二十二話 狂信の果て
「ムーチー教に入りませ――」
「入りません」
玄関の戸を挟んで即答する。中にいる俺は玄関の段差に座っていて、外にいるユウカは持ってきた椅子にでも座っているのだろう。
「少し話を聞くくらいダメですかね?」
「度々聞いてますよ」
時には同じ食卓で飯を食いながら話を聞いたこともある。宗教勧誘相手だと考えれば優しい方だ。
「あ、じゃあトイレ貸してください」
「狼少年が最後にどうなったか知ってます? 人んちの前で痴態を晒したいなら今からでも鍵開けますよ?」
「あ、なんだか行きたくなくなりました」
暇だった手を動かしてポケットから携帯を取り出し、時間を見る。午後一時半。振替休日の昼過ぎに、こんな不毛な会話を三十分も繰り返していることになる。
「どうして興味も持ってくれないんですか? 普通これだけフレンドリーに接してくれたら『少しくらいなら』とか言ってドブにはまってくれますよ?」
「ドブだって自覚があるならお帰りください」
適当に溜まっている本でも消化してしまおうか。今なら何が面白いのか全く分からなかった宗教書を面白く読めそうだ。
「そういえば、どうしてこんなにしつこく勧誘してくるんですか? エセ教主は大して興味ないんですよね、教徒を増やすことになんか」
何度か聞いたことがあるような質問を投げる。この三十分はそんな繰り返しで潰れていた。
「あぁ単純ですよ。ただ一人でも多くの人に貢いでもらいたいからです」
ずっと思ってはいたけど、こいつ人を勧誘する気がないんじゃないかな。
「それ、俺に言っていいんですか? 今更そんな一言で変わるほど優しい印象は持ってないんですけど、勧誘する相手に言っちゃダメですよね?」
「人を騙すのは良くないですからね。ムーチー様なら平気で騙して痛い目見るんでしょうけど、私はあまり好きじゃないです」
エセ宗教にしては珍しく正しい因果応報を知っている。……ていうか、この宗教は本当に教えを説いているのだろうか。
「で、貢がせてどうするんですか? 馬鹿を横目に豪遊して捕まるんですか?」
「普通にムーチー様の生活費と本やゲームの代金に消えていくだけですよ」
今更だけど、さっき普通に騙そうとしていた気がする。トイレに入ると騙して家に入ろうとしなかったっけ、この人。
「あれ? 聞いてます?」
「聞いてるわけないじゃないですか」
「質問しましたよね? あれ? あれは私の空耳ですか?」
ふと思い付いて、黙ってみる。
二十秒ほど黙っていると、沈黙が破られた。
「トイレにでも行っちゃったんですか?」
とりあえず無視。
五分経った。ユウカは数十秒おきに言葉を投げてくるが、その度に「あれれ~?」などと言って黙る。対する俺は物音を立てないように座っていた。
実験結果として、捨てられた子犬のようになってしまったらしい。
「お茶でも飲みますか?」
戸を隔てても伝わってくるおどおどとした空気に耐え切れず、言葉を吐き出す。
「…………」
静寂。
「あれ? 聞こえました?」
不安になり、重ねて問う。
「これ空耳じゃないよね?」
ぼそりと呟く声が、かろうじて届いた。
「空耳じゃないですよ」
独り言に答えるのは忍びないが、今回ばかりは仕方ないだろう。無視すると精神病にでもなってしまいそうで怖い。
「なんとっ!!」
そして奇声が響いた。
「うるさい人はお帰りください」
後悔しながら言うと、案の定物凄く小さな声で「お邪魔させてください」と返ってきた。
「どうぞ」
三十五分ほど前に閉めた鍵を開けて、戸の前に立っていたユウカを招き入れる。これはこの前読んだ本で知ったことだ。犬を躾ける時はしっかりできたらご褒美をあげなくちゃいけないらしい。
「手段と目的を混同するのは良くない、という話は分かりますよね? 『お金は手段であって目的ではない』という言葉は有名です」
お茶を三杯一気飲みしたユウカが口を開いた。うちの前で脱水になられても困るから、喉が渇いたなら渇いたと言ってほしい。
「しかし、この世の事柄を厳密に考えていくと、何一つ『目的』に分類されるものがないんですよ」
唐突に始まった話は聞き流すつもりでいたが、続けられた言葉に反応してしまう。
