三十三話 疑念の後輩
紫と緑に薄茶色が這う。その前を黒と白が通り、それを濃紺が追う。
分かりやすく言えば、梅雨の放課後である。紫陽花の葉の上をかたつむりが這って、その前を女子生徒が走り、それを男子生徒が追っている光景。ここ数日よく見た構図だ。
「先輩、覗き見なんてしてないで仕事をしてください」
「失敬な。俺は読書明けに詩的な思考をしていただけだぞ」
「読書している時点で仕事してませんよね?」
そう言って俺の本を取り上げた女子生徒が、それを持ったまま前を向いて男子生徒から差し出された本のバーコードを専用機器で読み込んだ。その本を男子生徒に渡してから、また振り返る。
「返してほしいですか?」
「いや全く」
あの本はいつか三巻まとめて買い、後悔して本棚の奥に仕舞っていたある種の料理本である。返してほしいとは思えない。
「あの、読書してたんですよね?」
女子生徒は問うが、その答えなど分かりきっている。
「あまりにも面白くないからよそ見してた方が楽しいって結論に至ったんだろうが」
むしろ何もせずじっとしている方が楽しいかもしれない。
そんなことを思っていると、女子生徒は呆れと疑いの目を向けてきた。
「また疑ってるのかな? ウタちゃん」
女子生徒の名前はウタカ。その由来は歌を唄うだかなんだかだったが、どう考えても『疑うから』という方がしっくりくる人物である。
「ちゃん付けはやめてください気持ち悪いです」
「なら盗んだ物を返そう」
それから数瞬経って渋々返された本を受け取り、また本を開いて目を落とす。瞬時に眠くなってきた。
大量の本と机と椅子に囲まれたこの部屋は、言うまでもなく図書館である。
一時期住処のように毎日来て、その時期が過ぎても度々立ち寄っていた俺を図書館担当の教員が覚えていたらしく、知らぬ間に図書委員へと推薦され、これまた知らぬ間に受理されてしまったために、俺は今、図書委員会の一員になっていた。
ウタはそんな馬鹿みたいな教員が取り仕切る委員会に立候補して、新入り同士で俺と組んでいる。
そんな後輩と図書館を巣にして二ヶ月。それはイコール二年生になって二ヶ月ということでもあり、そう考えれば感慨も……わくわけがないだろう。
この二ヶ月は何もなく、図書館で放課後を過ごすようになったことくらいしか、去年との変化もない。その図書館にも高頻度でクミとトガミが来るため、更に変化がないのだ。
「先輩はあのトガミとかいう人を振ったんですよね?」
仕事を一段落つけたウタが問うてくる。
「あぁ」
俺は本から目を上げて答える。さっさと読み終えてしまいたいという気持ちが半分、読書を中断できて嬉しいというのが半分といった気分だ。
「根性ありますよね。振られた相手に変わらず接するなんて」
そうだな、と答えそうになって、ふとウタの目を見る。そこに宿っているのは感心や興味ではなく、ただただ疑いの色。
「何か裏があるんじゃないですか?」
やはりこう来た。懐疑主義者とは、端的に言えば常識すら疑ってかかろうという人種である。その一員が眼前の女子生徒であり、厄介なことは人一倍理解できていた。
「裏があってくれれば有難いんだが」
しかし、そんな厄介な人種すら霞むような人種を幾らでも見てきた。運命論者やら人神論者に比べれば、ただの疑り深い一般人に過ぎない。
「どうしてですか? 裏があった方が大変じゃないですか」
さも当然といった言葉に「普通はな」と返しておく。「お前はコーヒーでいいか?」と問うて「僕が男だからそんなこと言うの?」と即答される気持ちが分かるだろうか。まだ恋情以外に裏があってくれた方が楽で良い。
「ていうか、俺は男が男に告白した事実を平然と受け入れているウタに驚きだよ」
とは言ってみたものの、それはあくまで知り合った当初の感想だ。今であれば、驚くどころか納得する。
