第3話
その日は雲一つない快晴だった。
いよいよトルストイ伯爵家へと出立する日の朝、アイリーンは無垢な花嫁衣裳を身に纏っていた。その美しさは、見送りに訪れた面々も思わずため息を漏らすほど。
いよいよ両親とも別れの挨拶を交わし、アイリーンは馬車へと乗り込んだ。その後に付き従う一人の侍従がいた。名前はアーニャ。幼い頃からアイリーンの傍仕えとして、主従の関係を超えた腹心の侍従。
「どうして志願したの?」
誰も、世話役としてトルストイ家に嫁ぐ自分に付き従う者はいないと思っていた。だが、アーニャはその仕事に一瞬の迷いもなく手を挙げたという。
「死ぬまでアイリーン様にお仕えする、と決めたからですよ」
そのヘイゼルの瞳はまっすぐにアイリーンを捉えている。
「あなたにも……あなたの人生があるでしょ?」
「アイリーン様が危なっかしくて放っておけません」
無表情に唇を少しだけ微笑ませる。視線はアイリーンの腕、純白のレースがあしらわれたグローブに向けられている。その内側にあるのは、傷だらけになってしまった痛々しい手。
自分に傷をつける時だけ、アイリーンの手は熱を取り戻す。
それだけではない。自分に傷をつける──それはまるで全てを捨てて逃げ出そうとしている自分に罰を与えているようで。その度にアイリーンは救われたような気持ちになれた。
それが、仮初のものだと分かっていても……アイリーンには他に縋るものがなかった。
数日前、花嫁衣装のチェックを行った時。アイリーンの腕に刻まれた生々しい傷跡を見て、アーニャは一瞬悲痛な表情を浮かべた。唇をきゅっと噛み締めたアーニャは何も言わず、代わりに白のグローブを差し出してきた。
──どうして、私から離れていかないの。
この傷を見れば、愛想をつかせて自分の元から去るだろうとアイリーンは思っていた。
──分かってる。
たった一言。アイリーンがたった一言でもアーニャを拒絶すれば、それで済む話。
──拒絶できないのは、心のどこかで期待してしまったから。
──拒絶できないのは、私が弱くて狡いから。
★ ☆ ★ ☆ ★
アイリーンのいた王都から北のトルストイ領までは馬車で七日を要した。本来であれば五日もあればいいらしいのだが、旅慣れないアイリーンを気遣って一日の移動時間を少しずつ減らしたのだという。実際の所、魔道具か何かで馬車の揺れは大幅に軽減されており、アイリーンはほとんど負担に感じなかった。
アイリーンはその気遣いに感謝し、そしてその感謝を伝える機会はないのかもしれないないと憂いた。
七日目の早朝、アイリーンは再び純白の花嫁衣裳に身を包んで馬車に乗った。数時間もしないうちにトルストイ領に到着する予定だ。近づくにつれて、心身が強張り、張り詰めていくのを感じていた。
「アイリーン様、それ以上は」
「……ええ、そうね」
アイリーンは半ば無意識に爪を手の甲に立ててしまっていた。痺れと痛み、それにわずかな熱がアイリーンの手をつつむ。以前針によってついた傷は未だに治らないまま。というのもかさぶたができる度にアイリーンがひっかいて再び傷が開いてしまうからだ。比較的厚手のグローブではあるが、色は白。血が滲まないとは限らない。
★ ☆ ★ ☆ ★
「遠路はるばるようこそおいでくださいました」
馬車を降りたアイリーンを迎えたのは、セバスチャンと名乗る老人だった。年おいてはいるが、背筋もしゅっと伸び彫の深い顔立ちをしている。恐らく元軍人なのだろう、とアイリーンは一目で察した。
「アイリーン様のお体の具合さえよろしければ、この後すぐ閣下にお会いしていただきたいのですが……いかがなさいますか?」
「私の方は問題ありません、お会いいたしますわ」
アイリーンは逃げ出したい気持ちを抑えて、鉄壁の仮面で答えた。ここでデニスを待たせて不興を買う事が何よりも恐ろしかった。
セバスチャンに連れられて屋敷へと足を踏み入れる。屋敷も王都にある見栄え重視で凝った造りではなく、実利的で如何にも頑丈そうだ。王都の屋敷にあったような鮮やかな絵画は無く、飾られているのは無骨な武具や彫像がほとんどだった。
違うのは屋敷の造りだけではない。出迎えにきた使用人は全員男だった。伸びた背筋、身のこなし、間違いなく元軍人だ。
──女性がいないのはやっぱり……
屋敷の様子から、アイリーンは社交界に流れる噂を思い出した。女性を乱暴に扱う癖がある、という噂が本当ならこの状況にも納得がいく。
首元に迫る悪寒に耐えながらデニスが待つという応接室へと通された。入る直前に見えた限りでは飾り気のない屋敷の中でその部屋だけは王都にある貴族の屋敷と近しいものがあった。ただ、元の造りのせいもあってか少しだけ浮いているように見えた。
応接室に入ると、ガタンと音を立ててデニスが立ち上がった。その上背はアイリーンより遥かに大きい。
背筋はしゅっと伸び、足先から頭の髪一本に至るまでの全てに神経が注がれているようだ。改めて見ると整った顔立ちをしている。ただ、その全ての印象を鋭い目が上書きした。
