第3.5話『猫獣人が好き放題しているので、お仕置きすることにした』
昼下がりの市場は、とにかく人が多い。
通りの両脇には屋台がずらりと並び、
香辛料の刺激的な匂いと、果物の甘い香りが入り混じって鼻をくすぐる。
問題の猫獣人は、どうやらほぼ毎日ここに姿を現すらしい。
そう聞いてから、僕は市場を一人で練り歩き、周囲の様子を探っていた。
魚の干物を売る男の威勢のいい呼び声。
値段を巡って言い合う商人と客。
通りを駆け抜けていく子どもたちの笑い声。
喧騒の中に、活気と混沌が溶け合っている。
まさにここは、人と情報が交差する場所だ。
正直なところ、僕のような貴族が歩くには、少し騒がしすぎる。
けれど――悪くない。
こういう、生の街の空気を感じられるのも、視察の醍醐味だろう。
……とはいえ、完全に気を抜いているわけではない。
視線は自然を装いながらも、人の流れや屋台の手元へ、さりげなく意識を巡らせる。
食べ物を扱う場所。
人が密集するところ。
狙うとすれば、そのあたりだ。
そして――そのときだった。
ふと、視界の端を掠めるように、
明らかに“速い”動きが映る。
だが、反射的にそちらへ視線を向けたときにはすでにその姿はなく、一瞬の見間違いだったのかと、そう思いかけた。
――次の瞬間。
「あっー! チキショー! またやられちまった!」
市場に響き渡る、叫び声。
干物屋の男が、盛大に声を上げていた。
どうやら、並べていた干物を持っていかれたらしい。
……なるほど。
獲物の選び方まで、実に猫獣人らしい。
周囲の人々は、干物屋の怒声につられて一斉にそちらへ視線を向ける。
市場の空気が、ざわりと揺れていた。
だが――
僕はその喧騒から、半歩だけ意識を引き剥がし、周囲全体を素早く見渡した。
そして、見つけた。
通り沿いの建物の上。
人の視線が届きにくい高い位置に、ひとり分の影があった。
口元には、魚の干物をくわえたまま。
高みからこちらを見下ろし、まるで「してやったり」と言わんばかりに、ニッシッシと悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「……でゅふふ。見つけた」
思わず漏れたその声に、自分でも分かるほど口元が緩んだ。
逃げ切ったと確信している彼女の余裕ある笑みに呼応するように、僕の顔にも、自然と同じ様な笑みが浮かんでいた。
紫色の髪はぼさぼさで、身にまとった服もかなりボロボロで年季が入っている。
まるで街に根を張る野良猫のような風体だ。
だが――
ぴくり、ぴくりと感情を隠しきれずに動く猫耳。
その背後で、気まぐれに揺れる尻尾。
その一つ一つが、はっきりと彼女の感情を語っていた。
「あぁ……素晴らしい。でゅふ」
その瞬間だった。
こちらの視線に気づいたのか、彼女と目が合った。
次の刹那、余裕に満ちていたその表情に、明らかな焦りが混じった。
――そして、即座に逃走。
だが――せっかく見つけたのだ、逃がす訳にはいかない。
僕は瞬時に魔法を発動させた。
「風の跳躍」
足元に風の魔法陣が展開し、
軽やかな反動とともに身体が宙へと押し上げられる。
視界が一気に持ち上がり、
僕はそのまま、建物の上へと飛び上がる。
「ニャッ!? な、何ニャ!?!?」
空から現れた僕を見て、猫獣人は目を丸くし、思わず一歩後ずさった。
完全に虚を突かれた反応だった。
その様子に、僕は自然と口元を緩め、一歩踏み出す。
「君が、噂の猫獣人だね」
ゆっくりと距離を詰める僕を見て、猫獣人は露骨に警戒の色を強め、姿勢を低くして臨戦態勢を取った。
「な、ガキンチョが……あたしに、なんの用にゃ」
「……ガキンチョ?」
たしかに、前世を除き今の年齢だけを見れば、彼女の方が年上なのは間違いなのだが。
そのツンとした態度に、気づけば口元が勝手に緩んでいた。
「でゅふふふ」
「なんニャ……こいつ、笑い方キモいニャ……」
露骨に引いた視線を向けながら、猫獣人はじりっと距離を取り、身構えたままこちらを睨む。
「……いったい、何者ニャ」
その問いに、僕はなるべく警戒されないよう、一度足を止め、姿勢を正した。
「僕はヴァイスベルグ領の領主の息子、クラウス。
君の行動で困っている人が多いみたいだから、今日はその話をしに来ただけだよ」
だが、その説明に、彼女はふん、と鼻で笑った。
「なーんだ、そういうことかニャ!
