第28話『疑念の眼差し』
書庫を後にした僕は、自室で待っているプルメアのもとへ戻るため、静かな廊下を歩いていた。
そろそろニアとセラも、屋敷での雑務を終え、専属メイドとして僕の部屋に集まっている頃だろう。
スタンピード――
放っておけば、いずれ街にまで被害が及ぶ脅威だ。
早く対処するためには、彼女たちの協力が必要になる。
プルメアのことも含めて、もう一度みんなで状況を整理しておきたかった。
――そのときだった。
ふと、背後に気配を感じて、思わず足を止めた。
ゾクリ、と首筋をなぞるような視線。振り返ると――
「……っ」
遠く、廊下の突き当たり。
ネーヴェが、立っていた。
距離はある。けれど、その仮面ははっきりとこちらを向いている。
無言で、動かず、ただ“そこにいる”。
その出で立ちも相まって、気味が悪い。道に迷った? いや、それなら普通に声をかけてくるはずだ。
やっぱり……苦し紛れの言い訳に納得していなかったのか?
どちらかといえば、後者だろう。
だが、どちらにせよ、これ以上追及されるのは困る。
僕は目をそらし、歩を早めた。角を曲がり、早足になる。
――だが。
また、背後から、視線。
恐る恐る振り返る。
……いた。
さっきよりも、近い場所に。
「なんで、ついてくるんだよ……!」
小さく漏れた声に反応するように、僕の足は自然と駆け足になっていた。
自室にはプルメアがいる。このまま戻るわけにはいかない。
どこかでまいてから部屋に戻り、立て籠もるしかない。
僕は迷う暇もなく、走った。
角を曲がり、ふたたび後ろを振り返る。
――いない。
ネーヴェの姿は、どこにもなかった。
(……まさか、勘違いだった?)
少し神経質になりすぎていたのかもしれない。
そう反省しながら、ゆっくりと息を整え、視線を前に戻した――その瞬間。
「うわああああっ!?」
目の前に、ネーヴェが立っていた。
あまりに無音で、あまりに自然に。
まるで、そこに“現れた”かのように。
仮面の奥、その無表情。
「……なんで、逃げるの?」
中性的な、感情の読み取りづらい声。
淡々としたその調子に、僕は反射的に叫び返した。
「おっ、おってくるからですよっ!」
「……何か、隠してない?」
「か、かくしてません!」
仮面の奥から注がれる視線は、まるで心の奥を見透かすようだった。
言い訳を探すよりも早く、ネーヴェは一言だけ――
「……そう」
それだけを残し、踵を返してすうっと立ち去っていった。
――足音は、やはりしなかった。
その場に取り残された僕は、膝に手をつき、大きくため息をつく。
「……もう、なんなんだよ。本当に……」
怪しまれているのは、間違いない。
けれど――あっさりと引き下がったのは、追及しても無駄だと思ったからか。それとも、ただただ純粋に僕の言葉を信じたのか。
そのどちらかは分からない。
……今は、これ以上詮索されなかったことに感謝しておくべきだろう。
* * *
「それで逃げて帰ってきたのかニャ!?」
自室に戻るや否や、ニアの突っ込みが飛んできた。
「人聞きが悪いな……相手はSランク冒険者だよ? しかもあの出で立ち。何もなくても逃げたくなるって」
思わず眉をひそめて言い返す。あの仮面と無音の気配――誰だってビビる。
「だったら、転移魔法でさっさと帰ってくればよかったじゃないか」
今度はセラが腕を組みながら冷静に言い放った。ごもっともな意見だ。
「……う、それはそうなんだけど。この程度の距離で転移魔法を使うのも、魔力消費のわりに割が合わないっていうか……」
「ふふっ。そんなふうに冷静に考えられていたなら、まだまだ余裕はあったということですね」
プルメアが楽しげに笑う。例によって、まだ紙袋をかぶったままだ。その紙袋が小さく揺れ、まるで笑い声に合わせて表情でも変えているようだった。
「とはいえ、奴の興味を引いてしまったのは確かだ。無関心でいてくれれば、やり過ごすのも容易だったが……万が一、監視でもされていたら、正直やりづらいな」
セラがそう言うと、ニアが唇を尖らせて呟いた。
「そうニャ。瘴気溜まりを潰しに行くにしても、あいつに監視されて、プルメア魔物を吸収するところを見られたら、アウトにゃ」
「……まったく、その通りだね」
僕は肩をすくめて、ため息をつく。
「とはいえ、今はまだスタンピードの兆候が出始めただけで、瘴気溜まりがどこに、いくつあるのかも正確には分かっていない。父上からの指示も、いずれあるだろうし……それを待って動こう」
部屋に集まるメンバーの顔ぶれを見渡しながら、僕は続けた。
「とにかく――今、僕たちにできるのは、いつでも動けるよう準備しておくこと。そして、ネーヴェにはこれ以上、余計な興味を持たれないよう注意して行動することだ」
紙袋の奥で、プルメアが小さくうなずいた。ニアとセラも、真剣な顔つきで頷いてくれる。
……静かな決意だけが、部屋の空気を満たしていた。




