三十話 少女の思い
新年早々マイペースなトガミとクミを謀略に次ぐ謀略で錯乱させて逃げ延びられた時を見計らったかのように、素肌の露出した首元を突き刺す風が吹いた。
「寒いな」
独りごちてダラダラとしていた足取りを、きびきびとした早歩きにまで速める。ファッションショーでなら真夏に着ていてもおかしくない薄手のコートで真冬の一月を過ごそうというのが無理な考えなのだろうか。
「……だからってコート買うだけの余裕はないし」
寒さは独り言を増やすという名言を聞いた覚えがある。有名な言葉でなくとも誰かしらは言ったはずだ。
そんな独り言を誰かに聞かれてはいないかと辺りに視線を走らせると、見たくない店構えが目に入った。ついでに窓際の席にちょこんと座る小学生も見えた気がするが俺は何も見ていない。なんなら目が合ったとも言えるが、それは俺の勘違いだろう。
仕方なく、早歩きを小走りに変更。あと二十秒も走れば自然に曲がり角を曲がり、喫茶店の窓際の席から視線で追えなくなる。
……ということは。
「女の子を見つけて逃げるとは、モテる男は違うねぇ」
「追い付くのが早すぎやしないか? 見つけてから会計を済ませてダッシュしてどうにかってレベルだぞ」
予想していた声に振り返ることはせず、さっさと言い返して足を進める。
「無論だよ。会計は無視して来たのだから」
だから少し待ってくれ、と少女は言うが、待ってやるほど律儀でもない。食い逃げで補導されて出禁になればいい。そうすれば俺が安心してあの店に行ける。
「そんなに急いで帰りたい用事でもあるのかね?」
少女の問いは、前の言葉より少し離れていた。耳を澄ませば、俺の後ろに続く足音はゆっくりと歩いているようだ。
「特にはない。夕飯の準備は間に合うし、課題は放課後終わらせるようにしている」
追うのをやめられてしまえば、追いたくなるのが人間の性。少女の方が一枚上手だ。
「だからといって、君と話すのは少し嫌なんだよ。無自覚に見透かし見下し笑う人物を前に、誰が楽しくいられるか」
会って二度目の、しかも少女に言う言葉ではない。それでも、口を衝いて出た言葉は引き戻してくれない。それは神話の時代から続く世界の法則だろう。
「僕はそんなに嫌われていたのかい?」
少女は悲しげに笑い、「まぁ」と諦観の息を吐く。
「まぁ、僕に教えてくれた人物も嫌われていたから、理解してはいるんだけれど」
静かな言葉が夕方の路地に消えていく。
「彼は嫌われるのが楽しいみたいで、嬉しいみたいで、本当に意地の悪い笑みばかり浮かべていてね。無意識に似てしまったんだと思う」
言葉を結んだ少女が、「では」と語調を変える。
「答え合わせだけしておいてもいいかね?」
少女が吐き出した声は、たった数時間しか話していないのに強烈な印象として残っている、いつものものだった。
「それくらいなら」
小さく言って、ひどく遅い足取りで進めていた歩みを止める。通りから足音が絶えた。
「分からなかった。妹に聞けば分かるかもしれないし、トガミの姉に聞いても分かるかもしれない。それでも聞かず、聞けず、結局答えは分からない」
紡いだ答えは単純だった。小学生の頃は夏休みの宿題の全てに適当な答えを書いてバツ印をしておけばいいと思ったりもしたが、実際にやれば奥歯を噛み締めるくらいには悔しいし情けない。
「それが唯野君の答えか」
少女は、「了承した」と呟く。その声から心情は察せない。
「提出期限を延長してもらってもいいかな?」
そんな声を聞いて俺の口から出た言葉に、自分でも呆れてしまった。
「いいけど、どういう心境の変化があったのか聞いておきたいね」
驚くように素っ頓狂な少女の声と言葉を聞いたのは初めてだろうか。
「コーヒーをタダで飲める画期的な方法を思い付いたんだよ」
正直に言ってしまえば、嫌われ者に何かを教わって同じく嫌われるような性格になってしまった少女を放っておけないと思ったのが半分、何か良い勉強になるのではないかと思ってしまったのが半分だ。
しかし、そんなことを口にするほど正直者でも青春野郎でもない。
「いやいや、それは良い」
少女は呵々と笑った。
「ヒモ男というのは、どうにも馴染みのある人種だよ」
「あ、あの、すみません! お兄さんでしょうか!?」
あのまま少女と別れて二十分近くも寒い中で小走りを続けてきた俺を玄関先で迎えたのは、メイリンの挨拶ではなく、知らない人物だった。
