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論者の夢想論議  作者: 飯島鈴
第二部
38/66

三十二話 桜散る時

 桜の季節といえば、なんていう問いには二通りの答えがある。

 三月か四月か。

 一般には四月の方が桜の季節であるが、三月の卒業シーズンこそが桜の季節だという人も少なくはないだろう。むしろ最適解は三月と四月を両方合わせた春が桜の季節なのだろうが、そんなことは無視する。

 そして、俺自身にその問いを投げかけるとすれば、答えは――

「どうでもいい。本当にどうでもいい」

 正直に言って桜の季節が三月だろうと四月だろうと、三月に咲いて四月に散ることに変わりはない。ついでに言えば今体育館で行われている卒業式もどうでもいい。なんなら卒業式の方がどうでもいい。

「唯野、どうしたの?」

 卒業式だからかやけにそわそわしたトガミが、俺の小声に訊ねてくる。なんで卒業式だからと変な並び方をするのか分からない。どうしてトガミと隣なんだ。

「いや、卒業式面倒だなって。三年生に知り合いいないし、校長の話長いし、あとなんか変な奴が隣でそわそわしてるし」

 在り来りな小言に交えて直球の嫌味を言ってやると、トガミは俺の左、トガミとは反対側の隣に目を向ける。ここまで直球で気付かないのは一種の才能だろう。

「そうかな? 僕はこういう雰囲気好きだけどな」

 当然だが、今この体育館には独特の雰囲気が流れている。別れの寂しさや悲しさ、新しい一歩への希望なり願望、冬の体育館特有の寒さと校長特有の長い話に対する恨みに憎しみ、そして僅かな何か。

「それでそわそわしてるのか」

 この雰囲気の何が好きなのかは分からないが、全く理解できないでもない。非日常というのはそれだけで楽しい。

「え? そわそわしてる?」

 心底意外そうな声に「してるだろ」と即答する。

「じゃあ、楽しみなんだね、多分」

 トガミは嬉しそうに答えた。言葉通り何かを楽しみに待ち望むような、そんな声で。


 しかし、俺には分からなかった。分かるはずもなかった。そもそも、俺は考えることをしなかったのだから。

「唯野」

 だから、こんな状況に陥ってしまった。

「好き、なんだけどさ」

 付き合ってくれないかな、という言葉を上の空で聞きながら、俺の意識は過去へと逃避する。


 卒業式が終わって二時間も過ぎた校舎裏には人気がなかった。その二時間前には何組かの男女が交代で待ち合わせていたようだが、ほとんどの生徒が下校した今では、野次馬根性丸出しの独り身すらいない。

 そんな頃合を見計らったのか、割り振られた卒業式の片付けを終えた俺を、トガミが呼び出したのだった。

「どうして……?」

 呆然とした声で、意識が引き戻される。無意識に、しかし本心から吐き出した否の答えに、トガミが空虚な目を向けていた。

「どうして、かな?」

 繰り返される問いに対する答えを、俺は持ち合わせていない。

「僕、考えたんだよ」

 答えない俺の代わりに、トガミが独白のように続けた。

「どうして好きになってもらえないんだろう、って。どうすれば好きになってもらえるんだろう、って」

 トガミは俺に向けているようで、虚空に向けて吐露していた。

「それで、やっぱりちゃんと伝えなくちゃダメだなって思って……」

 まだ何事かを続けようとしたトガミは、自らの言葉で我に返る。どうやら時間らしい。

「なんで、僕じゃダメなのかな?」

 再び、今度は明確に吐き出された問いに、俺は答えなければいけない。

「……」

 なのに、答えは出てこなかった。

「クミの方が好き?」

 それとも、とトガミが呟く。

「僕が男だから、かな……?」


 最終下校時刻を間近に控えた体育館は伽藍堂そのものだ。

 申し訳程度の暖房も切られ、刻一刻と冷えていく。

「お疲れさん」

 そんな俺以外の誰もいなかった伽藍堂に聞き慣れた声が響く。

「野次馬その一さん、こんにちは」

 あの校舎裏に人気はなかった。それでもトガミの周りにはナガミがいると宇宙の法則から決まっているのだ。どこかで隠れて見ていたか、見えずとも全てを把握していたに違いない。

