【解答編・1】
自分の体から追い出されて、でもどこにもいけなくて、ただただ私ではない誰かのことを傍観するしかなくなって、もうどれくらい経ったのだろう。
私の名前はミラベル・ティート。ティート家唯一の魔術士候補で、でも認定試験を受けさせてもらえないから受験料を貯めるためにこっそり内職をしている、十七歳の少女だ。そのはずだった。
異変の予兆はなかった。少なくとも私には感じ取れなかった。
ある日気が付くと自分の体から追い出されていて、私の体を乗っ取った誰かさんが堂々と記憶喪失だなんて言い張るのを呆然と見下ろしていた。
『ちょっと、なんなのよあなた! 何勝手に私の体を使ってるのよ! さっさと出ていきなさいよ!』
そう大声で非難してやったつもりなのに、その言葉は私の耳にすら入らなかった。当然、誰かさんにもほかの人にも聞こえた様子はない。
ならばと彼女の視界に入るよう回り込んでみたり、兄や両親、使用人たち、この際弟妹たちでもいいから気づいてくれないかと動き回ったのに誰も私が見えないようだった。
「昔の私って、そんなに嫌なやつだったの?」
「ああ。鼻持ちならないとはまさにアイツのことさ」
『自己紹介してんじゃないわよこのクズ! プライドだけ高くて実態が伴わないくせに威張り散らしてるアンタこそ鼻持ちならないクソ兄だわ!』
腹が立って、どうせ見えていないのだからと行儀悪く蹴っ飛ばしてやろうとして――空振り。見えも聞こえも触れもしない。私は誰にも気づいてもらえなかった。
誰かさんは、記憶がないから何もわからない、知らないと言ってぐいぐい家族と距離を詰めていった。返事がないなら相手が返事をするまで、返事が芳しくないなら良い返事がもらえるまで、諦めるという言葉を知らないかのように強引で一歩も引かないその態度は、私には到底真似できないし真似しようとも思わない言動だった。
兄の立場と年齢を考えればけして自慢するようなことではないことを聞かされて、すごいすごいと褒めたたえるなんて嫌悪を通り越して羞恥すら覚える。私には絶対無理なんて、試してみようともしないで軽薄に口にしてみせる厚顔無恥さと来たら!
『父親の仕事の手伝いなんて、次期領主なんだからやるのは当たり前じゃない! 未だに執務のひとつも任せてもらえず使い走りしかさせてもらえないことを恥じなさいよ! なにが『父親に信頼されててすごーい!』よバカじゃないの!』
身勝手で自分本位な弟妹たちのわがままをたしなめもせず、その通りだと肯定して使用人たちに最大限便宜をはかるよう指示するなんて、ものの道理というものを知らないのだろうか。
『やめて、触らないで! それはオーウェンからもらったネックレスよ! 婚約者以外からもらったものだから使えずに大切にしまっていたのじゃない、『使ってないみたいだからあげる』? ふざけないで、それは私のものよ、アンタなんかのものじゃないわ!』
自分が不倫をしていたから相手もそうに違いないと疑って一方的に妻を責めた男をどうして仕方なかった、父さんは悪くないなどと擁護するのだろうか。
『兄さんよりも年上の隠し子がいたのはお父様の方じゃない! ついこの間だって、コースリッド夫人と不倫していたクセに!』
同じ舌で、母さんは何も悪くない、ただつらかっただけだよねと共感してみせるのも吐き気がする。
『何年も何年も自分は悪くない相手が悪いってそればっかり、結局私が生まれた後に当てつけで不倫したクセに、よくも図々しく貞節を主張できるわね気持ち悪い! 知ってるのよ、本当は私じゃなくてあの子たちが不倫相手の子どもだって!』
一切の否定なく、すべてを肯定されることで誰かさんに傾倒していく家族を、私は苦々しく眺めることしかできない。
こんなに簡単に愛されるのかと、かつて孤独に膝を抱えていた幼い私が嘆いている。こんなことまでしなければ愛されないのかと、今の私が唇を噛む。
