい」
マスターと呼ばれた白髪の店員がコーヒーを持ってくるのを待ってから、俺は口を開いた。
少女は「あぁ」とだけ言って頷き、頬杖をついてこちらを見据える。
「君は黒で、冬」
少女は頷くだけだ。
単純に考えれば、それは高齢を意味する。若く青い春から夏、秋と過ぎていった後の冬は、もう年老いて先の人生を数えるほどだろう。
しかし、眼前の少女はそれほどの高齢には見えない。
「年齢だけで見れば青と言ってもいいが、逆説的に、残りの人生から考えると黒」
それはつまり。
「君はあとどれだけ持つ?」
俺の答えはそれだった。
少女は「へぇ」と見据えたままの目を見開き、そしてにやりと笑う。
「大正解だ。満点をあげよう」
ただ表面だけを見た答えでは正解とはならないだろうと、少々裏を読むようなことをしてみたが、当たってしまったか。
「人は冬を越せない」
少女は唐突に口を開く。恐らく、説明でもしてくれるのだろう。
「人は考える葦だと言われるが、現実にはもっと弱い。葦は冬を越せるが、人は冬を越せない」
無論比喩としてだが、と少女は付け加える。
「今年の春」
少女の目が見ているのは過去であり、そして遠くない未来だ。
「僕は桜が散った日に、来年はその桜とともに……。そう決めたんだ」
そんな言葉に、俺は半ば呆然としてしまった。
「決めた?」
少女は「そう、僕が決めた」と微塵も否定せずに頷いた。
「その散り方が僕の終わりで、僕の信仰だよ」
そんなのは間違っている。
俺は後先考えずに、そう叫んでいた。
「間違ってなんかいないよ。限りなく正しい理論の上に成り立った信仰の結果さ」
どんな理論かは知らないが、その理論は間違っている。そんな結論を出す理論が正しいわけがない。
そう思ったが、しかし否定するだけの言葉も知恵も、俺にはなかった。
「でも……」
それでも何か言おうとして、少女の視線に気が付いた。
それはいつになく優しく、暖かかった。
「君は悲しんでくれるのかい?」
あぁ喜んでいたのかと、その声を聞いて理解した。
「当然だ」
しかし少女は、まだ笑っていた。
「ただ、残念だけど、これは悲しむようなことじゃない。現に僕は嬉しいんだよ。嬉しくて、嬉しくて堪らないのさ」
楽しげに、心の底から楽しむように、少女は笑っていたのだ。
「ようやく全てが終わる。退屈な積み木遊びは終わるんだよ、唯野君」
幾つもの言葉が頭に浮かんだ。
『それ』を止めるための言葉だ。
しかし、そのどれもが無駄だと分かる。
少女の思想を俺は知らない。だから無理なのだ。その思想を否定するなど。
それでも。
それでも俺は、否定したかった。それがただのお節介で、相手の望まないことだろうと、否定したかった。
だから、俺は言葉を紡いだ。
「一つ、俺と賭けをしてくれ」
これは文字通り、賭けだ。
少女は「聞くだけ聞こう」と言葉の続きを問う。
「その賭けに俺が勝ったら、君はその終わりを諦めてくれ」
コインは表と出るか、裏と出るか。
「そんな賭けに僕が乗るはずがないと分からないわけもない、か」
思案するような顔の少女は「内容を聞こう」と再び問う。
ならば、俺は表が出るようにコインを投げるまでだ。
「俺は人神論を完成させる。人が神になる方法を考え、実現させる。それが本当にできたなら、俺の勝ち。できなければ当然負けだ」
こんな言葉をトガミが聞けばどう思うか、などと思いながら「これでも乗らないか?」と問うと、少女が笑った。
それは、いつもの嫌味な笑みだ。
「本気で言っているのかい?」
「本気だ」
即答する。それは少女の問いに対する答えとしては嘘となるが、しかし本気であることは事実だった。
「なら、乗ってあげよう」
少女はからかうような笑顔で言う。
「二言はないな?」
そうして俺の言葉にも頷き、「僕の信仰心と、信仰する理論に誓って二言はない」と笑ってみせる。
「なら、賭けは成立だ」
思っていたよりずっと容易に、賭けは成功した。俺は勝ったのだ。
「しかし、苦肉の策とはいえあまりにぞんざいだな、これは」
少女は楽しそうだ。
「どうして?」
俺も楽しくなってきてしまうが、それを堪えて問うておく。
「人はどこまで行っても人だ。神にはなれない。そんなことは科学を持ち出すまでもなく分かりきったことで、その理論の完成など人類史が終わるまでかけても不可能さ」
「だから?」
今にも笑いそうになってしまう。だが、笑うのはまだ早い。
「この賭けで君が勝てる可能性はゼロだ」
少女は決定的なことを言ったつもりだろうが、悲しいかなもう遅い。
「だろうな」
俺はトガミを振った時のように、嫌味に笑った。
その答えでようやく状況を理解した少女が「なら、どうして?」と疑問符を浮かべる。
「人神論が完成不可能だと証明されることはない。それこそ、完成したその瞬間になってようやく白黒付く話だろう」
悪魔の証明である。実現可能だということも、実現不可能だということも、ともに証明できない。
「それはすなわち、人神論が完成するまで賭けの結果は出せないということだ」
これは俺の賭けだった。少女を騙せるか、騙せないかの。
「君は信仰に誓って守ると言った。君が現在に至る原因となった信仰に誓って、だ。賭けの結果が出る前に去ってしまえば、賭けに負けた時、君は賭けを守れなくなる」
種明かしをしていくと、少女の顔にも再び嫌味な笑みが浮かんでいく。
「君に残された選択肢は、嫌でも結果を待つか、その信仰を裏切るかの二つだけだよ。そして信仰を裏切れるなら、君は桜とともに散る理由などなくなる」
俺の種明かしはそれで終わりだった。
少女は笑う。朗らかに。
「随分な屁理屈だね」
「だが君は頷いた」
「あぁ、頷いた。頷いてしまった」
からからと会話は続く。
「僕は楽しいよ、唯野君」
少女は呵々と笑う。
「悲しいことに、嬉しいことに、それを決意した瞬間よりずっと楽しい」
「それはそうと、いずれ僕にも寿命が来るのだけれど」
達成感に浸る俺の元に、一つの声が飛んでくる。
「それは仕方ない」
別に寿命が来ても生き続けろ、なんて無茶は言わない。仮に少女が謎技術によって老いを克服したとしても、ただの一般人である俺には不可能だ。
「じゃあそれまで暮らすお金はどうしようか。人間、生きているだけでは生きていけない。僕は来年の春までに貯金を使い切る計算で今年を生きてしまった」
話の先が理解できた。できてしまった。
「……要するに?」
絶対に問うてはいけないことだが、俺に問う以外の道はなかった。
「養ってよ、唯野君」




