雨上がり水槽〈1〉
ざんざんと、雨が降っていた。
「じゃあな、桃矢」
民家の塀の曲り角で、紫色のジャンプ傘をさして茶色の長靴を履いている少年が、桃矢と呼んだ少年に手を振っていた。背負う黒色のランドセルを傘の露先から滴る雨露で濡らしているのに気付かない少年は、桃矢と挨拶を交わした。
「長治郎くん、ひとりで行くのは危ないと思うよ」
桃矢は心配な顔つきで長治郎に話し掛けた。
「止めるな。守生が学校に来なくなったのは、絶対に“あれ”を見たからだ。クラスの誰一人、守生を気にしていない。同じく、先生もだ。おまえも含めて意気地無しは宛にならないから、おれが守生を助けに行く」
長治郎は桃矢に「あっかんべ」と、目蓋の下を右の人さし指で下げながら舌をべろりと、出した。
「“それ”は、みんなの間で広まった『怖い話』だって、先生が帰りの会で言っていたじゃない」
「うるさいっ! さっさと家に帰ろっ」
強い雨脚が地面を打つ。
長治郎の罵声が勝っている。それでも桃矢は傘の生地に落ちては弾く雨音が耳障りだと思ったーー。
***
明け方から降る雨は夕暮れ時になってもやまなかった。
作蔵は“仕事”の事務所を兼ねた住まいで暇をもて余していた。
やんだかと思えばまた降りだす。たまに晴れれば焦げてしまうのではないかと思える日射が、作蔵にとっては恨めしかった。
家を出たり入ったり。
作蔵は、今日に限ってそんな行動を繰り返していた。
「えぇーいっ! 鬱陶しい」
窓が閉めきられた四畳半に作蔵はいた。
湿り気が混じった熱気と噴き出る汗に対しての感情を、作蔵は堪らず口に出して言う。
「騒がないでよ。喚けば喚くほど暑苦しくなるだけよ」
伊和奈は作蔵の藻掻く様子に気を止めることなく、卓袱台の上に置く算盤を握って珠を指先で弾いていた。
「エアコン、買って」
「お金がない」
「扇風機、回っている途中で止まりますけど」
「根性がないからよ」
「だからといって、叩くのはあんまりでは?」
「扇風機に? あんたに?」
「水風呂に、入らせてください」
「……。浴び放題は駄目だからね」
作蔵は鼻息を粗げに吹く伊和奈に深々とお辞儀をして、浴室へと向かった。
の、途中だった。
「おい。ただでさえ暑いのに、俺んちで走るな」
ーーなんてや? おどんの熱い走りにあたはケチば、つけっとね。
作蔵は知っていた。
今、目の前で火を噴いて、廊下でごろごろと走るのが、月末になると決まって現れては家の中をふてぶてしく走り回る“モノ”だと、作蔵は知っていた。
「悪かったな。おまえの“仕事”は火を回すだったな」
ーー兄ちゃん。おどんは、こン家が気に入った。いつまでも切羽詰まった暮らしをしてはいよ。
作蔵は鼻腔を拡げて、眉を吊り上げた。
作蔵は黙ったまま“モノ”の車輪から噴き上げる炎ごとがっちりと、掴んだ。
ーーなんばすっとねっ!
“モノ”は抵抗した。
「風呂はやっぱり、程好い湯加減で入るが良いに決まっている」
“モノ”は浴室に連れていかれた。作蔵によって浴槽に沈められ、浴室内に湯気が立ち込めると引き揚げられた。
「ばばんば、ばばん。ばん、ばばばんっ!」
作蔵は、上機嫌で風呂に入った。
ーーへっくしょいっ!
