第27話『無音の足音』
朝食を終えた僕は、そのまま自室には戻らず、屋敷の廊下を一人で歩いていた。
先ほど父上と母上の前で口にした言葉が、まだ頭の中に残っている。
――僕が、きっとこの問題を解決してみせます。
勢いで言ったつもりはない。
プルメアを守るためにも、この領地に暮らす人たちを守るためにも、森の異変を放っておくわけにはいかない。
だけど――。
「……スタンピードについて、僕はほとんど何も知らないんだよね」
もちろん、知識として聞いたことくらいはある。
魔物が群れを成して移動し、人里へ押し寄せる災害。
ひとたび起これば、村や町が壊滅することもある危険な現象。
その程度のことなら、僕でも知っている。
けれど、実際にどういう前兆があるのか。
なぜ起こるのか。
そして、どうすれば止められるのか。
そこまで詳しく理解しているわけではない。
あれだけはっきりと「解決してみせます」と言った以上、何も知らないまま動くわけにはいかない。
そう考えた僕の足は、自然と屋敷の奥へ向かっていた。
向かう先は、書庫である。
ヴァイスベルグ家の書庫には、魔法に関する書物だけでなく、領地の歴史や過去の災害記録、魔物の生態に関する資料まで保管されている。
父上が領主として必要な知識を集めている場所であり、僕にとっても幼い頃から何度も足を運んできた馴染み深い場所なのだ。
重い扉を開けると、古い紙と革表紙の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
高い天井まで届く本棚。
隙間なく並べられた本の数々。
窓から差し込む光の中で、細かな埃がゆっくりと舞っている。
静まり返ったその空間に足を踏み入れると、さっきまで胸の中にあった妙な熱が、少しだけ落ち着いていくような気がした。
「さて……まずは……」
そう言って僕は棚の前に立ち、背表紙を順に追っていく。
魔物学。
大森林の地理。
領地防衛記録。
災害年表。
討伐報告書。
それらしい本を何冊か抜き取り、近くの机へ積み上げていく。
そして椅子に腰を下ろすと、一冊ずつページをめくり始めた。
最初に手に取ったのは、魔物の生態をまとめた分厚い本だ。
そこには、スタンピードについても簡単に記されている。
スタンピード。
それは、魔物が大群となり、まるで何かに狂わされたかのように一方向へ突き進む災害の総称だ。
稀に発生する大規模災害として知られているが、その原因はさまざまで、一概にこれと断定できるものではないらしい。
魔物の異常繁殖。
縄張り争いによる群れの移動。
強力な魔物の出現による生態系の崩壊。
あるいは、魔力濃度の急激な変化。
原因は違えど、結果は同じだ。
行き場を失った魔物たちが連鎖的に押し出され、やがて巨大な奔流となって人里へ押し寄せる。
それが、スタンピードと呼ばれる現象らしい。
「なるほど……」
僕は小さく息を吐きながら、本のページを閉じた。
ひとまず、スタンピードというものがどういう災害なのかは分かった。
だけど、原因が一つに定まらない以上、一般的な知識だけでは今回の森の異変を判断するには足りない。
必要なのは、大森林で何が起きているのかを知ることだ。
そう考えた僕は、積み上げた本の中から大森林に関する一冊を手に取った。
ページをめくり、森における魔物の生態や魔力の流れについての記述を追っていく。
そして、ある項目で指が止まった。
――瘴気。
そこに書かれていたのは、大森林における瘴気と魔物の関係についてだった。
魔物の死骸や血に残った魔力は、やがて周囲へ漏れ出し、土地に淀んで瘴気へと変質する。
もともと魔力の濃い大森林では、その変質も早いらしい。
瘴気が一定以上に濃くなると、周囲の魔物たちはそれに誘われるように集まりはじめる。
そして、瘴気に当てられた魔物は理性を失い、凶暴化する。
互いに襲い合い、喰らい合い、やがてその場にはさらに多くの死骸と血が残される。
それがまた新たな瘴気となり、森の魔力を濁らせていく。
そうして瘴気が一か所に淀み、周囲の魔物を引き寄せるほどに濃くなった領域。
それを、文献では“瘴気溜まり”と呼んでいた。
「……これだ」
思わず、声が漏れた。
僕たちが見たあの現場も、ここに書かれている状況とよく似ていた。
まるで周囲の魔物が引き寄せられたかのように、様々な魔物が倒れていたのだ。
そして、あの場に立ち込めていた、目に見えるほど濃い黒い靄。
おそらく、あれこそが文献に記されている“瘴気溜まり”なのだろう。
さらに読み進めると、瘴気溜まりについての記述は続いていた。
瘴気溜まりというものは、もともと魔力が濃く、瘴気が発生しやすい大森林においては、稀に起こる現象のようだ。