諦めたつもりでいた。私はミラベル・ティート、だけどこの家で親愛を込めてミラと呼んでくれる人は誰もいない。ティート家の中で、私だけが異物だ。
両親の不倫に気づかないフリをして、兄をおだてて、弟妹の我がままをなんでも笑って許せば、しあわせな家族になれたのだと、こうすればうまくいったのにと、誰かさんが笑っている。
微笑ましい家族団らんが繰り広げられるようになった半年後には、怒る気力さえなくなっていた。
婚約者、ウォルター・ハーグが今さら記憶喪失になったと主張する誰かさんのお見舞いに来ると聞いても、何も期待していなかった。何も。そしてそれは案の定だった。
どうやら私は誰かさんから一定以上離れることはできないようで、歓声を上げてウォルター・ハーグの犬を構い倒す自分の体に、ガタガタ震えることしかできない。
動物が好きだと誰かさんが公言するせいで、ティート家の屋敷にも猫が一匹もらわれてきた。でもその頃には、自覚できるほど自分の感情の動きが鈍くなりつつあった。
怒りも、憤りも、悔しさも、恐怖も、悲しみもない。もうどんな獣を視界に入れても私は震えなくなった。父に、母に、兄や弟妹、ウォルター・ハーグに媚びを売る誰かさんを見ても、なにも感じない。ただ目の前を通り過ぎて行くのを眺めるだけ。
だんだんと、私が「私」である自信もなくなってきた。ひょっとして私はずっとこうして漂うだけの何かで、あの体から追い出されたと思い込んでるだけなんじゃないのかしら、って。
ある日気がつくと、彼らが何をしゃべっているのかわからなくなった。何か声を出しているのは聞こえる。だけど、それがどんな意味なのか理解する前に忘れてしまっていくような、そんなおかしな感覚だ。
どうしてなのかしらと希薄にしか動かなくなった心ですら不思議に思っていたのに、今度は色がわからなくなった。あら、あら、あら? 空ってどういう色だったかしら。風に色ってあったかしら。部屋の壁は何色に塗り替えたいと思っていたのかしら?
触れられるものなんてもともとなかったから、耳も目もあんまり頼りにならなくなってようやく、そういえば匂いもわからなくなっていたわねと気がついた。
(わたし……消えるの?)
家族もウォルター・ハーグも、「誰かさん」が私になったからしあわせそうにわらっていて。
私って本当は、ずっとずっと……いない方がよかったのかしら。だからこうして、だれにも気づかれず知られずに消えてしまうのかしら。
熾火のような憤りもどこか遠く感じる。だってみんな、本当にしあわせそうに笑っているのだ。誰かさんが好きだと、もう昔の私には戻ってくれるなと、そう願ってすらいるのだ。
(わたしは……いなくなったほうがいいのかしら……)
*
「お前はミラじゃない」
――パッ、と視界が開けたようだった。
ぶわりと色彩が広がる。遠ざかっていた音が言葉となって戻って来る。憤怒と憎悪に爛々と光る目が、薄く薄く消えかかっていた私を無理矢理に引き戻す。
ひょろりと背の高い青年だった。魔術士のローブを羽織っているけれど、その下は家でくつろいでいたところを慌てて飛び出してきたかのように質素なシャツとズボンだけ。襟のところに少しだけ刺繍された補助魔術陣が唯一の装飾らしい装飾だった。
夜よりも暗い髪が、感情の昂ぶりにつられて漏れだした魔力でざわざわと波打っている。緑柱石のような瞳には黄金色の虹彩が混じって、雷撃がバシリと地面を打った。
彼は激怒していた。そのことが多分、私だけじゃなくその場にいた誰もがわかっていた。だというのに、その怒りを向けられた誰かさんだけが、きょとんと目を丸くして瞬くだけだった。
「記憶がないの」
何度も何度もくり返したように、誰かさんがまた同じ言葉をくり返す。