「当然じゃないですか。同性愛を否定するなんて時代錯誤ですよ」
常識とは盲信を綺麗に言い換えただけの言葉で、ならば疑うべきものである。ウタがそう言ったのは初めて当番で顔を合わせたその日だった。
「まぁそういうことにしておくよ」
ウタだけでなく、ナガミなんかも理性が異常だ。ウタとの付き合いはまだ短いからなんとも言えないが、この二人が感情的になるところはほとんど見ない。
……そういえば、理性を最重要視しているはずのトガミが一番感情的だ。
「そろそろ借りに来る人もいませんね」
俺の言葉を会話の区切りとして、受付の窓から図書館を見回したウタが吐息を漏らす。
「コーヒーでも入れましょうか」
コーヒーの湯気がゆらゆらと揺れる。
窓の外は夕暮れに染まり、そろそろ図書館も閉める時刻だ。
「それじゃあ、片付けのじゃんけんをしましょう」
俺と同じことを考えていたウタが沈黙を破った。
「俺がやるよ」
そもそも機械の操作と本を借りたり返しに来た生徒の対応を面倒臭がり仕事を放棄しているのだから、コーヒーカップくらい洗わなければいけない。
「まぁ、それが妥当ですね」
「別に感謝してほしいと思ったわけじゃないが、もう少し何かあるだろうに」
本来であれば図書館は飲食厳禁である。理由は、当然のように本の汚れの元になるから。
しかし、この委員室という名の詰所は別だ。数年前、夏期テスト前の書き入れ時に外へ水を飲みに行くこともできず、ずっとこの役員室にこもっていた生徒が熱中症で倒れたことにより、この部屋の中でなら役員限定で飲み物を飲むことができるようになっている。
……まぁ当初はペットボトルの水くらいを想定していて、コーヒーセットを常備しておくなんて想像もしていなかったのだろうが。
「それで、トガミさんですけど」
コーヒーカップをトレイに乗せて役員室から出ようとする俺に、ウタが声を投げてきた。
「どうするんですか? まさか、何もなかったように振る舞い続けるつもりでもないですよね?」
ウタからその手の質問が飛んでくるのは珍しい。そもそも俺の交友関係に興味を示すことすらない人物だ。何かしらの意図があるのだろう。
「目下熟考中だ」
あれから二ヶ月が過ぎている。それなのに、トガミを含め周囲の雰囲気に変化はない。それはある意味で恐ろしいことだった。
「トガミも他も、元々普通の思考回路はしていない。一般人の俺が推測できる範囲を超えてるんだよ」
トガミはおろか、ずっと過ごしてきたメイリンの思考すらろくに理解できず、推測など夢のまた夢だ。それでも考えなければいけない。考えなければ待っているのは後悔だけだろう。
「範囲を超えていると分かっていて、何故やるんですか?」
その声は挑戦のそれだった。疑問の色など毛ほどもなく、答えを吟味するための構えすら感じられる。
「それはどちらのことを言っているのか分からないが、まぁどちらにせよ、やらなくちゃいけないと勝手に思ってるからだ」
トガミのことなら適当に振れば終わる。相手がどう言おうと、嫌いだと突き放せばそれで済む。
メイリンのことなら父さんに任せればいい。俺が養うわけではないのだから、中卒で職なしだろうとどうにかなる。
しかし、そうやって無関係を気取れるほど、俺は強くない。
「それでは、いつまで経っても結論は出ません。それは考えるだけ無意味だということです」
ウタの非情な声。
「何かしらの結論は出るさ。正しいかどうかは別として」
既に一つの結論は出かかっている。それが最善でないことは明白だが、それ以上の策を俺は出せない。
「先輩って、やっぱり頭が固いんですね」
今度の声は楽しげだ。その嘲笑うような言葉を聞けば、続く言葉まで予測できる。
「誰かに相談するという考えはないんですか? ナガミさんとか、私とかに」




