第27話『無音の足音』
朝食を終えた僕は、そのまま自室には戻らず、屋敷の書庫へと足を運んだ。
――スタンピード。
名前だけは聞いたことがあったが、その実態については正直ほとんど知らなかった。
やみくもに森へ足を運び、ネーヴェと鉢合わせでもしたら最悪だ。まずは、できるかぎり情報を集め、対策を練るべきだと判断した。
書庫の扉を静かに閉じる。重く沈んだ空気が、まるでこの部屋全体が眠っているかのような静けさを湛えていた。
椅子を引き、机の上に古びた文献を広げる。
記録によれば、スタンピードは単なる“魔物の暴走”ではなかった。
その起点は――瘴気。
魔力の濁りが森に満ち始めると、魔物たちはそれに当てられて凶暴化し、理性を失って暴れ出す。
そしてやがては、互いに喰らい合い、共食いを始めるという。
思わず目を細め、記述に指をなぞる。
凶暴化した魔物が殺し合えば、当然死体が増える。
腐敗した死体はさらなる瘴気を生み出し、やがて“瘴気溜まり”と呼ばれる危険領域を形成する。
そして――
そこから新たな魔物が発生し、さらに瘴気が広がり、瘴気溜まりが増えていく。
その繰り返しの末に、魔物は次々と生まれてくる。
やがて無数の魔力溜まりが積み重なり、最終的には一つの巨大な“瘴気の核”を成すこともある。
そのとき、極めて強力な魔物が発生する可能性がある――と文献には記されていた。
「なるほど……もともと瘴気の濃い土地として知られている大森林だ。昔からスタンピードは定期的に起きていたわけか……」
苦々しく呟いたあと、ふとページをめくる手が止まる。
――だが、そのおかげで、参考になる記録やデータも豊富に残されている。
けれど、それらの文献には、被害の規模や経緯こそ詳しく記されていても――
どうすれば、このスタンピードを防げるのか。どうすれば、終息させられるのか。
肝心な“対策”についての記述は、どこにも見当たらなかった。
めくるページのすべてが、ただの惨劇の記録に過ぎない。
「……じゃあいったい、どうすればいいんだよ……」
思わず声が漏れる。文献の文字が滲んで見えるほどに、思考が行き詰まっていた。
――そのときだった。
「一つずつ、魔力溜まりを消すしかない」
不意に、背後から声がした。
男性のようにも、女性のようにも聞こえる中性的な声だった。
思考が一瞬で凍りつく。冷や汗が、首筋を伝う。
「っ……ネーヴェ……さん……?」
おそるおそる振り返ると、そこには仮面の来訪者が立っていた。
足音ひとつなかったはずなのに、いつの間にか、静かにそこに。
仮面のせいで顔立ちは分からず、声と相まって、その性別すらはっきりしない。
ただ、静かにそこに立つその姿は、どこか異質で、人の輪郭から少しだけ外れているように思えた。
「父上から、森へ行かれたとお聞きしましたが……」
動揺を押し隠しながら、なんとか言葉を発する。
「行ったよ」
仮面の奥から、変わらぬ調子で返事が返る。
「では、なぜここに……?」
「……無かったから」
短く放たれたその言葉に、僕は眉をひそめる。
「……無かった?」
「魔物の死体が、一つも。瘴気の痕跡はあった。けど、死体も血も、何もかも綺麗に消えていた」
ネーヴェはゆっくりと一歩、僕の方へ歩を進める。
「ギルドで確認したら、昨日、君が報告していたと聞いた」
「そ、それは……まあ、はい……」
なぜだか言い訳めいて聞こえてしまう。自覚があるぶん、余計に苦しい。
「……あれだけの数を、跡形もなく消せるなら。スタンピードも、どうにかなるかもしれないな」
ネーヴェはそう言いながら、机の上の文献に目を落とした。
「スタンピードは、倒しても倒しても魔物が現れる。けれど、“死体”という養分がなければ、瘴気は増幅しない。溜まりも、できにくい」
「……なるほど」
理にかなっていた。僕がたどり着けなかった答えを、彼は当然のように語っている。
「どうやったの?」
さらりと、しかし真っ直ぐに尋ねてくる。
「え!? えっと、それは……その……秘密です」
口元が引きつるのを自覚しながら、なんとかはぐらかす。
「……気になる」
仮面の奥の視線が、まるで見透かすように、じっと僕を射抜いていた。
このまま詮索されれば、さすがにごまかしきれない。
焦りと居心地の悪さを誤魔化すように、僕はそっと立ち上がった。
「えっと……今日は他にも、ちょっと調べたいことがあって」
視線を逸らしながら言い訳を口にする。自分でも苦しい言い訳だと分かっていたが、ネーヴェはそれ以上何も言わなかった。
「……そう」
たった一言。追及も興味もないような、淡々とした声だった。
ありがたいのか、怖いのか、よく分からない。
僕は小さく頭を下げて、書庫を後にした。
扉の向こう、ふたたび静寂に包まれた廊下。足を踏み出してようやく、息ができた気がした。
(……あの人、本当に何者なんだよ)
そんな疑問が、胸の奥にじんわりと残る。