獲物を見定める猛禽類を思わせる目からは射竦めるような、威圧的な視線が注がれた。息が詰まるようだ。本能的な恐怖に襲われたアイリーンの鉄壁の淑女の仮面にヒビが入る。アイリーンは崩れかけた表情を気取られないよう、恭しく頭を下げて礼をした。
沈黙。
アイリーンがいくら待てど、デニスは一向に口を開く気配がない。恐る恐る顔をあげると、先ほどと全く変わらない威圧的な目線を向けるデニスがいた。
──ああ、これは不興を買ってしまったに違いない。
アイリーンは理解した。これはきっとお前とは話す事はないという意思表示だ、と。
それでも、アイリーンは諦めない。万に一つ、か細い可能性の糸を手繰り寄せるために足掻く。アイリーンは顔をあげ、再びデニスと目を合わせる。
「何か失礼な所がありましたら謝罪いたします。私は王都から出たことのない世間知らずではございますが、デニス様にご無礼がないよう微力を尽くす心づもりです。どうか、私の何がデニス様の不興を買ったかお教えいただけないでしょうか?」
アイリーンは凛と、張り詰めた空気に押し返されないように腹に力を込めて言葉を放つ。デニスの強張った顔はそのまま、唇がわずかに動き──
「口を挟むご無礼を御赦しください」
言葉を発したのは脇に控えていたセバスチャンだった。どういうわけか、その顔は笑いをこらえているように見えた。アイリーンは目で続きを促すとセバスチャンは再び口を開いた。
「閣下、いつまで呆けているのですか! 今日はお前の手助けは要らないと言っておりましたのに、やはりいつもと同じではないですか!」
セバスチャンは子供を叱る時のようにデニスを諫めた。
「いやセバスチャン……これはだな」
「これはだな、ではありません! 閣下が女性と話すのが苦手なのは皆存じておりますが、そんな態度を取っていたら、せっかくの花嫁が逃げてしまわれます! ただでさえ婚期を逃して、ご隠居様も頭を悩ませているというのに……この度の婚姻だってご隠居様がどれだけ苦心なさったか……」
セバスは呆れたようにまくし立てると、その勢いにデニスはたじろいだ。これは一体どういう事だろうと、アイリーンは夢でも見ているかのように呆然とその様子を見ていた。
「申し訳ありませんアイリーン様。この通り、閣下は極度のあがり症でして……」
「え……ええ」
これにはさすがのアイリーンの鉄壁の仮面も形無しだった。目を見開いて、口も半開きのまま、固まってしまう。
「ほら、閣下! ご自分の口から!」
すっかり小さくなってしまったデニス。その顔は少し赤く染まっている。
「この度は……我がトルストイ家からの縁談を受け入れてくれた事、心より……感謝する。貴女のような強き女性とお近づきになれるのは……武人としても、誉れ高いものが、ある、ます」
どうやらあがり症というのは本当のようで、デニスは先ほどからずっと目を左右に泳がせている。
──もしかしたら、怖い人ではないのかもしれない。ただ、不器用なだけ。
アイリーンの恐怖も少しはやわらぎ、呼吸が落ち着きを取り戻す。氷のように強張らせた体がゆっくりと溶けていくのを感じていた。
頭のもやが少しは晴れたアイリーンだったが、どうしてもデニスの言葉に引っかかるものがあった。
「デニス様私が強い女性、というのは……一体どういう事でしょうか?」
婚約破棄を言い渡されてから、アイリーンは自分の弱さを嫌というほど目の当たりにしてきた。デニスが言う「強さ」とは何の縁もない。
「貴女は覚えていないかもしれませんが……私がかつて王家主催の晩さん会に参列した時、マクベス殿下のお隣にいらっしゃった貴女にも挨拶させていただいたのです」
「ええ、それでしたら覚えています」
あの時も、人を射竦めるような鋭い目をしていた。あの目を忘れろ、という方が難しい。
「光栄です。あの時……貴女だけが私を恐れずに、まっすぐに私の目を見てくださったのです。自分で言うのもどうかとは思いますが……私のこの目つきに耐えられた女性は、貴女が初めてでした。そして思ったのです。嗚呼、なんと強い女性なのだろう、と」
「そのような事は……」
「だから──」
音もたてずにデニスは跪く。そして、呆然とするアイリーンの前にすっと手を差し出した。
「どうか、私との縁談を受け入れて欲しい。マクベス殿下との婚約が破棄となり、心に深い傷を負っているであろう事は……重々承知している。それでも私は……貴女と結ばれるこの機会を……逃したくはない」
跪いたまま、デニスはアイリーンを熱い眼差しを向けた。瞳が揺れている。その目は、恐ろしいというより……強かった。誠実な意思の強さがそのまま目に現れているかのようだとアイリーンは思った。
アイリーンはそんな目で見つめられたのは生まれて初めてだった。鼓動が早くなる。頬が、顔が熱くなっていくのを感じる。
気付けばアイリーンはグローブを外し、差し出された手を取っていた。
