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幻待ち人  作者: 天猫紅楼
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ひとりでは生きていけない

「ん?」

「い、いや、何でもない。……まだ何か用事があるのか?」

 思わず頬を赤らめ、視線をそらして言うクレディアに、ヴァンは苦笑した。

「少し、歩きませんか?」

 そう言ってクレディアの手からそっと紙袋を取ると、歩き始めた。

「あっ、ヴァン……」

 クレディアは荷物を持ったままどんどん歩いていくヴァンに戸惑ったが、止まる気配を見せない背中に、あきらめて追いかけはじめた。

 海岸通りを歩くヴァンに、その背中を見つめながら改めて感心したように、クレディアが声をかけた。

「たくましくなったな」

 ヴァンはひょいっとクレディアに笑顔を見せた。

「それ、さっき聞きました」

「あ、ああ……すまない」

 また視線をそらしたクレディアに、ヴァンは明るく返した。

「僕が教官になったのは、僕自身の意志です。クレディアが居なくなって、イースにもふられて、一人になった時、何を目標に生きていこうかって考えたとき、兄さんの思いを継ごうと思ったんです」

「アスカルの?」

「兄さんは、ずっと以前……まだ幼い僕に話してくれたことがあったんですよ。『僕は、少しでも不幸な人々を無くしたい。そのために、弱い人たちを守れる力を身につけて、それを広めたい』」

「アスカルがそんなことを……」

 海を見渡せる場所でベンチに並んで座り、二人は目の前に広がる大海原を見つめていた。太陽が傾き、西の空が暖色のグラデーションを彩り始めていた。

「クレディアを初めて見たとき、兄さんの遺志を継いでくれたのだと、安心したんです」

「いや、私は……そんな理由じゃなかった」

 クレディアの髪が風になびいていた。遠い目をして、呟くように言った。

「私はただ、待ちたかったんだ。あそこに居れば、いつか帰って来たときにすぐに会えると信じていたから」

 クレディアは髪の毛を耳に引っ掛け、小さく息を吐いた。

「でも、いくら待ってもアスカルは戻って来なかった……」

 ヴァンはベンチにもたれた。

「もう待たないんですか?」

「…………」

 それには答えず、クレディアは目を閉じた。

 ヴァンは紙袋からリンゴをひとつ取り出すと、ポーンと上へ投げた。少し小振りのリンゴは重力に従って落ち、ヴァンの手の中に収まった。それをガリッとかじると、満足そうに微笑んだ。

「美味しいですね、これ!」

 顔を上げたクレディアは、ヴァンに視線を送ると

「いつも決まった果物屋で買うんだ」

と微笑んだ。

「すっかり生活も変わってしまったんですね」

「そうだな……」

「僕のことも、忘れてしまいましたか?」

「えっ?」

 クレディアは、ヴァンを切ない瞳で見つめた。以前は見せたことの無い、とても頼りない瞳だった。

「アスカル兄さんの事も、学校の事も、全て忘れてしまいましたか?」

 クレディアは海を眺めた。

「ずっと海を眺めていると、自分がちっぽけ過ぎることに気付くんだ。悩んでいたことも、悲しんでいたことも、全部波にさらわれるようで、穏やかになれた……」

 静かに話すクレディアを、ヴァンはじっと見つめていた。

「それと同時に、私は今まで、なんて恵まれていたんだろうって、思い知らされた」

 立ち上がったクレディアは、頬に貼られていた絆創膏を剥がした。裏にはまだ、血がにじんでいる。それをじっと見つめながら、クレディアまた話し始めた。

「私の傍にはいつも誰かがいてくれた。アスカルもディードもリゾーラも……それに生徒や教官たちに囲まれて、いつも誰かの気配を感じていたことで、どこか安心してたんだ。だけど私は、皆を遠ざけた。一人で生きていけるなんて勘違いをしていた」

 クレディアはヴァンに振り返り、血が滲む頬を緩ませた。

「ヴァン、私は、一人では生きていけない……」

 それは、ヴァンが始めて聞いたクレディアの弱音だった。どんなに厳しい局面だろうと、決して瞳の光を揺らがせることのなかった、強いクレディアは、今やっと、そのぶ厚い面を取り去っていた。

 ヴァンはそれを見て、やっと胸をなでおろした。ヴァンが求めていたのは、強いクレディアでもなく、頑固なクレディアでもなく、本当は弱くて頼りない、自分に素直な本当のクレディアだったのだ。

 ゆっくりと立ち上がると、クレディアに近づいた。そして

「じゃあ……」

と言いながら、クレディアに手のひらを差し出した。

「え?」

 唐突に目の前に見せられた手のひらに戸惑い、見上げるクレディアに

「僕と一緒なら、生きられますね?」

と笑顔を送った。クレディアは目を見開き、じっとヴァンを見つめていたが、やがてその瞳が伏せられた。その頬に一筋の涙が伝い落ちた。

「ヴァン……私は……」

『私は、こんなにも、弱かったんだな……』

 クレディアは震えながらそっとヴァンの手に自分の手を乗せた。ヴァンは、自分の手のひらに感じる細くて軽いクレディアの手をそっと握って引き寄せた。素直にヴァンの胸に抱かれたクレディアは、小さく肩を震わせた。

「もう……そんなに泣いたら、傷に染みますよ」

とクレディアの頬に流れる涙を拭くと、見上げた彼女は、ゆっくりと笑顔を見せた。それは、今までで一番の、幸せそうな笑顔だった。




「やっと、収まるところに収まった感じね」

 二人の様子を少し離れたところから見ていたリゾーラが、呆れ口調で呟いた。

「これで、悩まなくて良くなったな」

 リゾーラに寄り添うように、ディードの姿もあった。リゾーラは彼の胸を細い指で突くと

「ホント、面倒くさいことに巻き込んでくれちゃって!」

と憎らしげに見上げて睨んだが、その口調に怒りはなかった。ディードはリゾーラを細い目で見ると

「その割りには楽しんでたみたいじゃないか?行き過ぎてたけど!」

とからかった。

「やりすぎくらいがちょうど良いのよ、あの子たちには!ほんっと、二人とも素直じゃないんだから!苦労したわ!」

 リゾーラは真っ赤なルージュの映える唇を上げて、ヴァンとクレディアの様子をいとおしそうに見つめた。ディードも二人を眺めながら

「そうかもな!」

とリゾーラの肩をそっと抱くと、二人は満足そうな笑顔を湛え、消えるようにその場を離れていった。


 辺りは夕焼けのグラデーションも紺色の空に押しつぶされ、波の音だけが変わらずに寄せては返している。

 点々と灯り始めた街灯の下を、ヴァンとクレディアは並んで歩いていく。

 暗やみに伸びる自分たちの道が、今の二人にははっきりと見えていた。そして、見つめあう二人の瞳には、これから何があっても決して途切れることのないであろう輝きが、柔らかく灯っていた。

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