瘴気に誘われて周囲の魔物が集まったとしても、近くにいる魔物が集まりきれば、それ以上の広がりは起こりにくい。
やがて死骸から漏れ出す魔力も尽き、濃くなった瘴気は少しずつ森に吸収されていく。
ただし――
複数の瘴気溜まりが同時に発生した場合は、注意が必要である。
森の各所で瘴気が高まり、それぞれが周囲の魔物を引き寄せる。
その影響が大森林全体にまで波及したとき、魔物の移動は単なる局所的な異常では済まなくなる。
森の奥から外縁へ。
外縁から人里へ。
押し出された魔物たちが巨大な奔流となって溢れ出す。
そう文献には記されていた。
つまり、一つの瘴気溜まりだけなら、あくまで局所的な異常に留まる。
けれど逆に言えば、一つでも瘴気溜まりが確認された時点で、森の別の場所にも同じような異常が発生している可能性を考えなければならない。
そして、それが複数に広がっていた場合、その先にあるのがスタンピードという訳だ。
「……なるほど。瘴気溜まりが確認された時点で、スタンピードの兆候と見なすべきなのか」
僕は文献に視線を落としたまま、小さく呟いた。
父上やネーヴェさんが言っていた“スタンピードの兆候”とは、すでに魔物が人里へ押し寄せているという意味ではない。
森のどこかで瘴気溜まりが発生し、それが連鎖する危険性があるという意味だったのだ。
そう考えれば、ネーヴェさんがあの現場を見てスタンピードの兆候があると判断したのも納得できる。
あの場所にあったのは、ただの魔物の死骸の山ではなかった。
魔物を引き寄せ、瘴気を濃くし、さらなる異常へと繋がりかねない危険な火種。
つまり、あの瘴気溜まりこそが、スタンピードの前兆だったのだ。
とにかく、原因はある程度見えてきた。
瘴気溜まり。
それをどうにかできれば、スタンピードという災害そのものを阻止できる可能性がある。
だけど――。
肝心の瘴気溜まりにどう対処すればいいのか。
その方法だけが、どこにも載っていなかった。
載っているのは対策ではなく、過去に起きたスタンピードによる災害の記録ばかりだ。
大森林では、過去にも大小さまざまなスタンピードが、数十年の周期で起きているらしい。
文献には、その発生時期や被害の規模が淡々と記録されていた。
僕は眉をひそめながら、古い文字を追っていく。
結局のところ、どの時代もスタンピードを完全に食い止めることはできていないようだ。
僕は本を棚へ戻し、そのまま別の本を探すことにした。
瘴気溜まりへの対処方法そのものが書かれていなくても、どこかに何かしらの手がかりがあるかもしれない。
それらしい本を手に取っては、その場でぱらぱらとページをめくり、目を通していく。
だけど、どの本も結局は似たようなことしか書かれていなかった。
過去に何が起きたのか。
どれほどの被害が出たのか。
どのように魔物が押し寄せたのか。
欲しい答えだけが、どこにもない。
最後に手に取った本を棚へ戻した、その時だった。
僕の目に、ひときわ古びた一冊が留まる。
黒ずんだ革表紙。
擦り切れた背表紙。
そこに刻まれた文字はかすれ、ところどころ読み取れなくなっていた。
けれど、その一部だけは、かろうじて読める。
「黒き……災厄?」
思わず、声が漏れた。
妙に不吉な響き。
僕はその本を引き抜こうと、そっと背表紙に指をかけた。
その瞬間――
「みつけた」
「うわっ!?」
何の気配もなく、背後から声がした。
思わず肩を跳ねさせて振り返る。
そこには、いつの間に現れたのか、仮面をつけたネーヴェさんが静かに立っていた。
足音も無ければ、扉が開く音も聞こえなかった。
それどころか、すぐ背後に立たれるまで、気配すら感じなかった。
「ネ、ネーヴェさん……!?」
無機質な仮面が僕を無言で見つめてくる。
「……ここで何を?」
動揺を隠しきれないまま、僕はそう問いかける。
「君こそ、何を?」
ネーヴェさんの視線が、僕の手元――背表紙に指をかけたままの古びた本へと向く。
「えっと……スタンピードについて、詳しくは知らなかったので。この機会に、少し調べていたんです」
「そう……それで?」
短い問いだった。
けれど、その言葉には、僕がどこまで理解しているのかを確かめるような響きがあった。
「強い瘴気が魔物を呼び寄せ、そこで魔物同士が争い、死骸が増えることで瘴気溜まりができる。そこまでは分かりました」
僕はそこまで言って、苦笑する。
「でも、肝心の瘴気溜まりにどう対処すればいいのかまでは、まだ分からなくて」
「本当に?」
「……え?」
思いがけない返しに、僕は思わず間の抜けた声を漏らした。
ネーヴェさんは、仮面の奥からじっとこちらを見つめている。
表情は分からない。