「もう一度ゆっくり話してもらえますか?」
頭の中で現状を整理しながら、時間稼ぎに問うておく。
眼前の人物は若い女性。コートの裾から覗く制服らしいズボンからして、高校生か中学生だろう。容姿は良く言えば落ち着いて整った顔立ち、悪く言えば印象に残らない程度に地味。
「す、すみませんっ! えと、あの、お兄さんでしょうかっ!?」
焦りと怯えで先ほど以上に早口になった言葉を咀嚼していく。俺に妹はいるが、それは同系統の見た目であれ、全く違う類いだ。この人物は妹ではない。
では俺の知らない妹が存在したという可能性はどうだろうか。おあつらえ向きにほとんど面識のない義母がいる。……が、まぁコウさんの年齢でこの歳の娘がいるわけがない。
結論として、情報不足だ。
「言い換えます。お兄さん、というのはどういうことでしょうか? 誰かの知り合いで?」
消去法で言葉を選んでいくと、残ったのは単純明快な問いだった。
「へ? ……あっ、申し訳ありません!」
俺の言葉でより一層緊張してしまったらしい言葉から数秒待つと、ようやく求めていた説明が返ってくる。
「メイリンさんのともだ……クラスメイトをやらせていただいている、リーエィと申します!」
あぁ友達か。違うのかクラスメイトか。いや今の感じだと友達と考えていいのか。
そんな思考が渦を巻き、遅まきながらに驚愕が訪れる。
「メイリンの友達!?」
あの変人第一号である運命論者に友人がいるとは思えないし、いたらいたで第二第三第四以下諸々の変人であることが保証されているはずだ。それなのに、眼前の人物は地味で良い子そうな印象を受ける。
「あっ、いやっ、そのっ」
俺が混乱するように、リーエィと名乗った人物も取り乱す。
「友達というのは私が勝手に言っているだけで、その、メイリンさんもそう思ってくれているかは分かりません!」
はい、と自分で自分の言葉に頷くリーエィが、少し落ち着いた目でこちらを見据える。よく見れば僅かに見えるズボンには何度か見覚えがあった。メイリンが一度も使わずに放置している物と同じ、メイリンと俺が通っていた中学の制服だ。
「あぁ、了解した」
一方的な友人という意味では分からないでもない。不肖の妹に人徳があるかは別として、一方的ならば同世代を敵視しているようなあいつにも友人ができるだろう。勿論、世間ではそれを友人とは呼ばないことも置いておく。
「それで、自称メイリンの友人がなんの用で?」
悲しいかな、口を衝いて出た言葉は戻らない。どう考えても初対面の相手に吐く言葉ではなかったが、普段接している人間がアレなせいで変な癖がついてしまっているらしい。
「ええと、ですね……?」
リーエィは俺の言葉の棘に気付きもせず、暗い表情と沈んだ声で告げる。
「三学期、二年の三学期になっても、メイリンさんが登校してこなかったんです」
さも深刻そうに告げられた言葉を咀嚼して、呆れてしまう。
「そんなのいつものことだろうに」
二年の三学期だろうが、不登校は不登校のままで変わらない。変わるはずがない。むしろ長期休暇や年が明ければ登校するなんて思える方が――
「って、二年!?」
そういえば、俺とメイリンは二歳しか離れていないし、メイリンがまだ通っていた頃は俺と一緒に登校していた。その俺が卒業し、高校に通っているということは、登校していないメイリンも進級する。
そして、二年の三学期ということは、受験まで時間がない。
「あぁいや、関係ないな」
受験に間に合おうがメイリンなら受けない。それこそ突然善良なる一般市民となる夢を抱かない限り受験なんて鼻で笑うだろう。変人奇人に一般人の考えは当てはまらない。
「いいえ、関係なくないです!」
しかし、その一般人代表は違っていた。
「受験に間に合わなければ、高校に行けません。高校に行けなければ大学にも行けませんし、まともな職に就けません。手遅れになってからでは遅いんです!」
熱弁を振るったリーエィは、すぐに自分の言動に気が付いておずおずと一歩下がる。耳まで真っ赤にして恥じているが、恐らく恥じているのは的外れなことだろう。
「その言葉は間違っているな。高校に行かずとも大学には行けるし、まともな職業の定義なんぞ誰にも分からない」
そういう固定観念やら偏見やら盲信が変人たちを苦しめる。俺もその固定観念に縛られるうちの一人だから何も言えないが。
「メイリンの友人を自称するなら考えを改めてくれ。でなけりゃあいつは鼻で笑って追い返す」
