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沈む意識の中、点々と記憶の欠片が水面下へと落ちたように波紋が広がり、一つの映像が浮かび上がった。きっと、日本に行くことになったせいもあるのだろう。無意識に記憶が忘却したかった出来事をリピートする。
白い壁に白い天井、白いカーテンに白いベッド。白で統一された部屋は清潔感があるものの、気味が悪かった。患者用の服も白であるので気持ち悪い事この上ない。別の色があるすれば窓の外に見える景色と、ベッドの上でこちらを見ている女性だけだろう。
黒真珠のような輝きを持った髪、胸元まで伸ばされた髪の毛を少しだけ鬱陶しそうに払いのけてロウへと手を伸ばす。彼女の手を取るとベッドから這い出ようと体を捩らせているのだろう。しかし身じろぎしているようには到底思えない程に女性の体はいう事を聞いていなかった。
ため息を吐いたのはどちらだろうか、いや、きっと二人して同じタイミングで息を吐き出したのかもしれない。下半身だけがいう事を聞かない女性は、病室から出る時はこうして人の手を借りなければいけない。女性は抱っこを求める子供のように両手を広げてロウに甘える。この行為に慣れているロウはやれやれと言った風に短く笑うが、まんざらでもない様子で彼女を抱きかかえる。
「ノノカ、無理するなよ」
耳元で優しく声を掛ける。シャンプーの良い匂いに軽く動機が上がり、頬を赤らめながら近くに置いてある車椅子にノノカの体を置く。
「隙あり!」
離れ際に挨拶をするような感覚で軽く唇を触れ合わせたノノカは、満足そうに椅子に凭れ掛かりながらも顔を赤らめていた。当事者の癖に恥ずかしがるなと注意をして軽くチョップをノノカの御凸にお見舞いしながら、車椅子を押して外に出た。
ノノカは幼馴染だった。家も隣で、部屋の窓を開ければそこで喋ることが出来るといった、漫画のような世界の住人だった。幼稚園から大学生までずっと一緒に通ってきた。最早腐れ縁と言ってもいいくらいに二人は切っても切れない関係にあった。
しかし、彼女は生まれた時から重い病気にかかっていた。毎日車椅子の生活を強要され、他の人達と同じように運動も出来ない。小学校の時まではまだ車椅子は必要がなかったのだが、ある日彼女が体育の時間に突然倒れたのが始まりだった。
その日以降から彼女は自足歩行が出来なくなり、満足に運動をすることが出来なくなっていた。
中学に上がってからは殆ど学校では喋ることが無くなっていた。教室の隅、一人窓際で本を読んでいるだけだ。クラスが違っていたロウはノノカの状況を把握できておらず、虐めが起きて浮いていたこと知らなかった。知っていたならば助けることが出来たのだろうか? 人は弱い生き物だ。個人で動くことが出来る人がいるがその人こそ強い人間だ。心が強い、精神的に強い、体が強い。残念ながらロウは弱かった。虐めにあっているとお喋りをしていた時に発覚した事案だったのにもかかわらず、自分は励ますことしかできなかった。
そう、自分は守ることが出来なかったのだ。ノノカの事を好きになったのはいつ頃だったのかはもう覚えていない。ただ、彼女の流した涙は当時忘れることが出来なくて、ずっと後悔していた。
どうしてあの時、身を挺して庇うことが出来なかったのか? どうしてあの時、彼女の傍にいてやることが出来なかったのか? 答えは簡単だ。自分が弱かった。あまりにも惨めで、あまりにも脆弱で、自分可愛さに彼女の事を裏切ってしまっていたのだ。
高校生になってからはお互いに合う回数が減っていた。時間を決めていた密会のようなお喋りも無くなってしまった。
顔も見合わせることなく就職したロウは、とある日にノノカの事で一報が入ったのだ。
ノノカは病気で倒れてしまってずっと病院にいるとのこと。それは高校に上がってからずっと病院のベッドの上で闘病生活をしているという事だ。
夜、九時の密会が出来なくなったのも、入院していることで辻褄がロウの中で合わさった。
急いで実家に帰って連絡先を貰い、ノノカが入院している病院へと向かった。そこに居たのは衰弱した彼女の姿だった。
やつれた彼女の体は軽い。まるで子供を抱き上げた時と同じように軽いのだが、成人でもこのようなことがあるのだろうか。
また一つ後悔した。もっと早く気付くことが出来なかったのかと。
しかし、自己嫌悪に陥るロウを優しく彼女は宥める。貴方のせいではないと、これは自分の運命なのだと。今までいじめにあってきたのもそれは全て運命なのだとノノカはにこやかに言う。
本当なら彼女の事を気遣わなければならなかった立場だったのに、ここでも昔のように立場が逆転してしまった。ただただロウは自分を責め立て、ノノカは責め続けるロウを必死に宥めるのが日課になってしまった。