残念だったニャ! ガキンチョ如きに捕まるあたしじゃないニャ!」
ふん、と鼻を鳴らしながら、しなやかに腰を落とし、いつでも跳べる姿勢を取る。
尻尾はぴんと立ち、自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「……随分と自信があるんだね」
感心したようにそう言うと、猫獣人は胸を張り、誇らしげに言い放った。
「はんっ、当然ニャ!!
あたしはニア!
誇り高き猫獣人の族長、オルサムの娘ニャ!!」
その瞳は、まるで王者のように輝いていた。
自分が上であることを疑いもしない――
そんな揺るぎない自信と誇りが、隠すことなく滲み出ている。
「へえ……君の名前はニアっていうのか」
「人間のガキンチョなんて相手にならないニャ。
ボコボコにされたくなかったら、
大人しく帰るにゃね!」
強気で、誇り高く、
そして当然のように僕を見下ろすその態度。
ふわりとした紫色の髪の上で、
三角形の耳がぴくりと動く。
腰から伸びるしなやかな尻尾も、
警戒するようにゆらりと揺れていた。
――ああ、駄目だ。
その姿を前にして、思わず口元が緩んでしまう。
それに気づいたのだろう。
ニアは訝しげに僕を睨み、耳をぴくりと跳ねさせて、目を細めた。
「ちょ……話、聞いてるのかニャ!
その舐め回すような視線、気持ち悪いニャ……
なんか、すごく嫌な気分ニャ!!」
僕は肩をすくめ、誤魔化すように、照れた笑みを浮かべる。
「ああ、ごめん。
つい、見とれてしまって……でゅふ」
次の瞬間。
ニアは心底うんざりしたように顔を歪め、
尻尾をピシッと強く打ち鳴らした。
「……どうやら、
本気でボコボコにされたいみたいニャね!」
怒気を隠そうともせずに叫ぶその様子から、
冗談や脅しではなく、本気でやり合うつもりなのが伝わってくる。
「せっかくだし、実力も見ておきたいからちょうどいいんだけど……ここじゃ、ちょっと都合が悪いな」
この場所で暴れれば、間違いなく街に被害が出る。
さすがにそれは避けたい。
「はぁ? なに言ってるにゃ!」
「仕方ない。場所を移そうか」
「……ほう。
いい度胸ニャ!
逃げるんじゃないニャよ!?」
僕は笑みを浮かべ、ゆっくりと手を掲げた。
「じゃあ、さっそく」
そう言って、軽く指を鳴らす。
「空間転移!」
――瞬間、視界が歪む。
次の瞬間、僕たちは街の外れに広がる、見渡す限りの平原に立っていた。
「……ニャ!?
え!? なにニャここ!?
どこニャ!? 何したニャ!!?」
ニアは目を見開き、尻尾を逆立てながら辺りを見回す。
混乱している様子の彼女に、説明してあげた。
「ここは街の外だよ。
僕の転移魔法で、一気に移動してきたんだ。
広い場所なら……君も、思いきり暴れられるだろ?」
これだけの魔法を見せれば、さすがに戦意を削がれるかと思い、あえて挑発するように言ったのだが――
「はんっ!
よく分かんにゃいけど、どうでもいいにゃ!」
ニアは爪を鳴らしながら一歩踏み出す。
「とりあえず!
ボコボコにしてやるにゃ!!」
……なるほど。
どうやら、あまり頭を使うタイプではないらしい。
考えるより先に体が動く、本能直結型。
理屈より勢い――そんな生き方だ。
僕の心配は、どうやら無用だったようだ。
「行くにゃ!」
叫ぶと同時に、ニアは鋭く爪を伸ばし、しなやかに地を蹴った。
一瞬で間合いを詰め、鋭い爪が僕の首元へ迫る。
「……速い!」
まるで疾風。
猫獣人の俊敏さを最大限に活かした、無駄のない突進だ。
だが――
「風の跳躍!」
足元に風を纏わせ、後方へと軽やかに跳ぶ。
ニアの爪は空を切り、彼女は小さく舌打ちした。
「チッ……なんで避けるにャ!」
悪態を吐きながらも、動きは止まらない。
横へ跳躍し、死角から再び爪を振るう。
僕は右へ回避するが、即座に追撃。
低い姿勢から振り上げられる、鋭いカウンター。
「……なるほど、やるね」
この戦闘センス。
人間相手なら、まず対応は不可能だろう。
だが――
「魔力障壁!」
展開した障壁が、ニアの爪を弾き返す。
「ニャッ!? な、何ニャ!? そんなのズルいニャ!」
「ズルい?