けれど、その視線が僕をまっすぐ捉えていることだけは分かる。
「昨日、森で魔物の死骸を見つけた」
「……はい」
「ギルドで聞いた。君たちが報告したらしい」
「そ、それは……まあ、はい」
なぜだか言い訳めいて聞こえてしまう。
自覚があるぶん、余計に苦しい。
「でも、私がもう一度見に行った時には、死骸はなかった」
心臓が、嫌な音を立てた。
「死骸だけじゃない。血の跡も、瘴気溜まりも、綺麗に消えていた」
「っ……」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に昨日の光景がよみがえる。
プルメアが魔物の死骸を吸収したあと。
たしかに、あの場に立ち込めていた黒い靄は薄れていた。
重く淀んでいた空気も、いくらか軽くなっていたように思う。
あの時は、死骸がなくなったから瘴気も薄れたのだろう、くらいにしか考えていなかった。
けれど、文献の内容を読んだ今なら分かる。
あれは、ただ死骸が消えただけではなかったのかもしれない。
プルメアは、死骸に残った魔力だけでなく、周囲に淀んでいた瘴気までも吸収していた可能性がある。
つまり――
プルメアなら、瘴気溜まりそのものを消せるかもしれない。
そこまで考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
まずい。
それは絶対に、目の前の相手に知られてはいけないことだ。
相手は、よりにもよってスライムスレイヤーという二つ名を持つ冒険者なのだから。
「どうやったの?」
「え、えっと……その……」
僕は必死に言葉を探した。
だが、いくら考えても、都合のいい説明など思いつかない。
下手に嘘をつけば、余計に怪しまれる。
かといって、本当のことなど絶対に言えない。
冷や汗が、背中を伝う。
「……それは」
どう答えるべきか。
必死に言葉を探している僕を、ネーヴェさんは仮面の奥からじっと見つめていた。
「瘴気を消す方法は、限られている」
「え……?」
「死骸を焼けば、瘴気の発生は抑えられる。けど、すでに淀んだ瘴気を綺麗に消すのは難しい」
淡々とした声が、静かな書庫に落ちる。
「それができるとすれば、神聖魔法による浄化」
「神聖魔法……」
思わず、その言葉を繰り返していた。
神聖魔法。
リュミエール聖王国に伝わる、門外不出とされる特殊な魔法体系。
その詳細は秘匿されており、いくら神童と呼ばれている僕であっても、そんなものを扱えるはずがない。
だが――。
これは、もしかすると都合がいいのではないか。
ネーヴェさんが勝手にそう考えてくれるなら、少なくともプルメアに疑いが向く可能性は下がる。
ここで下手に否定すれば、かえって別の可能性を探られるかもしれない。
「もしかして、君……浄化を使えるの?」
仮面の奥から、まっすぐ問いが投げかけられる。
僕は一瞬だけ息を呑み、それから曖昧に笑ってみせた。
「さぁ……どうでしょうか」
「……」
沈黙が落ちた。
ネーヴェさんは何も言わず、ただこちらを見ている。
表情は見えない。
けれど、その視線が僕の反応を確かめていることだけは分かった。
やがて、彼女は小さく息を吐くようにして言った。
「……秘密、ということ?」
「そういうことにしておいてください」
僕はできるだけ平静を装って答えた。
本当のことは言えない。
けれど、嘘をついたわけでもない。
……いや、限りなく嘘に近いはぐらかしではあるのだけど。
「……分かった」
ネーヴェさんは、それ以上追及してこなかった。
納得したのか。
それとも、今は問い詰めても無駄だと判断しただけなのか。
そのどちらなのかは分からない。
ただ、少なくともこの場でプルメアのことに踏み込まれるのは避けられたらしい。
僕はぎこちなく視線を逸らし、それから小さく頭を下げた。
「で、では……僕はこれで」
「そう」
ネーヴェさんは短くそう返しただけだった。
追及するでもなく、引き止めるでもない。
けれど、その視線だけは、僕が書庫の扉に手をかけるまで、ずっと背中に突き刺さっているように感じた。
僕はなるべく平静を装いながら扉を開け、書庫を後にする。
扉の向こうに出て、ようやくまともに息ができた気がした。
「……あの人、本当に何者なんだよ」
ぽつりと漏れた疑問は、静かな廊下に小さく溶けていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ここまでが改稿済みとなります。
次話以降は未改稿のため、文体や描写、内容の整合性に差異が生じる場合があります。
今後、順次改稿していく予定ですので、あらかじめご了承ください。
2026/5/29