今を思い起こせば恥ずかしい出来事の一部だ。見舞いに来たのに慰められるとは、恥辱の極みだっただろう。それも今となっては記憶の一部になってしまっている。
今見ているのは数年が経過した映像だ。二九〇〇年十二月三十一日、夕闇が迫る時間帯に二人は浜辺を歩いていた。ノノカの体を背負いながらロウは浜辺を歩く。
「ねえロー?」
じゃれるような声で自分の名前を耳元で呼ばれるとぞわぞわする。首筋から頭皮の神経をざわつかせ、ロウは反応をする。
「なに?」
「私さ……実は高校生になる前には死ぬって、お医者さんに言われていたんだ」
初めて聞いた事実に、ロウの反応は薄く歯切れの悪いように短く、そうかとだけ呟く。ノノカはロウの反応に頬を膨らませながら、首周りを締め上げる。締め付ける力はまるで赤子が大人の指を握るのと同等の強さであり、苦しいという感覚はない。ただ、ノノカが自分に対して何かをしたいのだろうと思うと心が痛くなるだけだ。
「もうちょっと、驚かないの?」
「驚いたよ。だって、七年も余分に生きているんだぜ? 驚かない方が無理だ」
「それなら、もう少し驚いてくれても良いじゃん。そうか~だけなんて、冷たい言い方」
「なら、もうちょっと明るい話題にしてくれよ、暗いのは嫌いだ」
浜辺を歩いた先に、風景に似合わないような長椅子が置かれてある。このビーチ唯一の休憩所のような所であり、使っている人など自分たちくらいだろう。
ノノカの体を椅子に下して隣に腰かける。空を見上げれば雪が降り始め、髪の毛に張り付いた雪を優しく払いのける。病衣だけの彼女に、着ていた革ジャンを羽織らせて体を寄り添わせた。
「寒いか?」
「ううん、暖かいよ。ありがとう」
えへ~と子犬のような笑顔を浮かべノノカは強く抱き着く。毛布か何かを持ってこればよかったと軽く後悔しながらロウは水平線を眺める。夕日が落ちて夜に変わっていく風景は、何故か世界の終わりを感じさせるように不気味さを帯びていた。
いつもは綺麗な夕日だった。なぜ今日に限ってこういう気持ちに陥ってしまったのかと考えると、今日で長かった一年が終わる日だったからだ。
隣では小型のテレビを付けてとあるチャンネルに変える。特番に組まれた音楽番組であり、夕方六時から生中継で放送され、夜の三時まで各国のアーティストが歌う他に、クラシック界の人達も集める番組で、一年に一回だけ行われる大音楽祭という謳い文句は間違ってはいない。
二人の聞きたいアーティストは世界中で大人気になっている歌姫と名高い肩書を持っている彼女の歌を聞くことだった。
バンド名はEARTH、文字通り地球というひねりのない名前だと初めは思っていたが、聞いてみると、その名前は彼女だけに当てはまり文句が出ない。それほどまでに圧巻した女性だった。
まだ登場時間でないため、序章を彩るのはクラシック界で名の馳せている人々の演奏だ。オーケストラの演奏から、名前を聞いたことがあるくらいの認識程度だが、ピアニストの人だったりバイオリニストの人達が出ていたりもする。
今年は天才少女と言われていた一三歳の女の子がバイオリン演奏を成功させた。
「すごいね~まだ中学生くらいなのにね?」
「まあな、俺には良し悪しなんか分からないけどな」
辺りはベタを塗ったように真っ暗な空間だ。遠くに見える灯台の光と空を横断する飛行機の明かり、それと満開に広がる星の海が自分たちを照らしている。今夜は新月であり月こそ見えないが、月光に負けないぐらいの星の輝きはそれだけで迫力がある。
時間も二三時四五分となり、遂に本命のアーティストであるバンドが画面に移りだされた。
「やっぱり美人だなぁこの人」
「そうだな、でも俺はノノカの方が好きだ」
「もう! 恥ずかしい事言わないでよ!」
夜景で彼女の表情までは見えないが、きっと赤くなっているに違いない。ロウ自身もそうだからだ。
小さな画面の中でEARTHのボーカル、歌姫ことアイネは一曲を歌い切り、時刻は新世紀を向かえる三十秒を切る。会場の中で歌姫と観客は新世紀に向けてのカウントダウンを始める。今、世界中が一つとなって新世紀を受け入れようとしていた。
「ねえロー?」
画面と一緒にカウントダウンを数えていたロウは不意に話しかけてきたノノカに顔を向ける。画面から聞こえている筈の音声が突然無音になったように二人の空間だけになった。
重なり合った唇は深夜の冷気によって冷え切っていた。氷のように冷たく、しかしノノカは求めるようにロウの中へと入り込む。
腕を首元に這わせ、熱い舌先を絡み合わせてお互いの体温を確認し合う。俺は此処にいる、私は存在していると強く主張するようだ。一度休憩を挟むようにノノカは顔を離れさせて時間を見やる。画面には会場が新世紀を向かえたことで紙吹雪が舞っておりボルテージは最高潮だった。
「明けまして、おめでとう!!」