年下で、曲がりにも後輩の女子に言う言葉ではなかったと反省しつつ、言葉を紡ぐ。
「考えを改める意思があるなら、話を聞こう。こっちもできるなら高校と大学と会社には行かせたい」
俺の強い言い方のせいか沈みきっていたリーエィの顔に、幾らかの明るみが戻る。
「下校してすぐに来たなら、一時間は待っているだろう? 時間があれば温かい物でも出すが、どうする?」
主に防犯上の問題とかを問うてみると、相手は頷いた。
「メイリン、クラスメイトのリーエィが来てくれたぞ」
玄関を上がってリビングに向かう途中で、メイリンの部屋に言葉を投げる。こんな言葉をかければ意地でも出てこないだろうが、こうでもしなければ水を飲みに来たりトイレに出てきたりした時に鉢合わせる危険性があるのだ。この段階での荒療治はメイリンの意思を踏みにじるだけだろう。
「お茶でいいかな? コーヒーとかココアもあるけど」
おどおどとしたリーエィをリビングに通し、台所に向かいながら確認しておく。答えは「お茶で大丈夫です」だった。
その言葉を聞いて、既に手に取っていた茶葉を急須に入れる。そのままお湯を入れてトレイに乗せ、自分用のカップと客用の湯呑みも一緒にリビングまで運ぶ。そしてトレイを返しに行った帰りにポットを持ってくる。朝使った時より重いから、メイリンが一度沸かしたのだろう。
「さて、それじゃあ話を聞こう」
湯呑みとカップにお茶を入れ一服したところで、口を開く。
「君としても何を話せばいいか分からないだろうが、どうやってメイリンと友人になったのかを聞いていいか?」
俺が問うと、リーエィは慌てて湯呑みを置いて「はい」と頷く。
「あの、こんなことを言うのは少し失礼かもしれないんですけど……」
続いた言葉は頷きと違って、歯切れが悪い。友人関係になるまでの経緯に失礼なことなどあるのだろうか。
「私は小学校から名前が変だって笑われたことがあって、中学に上がってもそうなんだろうな、って諦めてたんですけど、そこでメイリンさんに会いまして……」
リーエィは「メイリンさんは似たようなっていうとあれですけど、少し変わった名前なのに堂々としていて」やら「それで少し話しかけようって思えて」なんて話しているが、七割程度は頭に入ってこなかった。メイリンという名前は変。目から鱗だ。
「ですから、その、勝手に友達だと思っていたんですけど、メールもあまり返してもらえませんし、やっぱり嫌われているのかなぁ……と」
まだまだ続きそうになる言葉を聞きながら、頭の中で思考が膨らませる。このリーエィという少女は、この四月から始まった一年で一番まともな人間なのではないだろうか。
リーエィが話し、俺が聞き、メイリンは起きているようだったが出てはこないまま時間は過ぎ、当のリーエィも門限だとか言って帰った。
そして、若く善良な少女の帰宅でいつものリビングに戻ったところへ、ようやくメイリンが現れる。
「また無駄なことをしたアルな」
「客を入れるかどうかの判断も仰いだ方がよかったか?」
不毛な言葉の応酬。
「それで、高校に行く予定は?」
「ないアル」
やはり不毛。
「ならリーエィとかいう自称友人を友人と認めるつもりは?」
不毛に紛れさせて核心を突いてみる。メイリンは高校受験など形だけの通過儀礼としか考えていないだろう。
「それは向こうが決めることアル」
静かな答え。
「友人関係など所詮は主観アル。友人だと思えば友人で、友人ではないと思えば友人ではないアル。ならば我がなんと言おうと、向こうが友人だと思えば友人アル」
さも当然かのように紡がれた言葉は、しかし核心を覆い隠していた。
「話を逸らすな」
隠したい核心の一つくらい、暴いておいても怒りはしないだろう。
「俺はお前の判断を聞いたんだよ。お前の言葉で言うなら、お前はあの子を友人と思うか、思わないか。どっちなんだ?」
数日が過ぎた。
暖房を入れたばかりの部屋はまだ肌寒く、無意識に手を擦り合わせてしまう。
その肌寒い部屋の中で、一人自問自答する。
リーエィというクラスメイトの訪問から幾度かの雑談めいた話し合いを重ね、メイリンの気持ちの一端は理解できたと思う。それを知っただけで終わらせるほど、俺も馬鹿ではない。
だから。
答えの決められた問答に意味はない。重ねれば重ねるほど、その答えが確固たるものになるだけだから。
ならば、そんな問答を繰り返す理由はなんだろう。
その答えも、決まりきっていた。