「目的なんていくらでもありますよね? さっきの話なら、そのお金を使って買う物が目的じゃないですか」
お金という手段を行使する物が目的ではないとなると、少し困ったことになる。
「あぁ、お金を使うのは目的のためではなく、更なる手段のためです。例えば食品でしょうか。食品は食べる目的で買いますが、その『食べる』という目的は栄養を得るための手段です。言い換えるなら、何かしらの手段を便宜的に『目的』と呼んでいる状態ですね」
言われてみると、納得しそうになってしまう。しかし、それはまだ途中だろう。
「なら、その栄養を得るのはなんのためですか? 生きるためですよね。生きるという目的のために栄養を得るんですから、少なくとも生きることは目的に分類されるはずです」
言ってから、なんでこんな話をしているのかという疑問がわいた。何故か玄関の戸を挟んで会話していて、少し無視したお詫びにお茶を出して、変な話をしている。
うん、最初からおかしい。
そんな自問自答を終わらせてユウカの方を見るが、相手はお茶の入ったコップを片手に固まっていた。
「何を言っているんですか?」
十数秒待ってようやく吐き出された言葉に「はぁ?」と反射的に答えてしまう。
「何を言っているも何も、生きることは目的に分類されるって言ったんですよ。これ以上簡単に説明する必要がありますか?」
少し苛立って答えると、ユウカは首を傾げた。それこそ――
「意味が分かりません」
とでも言いたげに……って本当に言いやがったよ、こいつ。
「ええと、日本語、分かりますか? あぁ、ニホンゴ、ワカリマスカ?」
言ってから気付く。どっちも日本語だ。
「馬鹿にしてますよね?」
「ごめんなさい」
茶番を瞬殺して「まぁいいです」と呟いたユウカの目には、不穏な輝き。
「私が分からないのは、『生きることは目的だ』などと本気で考えていることです。生きることは手段であって目的ではありません。これは私の考えでもあり、ムーチー教の教えでもあります」
やはり、布教のパターンに入ってしまったらしい。
それでも、ここで引いたら男じゃない。
「簡単な例え話をしましょう。とある男性が植物状態で、完全に意識がありません。脳も最低限の生命維持ができるだけで、思考などはできない状況です。つまり夢を見るようなこともないわけですね。この状況の男性からすると、生きている意味とはなんですか?」
やや早口で紡がれた言葉を噛み砕いていく。植物状態とか生命維持とか物騒な言葉は出てきたが、なんてことはない子供騙しだ。
「意味はある。医学の力で回復する可能性が残っているだろう?」
俺の答えに、ユウカはため息をついた。
「屁理屈ですね。条件を追加しましょう。その男性は死ぬまで植物状態だとします」
心底呆れたような声音で、冷酷な条件を加えた。仮にその男性の家族だとしたら、人目もはばからずに泣き喚く自信がある。
「それでも、生きている意味はある」
投げやりに答えると、ユウカが「どんな意味が?」と問い返す。その目はいつもの馬鹿な印象を与えるものではなかった。
「少なくとも、家族にとっては生きているのと死んでいるのとでは全く違う。医療費が馬鹿にならずとも――」
「往生際が悪いですよ」
人の言葉を遮ったユウカが、静かに続けた。
「最初に言ったはずです。『男性からすると』と」
そして、嫌味な笑みを口元に浮かべて、言葉を結ぶ。
「もう分かっているとは思いますが、この場合において、男性は生きていようが死んでいようが変わりがありません。おっしゃる通り周りからは全く違いますが、男性の感情は男性の感情で、男性の人生も男性の人生です。間違っても、他人のものではありません」
三十分近くも中に入れてもらえなくて一時的に頭がおかしくなったのだと信じたい。……が、信じても無駄だろう。
「それで、何が言いたいんですか?」
理屈は分からないでもないが、結局のところ、単なる例え話に過ぎない。
「あれ、分かりませんか?」
おどけたように言うユウカの顔にはいつもの柔和な笑みが戻っていて、口元に浮かんでいるのも自然で馬鹿っぽい笑みだ。
頭がおかしくなったのは俺なのだろうか、という現実逃避は、やはり即座に砕かれたが。