「だからなにもわからないの」
「化け物め」
「ひどい! どうしてそんなひどいこと言うの?」
哀れみを誘うように、誰かさんが瞳を潤ませる。
なんて醜悪な顔だろう。間違いなく自分自身の顔だというのに、私だったらけっしてしない表情に、私は強い嫌悪を覚えた。
そしてそれは、魔術士の青年も同じだったらしい。
大きな火花が散る。雷鳴じみた破裂音と、慌てて制止する魔術士たちの声、誰かさんの甲高い悲鳴。
「ひどい、ひどい、ひどいわ! わたし、知らないのに! 昔の私のことなんて、なんにも……」
「つまり、彼女を特定した呪詛ではなかったというわけか」
青年の肩を労わるように叩き、奥から姿を現したのは老年の魔術士だった。
私はこの人を知っている。魔術省長官であり王の相談役、マルファズル・オットー筆頭魔術士だ。
……一度だけ。離宮にある図書館で、難解な魔術書に頭を抱えていた時、前提となる理論の理解が足りないのだと、参考になる文献を教えてくれた人。
鷹のようだと表される眼光は老いてなお鋭く、悪戯がバレてお説教をされる子どもめいた気持ちにさせられる人だったけれど、見ず知らずの私にも気まぐれに優しくしてくれた、尊敬すべき大魔術士だ。
気づいてぐるりと見回してみれば、誰かさんを囲む人垣は皆魔術士のローブを羽織っている。窓のない石造りの部屋は寒々としていて、ハッとして床を見れば誰かさんを閉じ込めるように複雑な魔術陣が描かれている。
ここはどこだろう。今さらそんな疑問を覚える私をよそに、オットー筆頭魔術士を視界に入れた途端、誰かさんはピタリと瞬きすら止めて彼を凝視した。
「ツァーゲン村から近隣への連絡が途絶えたのが約一年前。不審に思った隣村の人間がツァーゲン村の確認に出向いたのがその半月後、村人は全員が消息不明。盗賊に襲われたと報告があったが、その後隣村が妙にはぶりが良くなったのを見るに、住民不在をいいことに略奪に及んだのはその隣村の連中だろう。……先ほど、村近くの森からおびただしい量の損壊された遺体が見つかったと報告があった」
突然の話題についていけていないのはどうやら私だけのようだった。
オットー筆頭魔術士の語り口からすると、その見つかった遺体はツァーゲン村の人々なのだろう。森に棲む獣たちのしわざであれば、村人全員が犠牲になるのは不自然すぎる。狼の群れであっても、多少なり生き残りはいるはずだ。つまり、その惨劇は畜生にも劣る残虐な人間が作り出したもの。
「呪詛とは、贄となるモノに可能な限り苦痛を与え死に至らしめることで願望を叶える外法だ。願いが荒唐無稽であればあるほど、必要となる贄の数とそれらに与える死の残虐さは増す。まして、他人の体をそっくりそのまま掠め取る呪詛なぞ外法中の外法。村ひとつ消えていてもおかしくない」
つまり。
つまり、それは。私の体を奪った、この誰かさんは。
「ひとりだけ、獣にすら見向きもされず、損壊もなく、ただ異様に腐敗が進んでいる遺体が発見された。呪詛に対してこのような表現をするのも皮肉なことだが、もし呪詛が正しく完成していれば、本当のミラベル・ティート嬢が押し込められ、呪詛の反動で死ぬこともできず腐敗の激痛に苦しめられていたことだろう。そこだけは、不幸中の幸いといったところか」
「筆頭」
「ああ、すまないオーウェン・リード次席。わかっている、お前にとってもミラベル・ティート嬢にとっても、ただただ最悪なばかりであるというのは」
コツリ。オットー筆頭魔術士が魔術陣の前に立つ。
老魔術士の瞳には、感情らしきものが何もない。ぞくりとするほど酷薄な色をしていた。
「ツァーゲン村のヒルダ。村長の娘でありながら村民たちを私欲のためだけに惨殺し、何の非もないミラベル・ティート嬢の尊厳を蹂躙し、もはや貴様は魔に堕ちた。――報いの時だ、せいぜい苦しんで消滅するがいい」