 ……でなければ、このタイミングで先ほどの言葉を吐けるわけがない。

「分かりきっていたことだろう?」

 ナガミが言う。俺は「分かりきっていたことだからだ」と吐き捨て、また思考に戻った。このナガミという生き物は、俺の人生で三番目に分からない存在だ。

「ちゃんと考えていればもっと上手い対処もできたろうに、それを怠った結果がこれだよ」

 自嘲の声が体育館に反響し、一拍遅れで襲ってくる。

「結果は私も分かっていたが、しかし何故トガミを振る? 男ということを除けば、一応は一線級だろうに」

 ナガミは微細な怒気を含んだ声で笑う。明らかに自業自得なことでも、弟の不幸には憤るらしい。

「前提を覆さないでくれよ。俺は男でトガミも男なら、そこに恋愛関係は生まれない」

 こんな言葉を聞けば一部の人は心底怒るのだろうな、なんて思っていると、目の前にそういう人間がいた。

「それは一般常識ではないぞ?」

「分かってるよ」

 先ほどより少しだけ怒気を増した声に即答する。同性愛なんぞ往々にあり、それを否定するのは昔の常識に固執する偏見の塊だ。

「だからって、男を好きになれるか?」

 捻りもないただの本音だった。どれだけ同性愛が普通だと言われても、それを自分に当てはめられる人間は少ないだろう。同性の友人に恋愛感情を抱けるかと聞かれれば、大抵は首を横に振るはずだ。