触れたその手は堅く、岩のようにゴツゴツしていて、温かった。力が入っているのか小刻みに震えている。
──しまった。
熱に浮かされたせいだろうか。アイリーンは忘れていた。自分の手が──傷だらけであるという事に。
見れば手の甲からはいつの間に傷が開いたのか血が溢れ出している。気が付いた時にはもう遅かった。デニスの視線は、アイリーンの手に注がれている。
──きっとこの事でデニスは私に失望してしまうのだろう。
そう思うと再び体を包む熱が失われていくような気がした。
ところがデニスが取った行動は全く、アイリーンにとって予想外の事だった。
デニスはそのまま、血の滴るアイリーンの手に口付けをした。これにはさすがのアイリーンも動揺を隠せない。
「あの……デニス様?」
「すまない、血が……もったいなくて、つい」
「血が……もったいない?」
「あ……」
責められると思っていたはずが、デニスは何も言わないどころかアイリーンにとって全くの予想外の行動を取ってきた。そしてそのデニスの行動もまた、自身の意図する所でなかったように見えた。
それは異様な空気だった。互いが失態を演じてしまったと感じているのは確かだ。しかし、どこから、何から話したらいいのか分からない。そのせいで生まれる如何ともし難い空気。
その空気を変えたのは第三者、セバスチャンだった。
「閣下、未来の奥方様であればお話してもよいのではないですか?」
「……そうだな」
わずかな逡巡の末、デニスは大きく息を吐いた。
「私の一族、トルストイ家は吸血鬼の末裔なのです。とはいっても……ほとんど人間と言っても差し支えないくらいには血は薄まっているのですが……」
「なるほど……?」
「しかし吸血鬼の血は薄まれど、どういうわけかこの鋭い目と、犬歯……そして吸血衝動だけは変わらず残っているのです──この通り」
デニスはそう言って、上唇を巻くって見せた。ギラリと光る犬歯が覗く。その鋭さは確かに伝承に伝え聞く吸血鬼と似通っていた。
「じゃあ、あの噂は……」
「敵の生き血を飲んで笑った、という父の噂ですね? あれは……本当です。戦場で血を浴び過ぎて……酔ってしまったのです。お酒を飲んだ時のように」
「ご隠居様は笑い上戸でいらっしゃいますから……」
「隠していたのは……謝罪します。これ以上恐ろしいと思われたくなかったのです」
デニスは跪いたまま頭を下げた。伯爵家の当主がしていい事ではない。アイリーンは慌てて頭をあげるように促した。
「お顔をあげてください! それに……謝らなければならないのは私の方だと言うのに」
噂を鵜呑みにしてデニスを恐れ、アーニャに気を遣わせ……そんな弱い自分がつけた傷。
胸を撃ち抜かれるような痛みをアイリーンは感じていた。
「この傷は私が自分でつけたのです……弱い、私が。私はデニス様が言うような強い女性では、ありません」
叫ぶように放った言葉は震えていた。みっともなく顔を歪め、視界は涙でぼやけている。淑女の面影もあったものではない。
そんなアイリーンの耳に届いたのは、どこまでも優しさに満ち溢れた声。
「なら私も……同じです。私だって、この服の下には無数の傷があります。これは私が弱いせいでつけられた傷です」
「それは……私の傷とは違います。この国を守るために戦ってついた……勲章です」
「であれば、貴女のも勲章だ。貴女も自分自身と……或いは他の何かと戦って、この傷をつけたのでしょう?」
「そんなのでは……」
「貴女が、何と戦ってきたのか私は知りません。だけどこれからは私が守ります……いえ、守らせてください」
デニスはそう言って、アイリーンの手をその岩のように硬い両手でそっと包んだ。
──あったかい。
デニスの手から、熱が伝わってきた。その熱は、ずっと冷たいままだったアイリーンの手をゆっくりと溶かすように温めていく。その熱は手から胸へと届き、アイリーンの鼓動を高鳴らせた。鼓動が高鳴れば、胸の内からとめどなく熱が溢れてくる。
アイリーンは手でこぼれそうになっている涙を拭い去った。
鮮明になった視界に映るのは心配そうにアイリーンを見つめるデニスの顔。
あれほど恐ろしいと思ってしまった猛禽類のように鋭い目つきも。
今のアイリーンには全く恐怖を与えなかった。
それどころかむしろ──どうしようもなく愛おしく見える。
不思議な感覚。
──嗚呼、そうか。
アイリーンはその感情を理解した。
初めて抱くその感情。
一生縁がないと思っていた、その感情。
──これがきっと『恋』なんだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
リスカする人の血を飲む吸血鬼、というシュールなワンシーンを無理やり膨らませて書きました。
ちなみに、私は注射される時に顔がキュッとなるくらい痛いのが苦手です。
最後に、少しでも面白いと思っていただけたら、感想や下の☆☆☆☆☆から評価等々、傷跡ではなく皆さまが読んでくださった足跡を残してもらえると励みになります。