猫獣人の俊敏さも、十分チートだと思うけど?」
悔しそうに歯ぎしりしながら、ニアは距離を取る。
「なら……次は本気でいくニャ!!」
彼女の体が低く沈み込む。
そして――
「獣王迅閃!」
叫んだ瞬間、ニアの腕と顔に獣の気配が濃く宿る。
毛並みが逆立ち、爪はさらに鋭さを増した。
次の瞬間――
その姿が、掻き消える。
「……!」
視認が追いつかない。
並の人間なら、対処する間もなく、
気づいたときには終わっているだろう。
――だが。
「魔力拡張」
魔力を周囲へと拡張し、
侵入してくる存在を感知する。
気配が近づいた、その刹那――
即座に捉えた。
それでも、速い。
感知した直後には、すでに爪が首元へと迫っていた。
のけぞりながらも、反射的に魔力を解き放つ。
「風刃衝撃!」
放たれた風の刃が、
ニアの進路を強引に断ち切る。
「ニャッ!? ぐっ……!」
ニアは急制動で回避する。
その動きには、はっきりと焦りが混じっていた。
「くっそぉぉぉ!!
……本当にムカつくニャ!!!」
叫びながら、なおも間合いを詰めようとする。
――だが、もう十分だ。
彼女の実力は把握できた。
戦闘センスは確かに優秀で、獣人らしい勘と身体能力も申し分ない。
ただし、細かな動きにはまだ粗があり、完成されているとは言い難い。
実力不足と言われれば、否定はできないだろう。
もっとも、僕の専属メイドとして迎えるには、
それでも十分すぎるほどの資質だ。
ここで終わらせても構わない。
そんなこちらの判断など知る由もなく、
ニアは再び、こちらへと飛びかかってくる。
「……やれやれ」
街の人たちを困らせていた件もある。
少しは、反省してもらわないといけない。
――ほんの、軽いお仕置きだ。
「重力拘束!」
地面に魔法陣が展開され、
次の瞬間、ニアの体が一気に沈み込む。
「ニャアアア!?
ちょ、ちょっと待つニャ!!
からだが……重いニャ!!」
重力の圧に耐えきれず、ニアは膝をついた。
必死にもがくが、思うように体は動かない。
俊敏さ――
それは彼女最大の武器だったはずだ。
だが今、その切り札は完全に封じられていた。
「さて……」
僕は、にっこりと微笑む。
「そろそろ、反省してもらおうか」
右手をゆっくりと掲げ、
魔力を一点に収束させていく。
「――偉大なる炎の加護を受けし力よ、
天地を焦がし、すべてを塵と化せ――」
ズズン……
地面が低く唸りを上げ、
赤黒い魔法陣が、次々と空中に浮かび上がる。
「――神々の怒りを宿し、
灼熱の業火を顕現せよ――」
魔力が弾け、
第二、第三の魔法陣が幾重にも重なった。
大気は震え、空は赤く染まり始める。
「ニャッ!?
ま、待つニャ!!
な、なにか……ヤバいのが出てきてるニャ!!」
「――天と地を分かつ紅蓮の閃光よ、
汝の名は――」
「ニャアアアアア!!
そ、それ絶対死ぬニャ!!!
何でもするニャ!!
何でもするから許してほしいニャーーー!!!」
「大爆――」
「……ん?」
彼女の叫びに、僕は寸前で詠唱を止めた。
それと同時に、空を覆っていた壮大な魔法陣が、
嘘のように霧散していく。
「今……何でもするって言った?」
確認するように声をかけるが、
ニアは完全に混乱しているようだった。
ついさっきまで、空一面を埋め尽くしていた赤黒い魔法陣。
それが消え去り、今は何事もなかったかのような青空が広がっている。
無理もない反応だろう。
「ニャ!?
……あれ?
ど、どうなったニャ?」
「君が何でもするって言ったからね。
魔法は中止したよ」
にっこりと告げると、
ニアはようやく自分の発言を思い出したらしく、
みるみる顔色を変えた。
「ちょ、ちょっと待つニャ!!
何でもするとは言ったけど、
本当に何でもって意味じゃニャいニャーー!!」
「でゅふふふ。
もう遅いよ」
僕は満面の笑みを浮かべ、
彼女に向かって手を差し出す。
「ようこそ、僕の専属メイドへ」
「ニャッ!?
メ、メイド!?
ふ、ふざけるニャーー!!!」
ニアは全力で跳び退き、
耳と尻尾を逆立てながら叫ぶ。
「あたしは絶対に、
メイドなんかにならないニャーー!!!」
勢いよく尻尾を振り上げたものの、
重力拘束を解いた直後で体勢が整っておらず、
そのまま足を取られて――
「ニャあああ!?
こ、こんなの認めないニャ!!!」
地面に転がりながらも、
まだまだ反抗心は衰えていない様子だ。
いいね。
実に良い。
もっとも、最初から本気で魔法を当てるつもりなどなかったのだが、結果としては上出来だろう。
これは……なかなか、育てがいがありそうだ。