「人が言う『生きる』ということには、毎度のように付属品が付いています。恋愛だとか仕事だとか、それは生きていなければできませんが、生きていれば必ずやることではありません」
すらすらと言葉を連ねる。それこそ原稿でも読んでいるかのように。
「今説明した通り、『生きる』ということは、それ単体では死んでいるのと変わりません。生きて何をするのかが重要なのであって、生きることだけでは意味がないわけです」
そして。
「つまり、生きることは手段であり、目的ではありません」
ようやく話が元に戻った。
……と言いたいところだが、最初のところまでは戻っていない。
「話を戻しましょう。『この世に目的がない』というのは、どういうことですか?」
結論を急ぐ。話の流れからすると待っていれば説明してくれるのだろうが、待つ気にはなれなかった。
「あぁ、単純ですよ。お金は食品を買うための手段。食品は栄養を得るための手段。栄養は生きるための手段。しかし、その生きることも単体では意味がない。なので、適当に趣味を生きる目的としましょう。その趣味は楽しむための手段です。楽しむのは精神の安定を図るための手段であり、精神の安定は生きるための手段になります。はい、堂々巡りの出来上がりです!」
最初は静かに話していたのに、終わる頃には無邪気な子供のように笑っていた。……もっとも、無意味に蟻を踏み殺す無邪気さだが。
「まだ分からないんですけど、何が言いたいんですか? 全てが手段だというのなら、それこそ『生きるのは無駄だ』とか言い出すつもりじゃないですよね?」
俺の言葉に、ユウカは「勿論ですよ~」とからから笑った。
「もっと楽しい話です。結局のところ、手段か目的かなんて、主観でしかないんです。最初のお金だって、本気で目的だと思っている人も珍しくないですよね? 自分が何を目的と思うかが重要だという教えです」
ほっとした安心感が胸中に広がる。蟻と一緒に転んだ子供まで踏みつけ始めるのではないかとヒヤヒヤしたが、流石にそんな人間ではないらしい。まぁ、それも当然か。
「あれ? それじゃあ、なんの話だったんですか? これは」
思い返してみると、ただただエセ宗教の教えを説明されただけにしか思えない。普通の宗教勧誘ならそれでもおかしくないのだが、ユウカがそんな普通なことをするはずがないだろう。
「あぁ、ですからムーチー教では――」
「要するに」
嬉しそうに答え始めたユウカの言葉を遮ったのは、いつの間にか現れていたメイリンの不機嫌な声だった。
「『目的もないのに惰性で生きてんじゃねえよゴミが。気持ち悪いんだよ』って話だ。我らのような人種が大嫌いなんだろうさ」
言葉の端々どころか、声の全てでもって苛立ちを放射している。唾棄するかのような言葉と違わず、顔にも満面の苛立たしさが咲いていた。
「あらあら……」
対するユウカの顔には先ほどまでと変わらない柔和な笑み。しかし、目だけは違って、凍えるような冷たさが宿っていた。
「今までは少し猫を被っただけの無害な人間かと思っていたが、違うらしいな。次に来たら警察を呼ぶ」
メイリンが珍しく激怒している。中学に上がってすぐの頃に何度か見た、一切の妥協を許さない排他的な怒りだ。
「勘違いだと言っても、聞き入れてはくれませんよね?」
いつもと変わらぬ調子のユウカに、仁王立ちに近いメイリンが高圧的な視線を返す。
「ムーチー教には生死観の他にもう一つの柱がありますが、それを説明させていただける雰囲気でもありませんので、今日はお暇させていただきましょうか」
そう言って、立ち上がった。そのまま部屋の戸の前に立つメイリンの横を抜けて、玄関の方へと歩いていく。
そして靴を履こうと座る直前に、思い出したように振り向いた。
「それでも、これだけは言っておきます」
静かな言葉は、俺に投げる形でメイリンに向いていた。
「忘れているようですけど、我がムーチー様も惰性で生きている無職のゴミですので、勘違いしないでください。あの人褒めると付け上がりますから」
言い終えると、何事もなかったかのように靴を履き、少し前にくぐった玄関を戻っていった。
「後で謝っておくように」
何もしてないのに大火傷を負わされたエセ教主に同情する。