「どうして女か男かにそこまでこだわるのか、私には分からない。トガミは可愛い。それで十分だろう」

 これだから変人は……。そう思った俺の内心を見透かしたように、ナガミは「まぁ」と笑った。

「それを強要するつもりはないがな」

 ナガミがそれまでの怒気を霧散させ、続けて問う。

「それで、何を言われた?」

「見てたわけじゃないのか?」

 答えながら頭を巡らせる。……隠すようなことでもないだろう。

「宿題を貰ったよ。なんでトガミを嫌うのか、原稿用紙四枚で書け」

 当然だが、実際には原稿用紙に書けなんて言われてないし、そもそも宿題ですらない。それでも、そのくらい説明しなければトガミは納得しないだろう。

「どうして振る理由を説明しなくちゃいけないのかが謎だけど、まぁそれはあいつのことだしな」

 トガミの行動原理なんて考えるだけ無駄だ。ついでに変人全般も同様に、考えるだけ時間と労力が勿体ない。

「書けそうか? 感想文は」

 ナガミは笑う。

「幸いにして提出期限はない。半年くらいは待ってもらうよ」

 俺も笑う。

 問題は山積みで、何一つ解決しない。どれもこれも正解なんてないくせに、解決しないと進めない。

 そんな山積した問題の筆頭であるメイリンの高校受験も未だ前進せず、トガミのことを考える余裕などなかった。


 そして、俺は最も分からない人間と鉢合わせてしまった。

「久しぶりだね、唯野君」

「どこが久しぶりだよ。度々会ってる気がするのは俺の気のせいだったのか?」

 向かいの席でオレンジジュースを片手にケーキを頬張った少女は、いつも通りの嫌味な笑みを浮かべる。

「毎回毎回唯野君が逃げるんじゃないか。こうして話すのは二ヶ月ぶりだと思うよ?」

 注文したコーヒーはまだ出てこない。注文から十秒で出てくれば行列ができる速さだが、今だけはその行列店顔負けの実力を見せてほしい。

「それはそうと、宿題の答えは分かったかな?」

 少女が問うてくる。自分から期限延長を持ちかけておいてなんだが、正直その宿題は二の次三の次だ。

「まだ分からないかぁ……」

 こういう相手と話をするのは、ある意味楽だ。声に出さずとも察してくれる。

「それで若者よ、何があった?」

「黙秘します」

 前言撤回。思考を読んでくるのは面倒なんてもんじゃない。

「嫌いなら嫌いとはっきり言えばいいものを、最近の若者はどうも事なかれ主義者が多すぎる」

 嫌いだと言えば相手を傷付けてしまう、という純粋な気持ちを、少女は理解していないらしい。

「違うな、それは」

 少女が吐き捨てる。これはもう超能力の域ではないだろうか。

「何が違う? たとえ嫌いな相手でも傷付けてしまうのは申し訳ないという気持ちは理解できないか? ついでに俺はトガミのことを嫌いなわけじゃない」

 ちゃんと口に出して答えると、少女は「違うなぁ」やら「違うんだよ」などと呟いた。

「本当に嫌いな相手を気遣える人間は聖人だろうさ。唯野君たちの言う『気遣い』は気遣いなんかではなく、ただの保身だよ。だから事なかれ主義者と言ったんだ」

 何度も違う違うと繰り返した少女が、ようやく違う言葉を口にした。

「相手を傷付ければ自分に返ってくる。嫌がらせだったり、悪評だったり、形はなんでもいい。とにかく、相手の不利益が自らに返ってくると知っているから、事なかれ主義者は嫌いな相手にすら気を遣う、……振りをする」

 吐き捨てるような言葉は、しかし核心を突いてきた。言葉は鋭い刃物だと言った人がいるが、まさにその通りだろう。

「……それの何がいけない?」

 仕方なく、俺も刃物を取り出す。

「保身の何が悪いか。少なくとも保身すらせずに相手も自分も傷付けるくらいなら、保身だろうとなんだろうと、どちらも傷付かない道を選ぶ方が良いだろうが」

 それがたとえ自分のためだろうと、相手に不利益を与えたわけではない。自分も相手も傷付かないのに、誰が否と言うか。

「じゃあ」

 果たして、その否を少女が言う。

「今回の君の気遣い。誰が喜び、誰が悲しんだ? 君は大事なく済んで嬉しかったか? 彼は君の答えを聞いて納得できたか? 僕には誰も得をしていないように見えるのだけれど」

 少女の言葉は、やはり刃物だった。

「まぁ正直に言えば僕は得をしたけどね。若者の甘酸っぱい話は飽きなることがない。それはここにいる誰かも同じだろう」

 そう言うと、少女は立ち上がる。そしてようやくコーヒーを持ってきた店員と入れ替わるように、カウンターの方へと歩いていった。

「だから誰かって誰だよ……」

 店内を見回しても、いるのはカップルらしい男女にお茶を呷る酔っ払い、コーヒーを持ってきてくれた店員に白髪の老人店員だけしかいない。明らかに一人の変人はいるが、見なかったことにしておく。あれは見てはいけない人だ。

「あ、あの」

 苦笑してコーヒーを飲もうとする俺に、席から離れずに立っていた店員が声を上げた。

「あの方からお代を頂きましたので、それでは」

 焦って振り返ると、店から出る間際だった少女も振り向き、ニヤリと手を振っている。

 そしてまた、少女に奢られた高校生が一人、店に残った。


「ただいま」

 疲れきった身体から疲労とともに吐き捨てる。

「おかえりなさ~い」

 デジャヴか、これは。

「どうしてまた?」

 二番目に分からない人間に、俺は問う。

「何言ってるんですか! 今日は卒業式だったんですよね? それをお祝いしようと思ったんですよ!」

 こいつは若年性アルツハイマーだろう。俺の歳どころか、十一ヶ月前に入学祝いパーティーの押し売りをしたことすら覚えていないらしい。

 しかし、この頭のネジが数本飛んだ感じは心地良い。

 犬を飼っている人の気持ちが分かったところで、今日は寝よう。明日から春休みだが、悲しいことに休む暇すら俺にはないようだから。

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