浴室内の壁に立て掛けられている木製の車輪と形を変えた“モノ”がくしゃみをすると、天井からぶら下がっていたアルミ製の盥が作蔵の頭のてっぺんに落下したーー。
***
敷金、礼金なし。そして、格安の家賃で住むのは有り難い。
家の改装と修繕は自由にして構わない。と、入居前に大家が言った。
伊和奈は、その意味を今頃になって納得した。
家屋のあちこちが壊れたままだった。
雨戸はおろか、網戸がない。穴が空いた雨樋から溢れる雨水は浸透桝に流れず、地面へと滴る。窓を開けっぱなしにすれば雨露と虫が入り込み、家の中は水浸しだの虫刺され等の為に不快な思いをする。
出納帳に記した今月の収入と支出を引いた残高に、伊和奈は「はあ」と、息を大きく吐いた。
茶箪笥の上に置く目覚まし時計に目を追う。
夕飯の献立は調理が簡単なものでと、決めていた。しかし、暑さで唸る作蔵の為に少し手間暇を掛けた1品を出すことにした。
伊和奈は台所へ行こうと、立て付けの悪い襖を開けようとしていた。
「ぷん」と、耳障りな音が伊和奈の耳元で聞こえた。
「出たわね」
伊和奈は一匹の蚊に目を凝らした。
蚊は四畳半の空間で不規則な飛びかたをしていた。
ーーふんっ! あたいに黙って血を吸われなさい。
黒い体と足に白の斑紋。すなわち、藪蚊のふんぞり返った言い方に頭に来た伊和奈は「ちっ」と、舌打ちをして頬の裏を噛み締めた。
「観念しなさい」
伊和奈は指の関節を鳴らして藪蚊に近づいた。
ーーあんたも『おんな』ならば、わかる筈よ。これから産む卵の為に“人”の血は必要なの。元気な“ボウフラ”をふ化させる、どんな“おんな蚊”でもそう、願っているの。
「問答無用っ!」
伊和奈は躊躇わず、蚊に両手を挟んだーー。
***
雨がやんだ。
閉めきった窓から日が差し込んでいると、作蔵は朱のティーシャツと黒の七分丈ズボンを身に纏い、黄色の襷を肩に掛けた。
「作蔵、その出で立ちで外に行くの?」
伊和奈は作蔵の装いに笑いを堪えていた。
「風呂で頭を打った」と、小声で言う作蔵の頭には手拭いが被せられていて、顎の下で端を縛っていた。
「氷嚢は、その為にだったの」
「まあな」
「待って、わたしも行く」
伊和奈は玄関で一本歯下駄を履こうとしている作蔵を呼び止めた。
「“調査”は俺だけで十分だ」
「閉店時間になる前に、行くの」
「何処にだ?」
「電気屋さん」
伊和奈は作蔵より先に、玄関を出たーー。
***
「では、工事の前日の午後5時から7時の間にご連絡を差し上げます」
「よろしくお願いします」
伊和奈は領収書を店員から受け取りながら、説明を受けた。
「1週間後にエアコンが届くから、それまで暑さを辛抱してね」
心軽やかそうに、伊和奈の顔がほころんでいた。
作蔵は複雑な面持ちだった。
あれほどかたくにエアコンの設置を拒んでいた伊和奈。自身の頭の上に乗せる氷嚢の所為ではないのは確かだ。と、鼻唄混じりで歩く伊和奈を見ながら思った。
「日没したら、見れなくなる」
「ごめん。わたしが電気屋に行きたいと言ったばかりに、せっかく承った“仕事”の段取りを台無しにさせてしまった」
「走るぞ」
「おっけい」
作蔵は腰を落として歩幅を拡げた。
伊和奈は下駄を鳴らす作蔵のあとを追って走る。
路を塞ぐような水溜りを飛び越え損ねて水飛沫を膝から下を濡らす、空を翔ぶ椋鳥の大群より降る粗相が頭の上に被る。
「伊和奈、大丈夫か」と、振り返り様で言う作蔵の姿では説得力なしだと、伊和奈は思った。
「此処なのでしょう?」
伊和奈は作蔵の言うことをはぐらかした。
「ああ」
作蔵は、西の空で雲の隙間から見える陽に目を眩ました。
「雨が上がって、陽が光を放つ間のみに表れる。聞いたことはあったけれど、実際に見たのは初めてだよ」
伊和奈は見る光景に、感嘆したように言う。
「感情にのまれるなっ!」
作蔵は声を粗げにした。
伊和奈はびくっと、背筋を伸ばす。
「さてと」と、作蔵は腰に巻く前掛けのポケットに右手を入れた。
作蔵は右手に握りしめた1枚の折り畳まれた真っ白な和紙を広げて目の前の光景に翳す。そして“術”を口で紡ぎ、掌に“念”を込めた。
作蔵は“複写の術”で目の前の“光景”を撮った。
撮った“光景”は、直ぐには見ることは出来ない。
作蔵は「帰るぞ」と、淡々とした口調で伊和奈を促した。
伊和奈は見た“光景”を振り返りながら作蔵に付いていく。
赤紫で染まる空を見上げると、東から月が昇っていた。再び見た“光景”が消えていくと伊和奈は名残惜しむが、作蔵に追い付こうと駆け足になったーー。
***
綺麗だ。と、作蔵が撮った“光景”が写された和紙を、伊和奈が眺めていた。
「もう、十分だろう」と、作蔵が伊和奈から和紙を取り上げた。
「金魚を飼いたくなった」
「あ、悪いけれどそれは止してくれ」
「本気で言ったのではないよ」
作蔵は「ふ」と、笑みを湛える。
「わたしは、信じない。こんなに綺麗な“光景”が“人”に悪さをしているなんて、思いたくない」
「ああ」
「でも……。」
「“仕事”だ。伊和奈」
「『残す』は、やっぱり駄目なのね」
「そこまでは、今のところ考えてはない。ただし、突き止めた結果次第でそっちの方向になる」
「煙たいけれど、我慢してね」
伊和奈は作蔵の部屋から出た。
窓際の下の、畳の上に置く欠けた陶器の皿の中で、渦巻きの蚊取り線香の先端が赤く焚き付けていた。
作蔵は、時々噎せながら和紙に目を凝らしていた。
雨が上がった、日照の間のみに表れる“光景”が写された和紙を作蔵は只管見た。
「『水槽』とは、小粋だ」
陽の光を浴びて、輝かしている水面。そして、水面の下で多種の魚が群れを成して游ぐ。
作蔵は、自身が撮った“光景”の写しを机の上に置いて、消灯をしたーー。




