第26話『貴族の朝食は決意の味』
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、頬をくすぐる。まぶたを持ち上げた僕は、ぼんやりとした頭を抱えながら身を起こした。
その瞬間、視界の端に“何か”が映る。
「……って、うわああああっ!?」
反射的にベッドの上でのけぞった。
そこには、茶色い紙袋を頭からすっぽり被ったプルメアが、じっとこちらを見つめて立っていた。
「おはようございます、ご主人様」
紙袋の中から、くぐもった声が響く。
「ぷ、プルメア……!? 心臓に悪いから! 朝イチでそれはやめて!!」
「ふふ、すみません。驚かせてしまいましたね」
ひとまず心拍数を落ち着かせながら、僕は頭を抱えた。
紙袋――。
それは、ネーヴェから正体を隠すための、苦肉の変装。
だが、もはや変装というより“常時装備”と化していた。
「そろそろ朝食のお時間になります。ご支度、お手伝いさせていただきますね」
ニアが屋敷の雑務を引き受けてくれているおかげで、プルメアは専属メイドとして、僕の身の回りの世話に専念できるようになっていた。
そのおかげで、朝の支度は驚くほどスムーズだ。着替えも整髪も、もはや彼女の手にかかれば瞬く間に完了する。
「それでは、ご主人様が朝食を済まされる間に、お部屋の掃除をしておきますね」
そう言って、紙袋をかぶったままペコリと頭を下げる。
貴族の屋敷における“朝食”は、格式と礼儀を重んじる場。
客人がいれば、当然その場に同席する。――スライムスレイヤー、ネーヴェも例外ではない。
そんな場にプルメアを同席させるわけにはいかない。少なくとも、今は。
「ごめんね。しばらくの間だけ、ここでゆっくりしてて」
「はい、ご主人様。……お気遣い、ありがとうございます」
こくん、と紙袋が上下に揺れる。その様子に、つい口元が緩んだ。
「……でゅふ。なんかもう、個性的すぎて逆にアリかもしれない……」
「ご主人様?」
「わっ、な、なんでもないよ! じゃあ、行ってくるね!」
「はい、お気をつけて」
プルメアの柔らかな声を背に、僕は部屋を後にする。
廊下に出ると、屋敷の朝の空気がひんやりと肌をなでた。
足音だけが静かに響く中、僕は食堂へ向かって歩を進める。
扉の前で立ち止まり、手をかけたまま、ふと深く息を吐いた。
――今から、スライムスレイヤーと顔を合わせて朝食。
そう思うだけで、胃の奥がじわりと痛み出す。
それでも、逃げるわけにはいかない。
覚悟を決め、僕は静かに扉を押し開けた。
重厚な扉が音を立てて開くと、朝の光がふわりと差し込んでくる。
そこには、いつも通りの――けれどどこか張りつめた静けさを纏った食堂があった。
長いテーブルには清潔な白いクロスが敷かれ、中央には銀の燭台が並ぶ。
壁には王家から贈られた油彩画が整然と掛けられ、窓際には朝露を含んだ季節の花が飾られていた。
格式と落ち着きを兼ね備えた空間。その奥に、父上と母上の姿が見える。
「おはよう、クラウス」
二人が、同時に声をかけてきた。
「おはようございます、父上、母上」
僕は礼を述べてから席に腰を下ろす。
それと同時に、料理がタイミングよく運ばれてきた。
香ばしく焼かれたベーコン。ふわりと立ちのぼるバターの香り。
その匂いが、少しだけ張りつめていた胸の奥をほぐしてくれる気がした。
……だが、視線を向けた先――
食堂のどこを見渡しても、ネーヴェの姿はなかった。
その瞬間、胸の奥に張りついていた硬いものが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
緊張が解けていくのを感じながら、僕は静かに口を開く。
「父上、ネーヴェさんは……?」
「ああ、ネーヴェ殿なら、朝早くに出かけたぞ」
書簡から目を離さぬまま、父上はあっさりと答えた。
「森の様子を見てくるそうだ」
「……そうですか」
手にしていたスプーンが、ふと空中で止まる。
昨夜からずっと張り詰めていたものが、拍子抜けするように抜け落ちていった。
けれど、それも一時の安堵にすぎない。
ネーヴェがこの屋敷に滞在している限り、緊張の種が消えることはないのだ。
「父上、ネーヴェさんは……どのくらい屋敷に?」
そう問いかけると、父上はようやく書簡から視線を上げ、まっすぐに僕を見た。
「実は、森でスタンピードの兆候があるらしくてな。私はネーヴェ殿に、調査の継続と、万が一の場合の戦力として待機してもらうよう依頼してある。――その件が落ち着くまでは、屋敷に留まってもらうつもりだ」
――そうだった。
スライムスレイヤーのことで頭がいっぱいになっていて、スタンピードの件など、すっかり頭から抜け落ちていた。
僕は自分たちのことばかりで手一杯だった。だが、父上は違う。
さすがは領主――この地を守るために、何が最善かを冷静に見極め、迷わず選択している。
緊急事態の兆候が迫る中、偶然にも街に滞在しているのはSランク冒険者。
その力を頼り、被害を最小限に抑えようとするのは当然の判断だ。
――なのに僕は、昨夜あろうことか「なんてことをしてくれたんだ」と、父上を心の中で責めてしまった。
それは、完全に間違いだった。
スライムスレイヤーという二つ名を持つ彼を滞在させれば、プルメアを危険に晒す。
そう訴えようとしていた自分の浅はかさが、今はただ恥ずかしい。
今さら、そんなことは言えない。……言うべきでもない。
プルメアのことは、僕たちでなんとかするしかない。
スライムスレイヤーにさえバレなければ、それでいい。問題は起きないはずだ。
結局のところ、事の本質は――“森の異変”にある。
それさえ収まれば、ネーヴェがこの屋敷に滞在する理由も消える。
スライムスレイヤーという名を持つ彼も、自然とここを離れていくだろう。
つまり、全てはそこに集約されている。
なら、僕たちがすべきことは――ただ一つ。
森の問題を終わらせる。
それが、プルメアを守るための、唯一にして確かな道だ。
僕はスプーンを静かに置き、椅子を引いた。
父上と母上に一礼し、無言のまま食堂をあとにする。
扉が閉まる音が、妙に長く耳に残った。




