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雨上がり水槽〈2〉

 作蔵は、自宅にいた。


 朝から晴れた日で、こんなに涼しいのは久し振りだ。と、開いた窓から吹き込む夏の風を頬いっぱいに受ける心地好さを堪能する作蔵は、自室の畳の上に寝そべっていた。


「作蔵、電話だよ」

 部屋の扉越しで、伊和奈が呼んだ。


「誰からだ」

 作蔵は、機嫌が悪くなった。


「面倒臭がらないでよ」

 伊和奈の声は、かどばってごつごつしていた。


 仕方なく、作蔵は部屋から出る。そして、玄関の土間の近くにある、電話台の上に置かれている受話器を握りしめた。


「お電話かわりました。作蔵です」


 ころりと、態度と声を猫被りした作蔵に、傍にいた伊和奈は顎を突き出して睨んだ。


『お忙しいところにお電話を差し上げて申し訳ありません。わたしは鱒本市立、竹林たけばやし小学校の教諭で、4年3組の担任を務める佐原さはらです』


「学校の先生が、何で?」と、作蔵は伊和奈の鋭い目付きに身を震わせながら、電話の相手に訊ねた。


『……。助けてください』


 ぷつりと、電話は切れた。


「は?」と、作蔵は握りしめる受話器を見つめた。


「何て話しだったの?」

 咳払いをしながら伊和奈は作蔵に訊いた。


「相手はかなり切羽詰まっていた。わかるのは、それだけだ」

 作蔵は、受話器を電話の本体の受話器受けに乗せた。


「通話時間、秒単位だったのに?」

「『秒単位』は、おまえが俺に言いつけたっ!」


「それは、失礼しました」

 伊和奈はつん、と、すました。


「あ、相手から掛けた電話は違うんだっけ?」

「わたしは、そこまでケチじゃないっ!」


 作蔵は身体を右へと傾かせて、伊和奈が振り上げる拳を躱した。


「伊和奈」

「何? 作蔵」


「いってらっしゃい」

 作蔵はひらひらと右手を振り、電話での通話中に記録した内容のメモ用紙を伊和奈に渡したーー。



 ***



 伊和奈が赴いた先は小学校だった。


 作蔵が(雑な字で)記した〔助けてください〕と〔鱒本市立 竹林小学校 4年3組 担任、佐原先生〕のメモ用紙を手掛かりに、伊和奈は日傘をさして小学校に赴いた。


 ーーわたしが何で?


 ーー相手は女性だ。


 伊和奈はじわじわと陽射しが強くなる、田園が広がる路を歩いている途中で、出掛ける前に作蔵が言ったことを何度も思い返していた。


 肩に掛ける手提げ袋の取っ手がずれては掛けなおす。道端に転がる空き缶を踏みつけて足をとられそうだったが躱すをしながら、伊和奈は作蔵の言い分を思い返した。


 思い詰めている“相手”を刺激する言い方はしたくない。ましてや女性だということで、女同士ならば“相手”も僅かだろうが心を柔らかくする筈だ。と、いうことらしい。


「わたしだって、口下手なのに」

 伊和奈は独り言を突いた。


 伊和奈は小学校の正門を潜り、通り抜けた。

 体育館では体育の授業が行われているらしく、通り過ぎようとする伊和奈が耳を澄ますと、床にボールが跳ねる音と笛が吹かれる音が入り交じって聞こえた。


「ごめんください『じゃがいも』の伊和奈です」

 伊和奈は学校の正面玄関口に入って直ぐにある〔受付〕と表示されている窓口で、台の上に置いてある呼鈴を鳴らした。


「何?」

 伊和奈が睨みながらこっちを見ていた。


『じゃがいも』は何の意味かな? と思ったから。


「“仕事”での『暗号』みたいなものよ。関係ない人を“仕事”で巻き込まない“術”とも言えるかしら」


 なるほど。


「はいはい。どのようなご用件でしょうか」

 小窓が開かれ、顔がごつごつとしている筋肉質の男性職員が伊和奈に訊ねた。


「こちらに佐原先生がいらっしゃいますよね。先程お電話をいただいたのはいいのですが、直接お顔を見てお話しをお聞きした方が良いと思いまして、参りました」

「佐原先生ですか? 今は四時間目の授業中ですのでーー」


 きんこんかん。と、チャイムが校内に鳴り響いた。


「……。給食の時間が終わってからでは駄目ですか」

 男性職員は、恐る恐る伊和奈に言った。


「お昼ご飯は持ってきてるわ。先生とお話しをさせてっ!」

 伊和奈は眉を吊り上げた。



 ***



 男性職員は応接室に伊和奈を案内した。


 伊和奈は長椅子に腰を下ろすと、持ってきた風呂敷包みをテーブルの上に置いて、解いた。


「お待たせしました」


 伊和奈が弁当箱に詰まっているおにぎりを掴んで、口の中へと頬張るところだった。


 “相手”が応接室に入ってきた。

 “相手”は『給食』が乗っているお盆を抱えていた。


 伊和奈は“相手”の足元を見て妙だと思った。


 応接室の、空調設備が作動している閉めきった南向きの窓からは、陽の光が射し込んでいた。

 壁際に置いてある棚、今腰掛けている長椅子と硝子のテーブル板、天井からぶら下がっている、灯されていない蛍光灯。


 うっすらと、暗い室内であったが陽射しを浴びた学校の設置の品は床に天井にと、影をかたどらせていた。


「すみませんね。せっかくの『給食』の時間なのに」

 もぐもぐと、伊和奈はおにぎりを食べ終わり、指先にくっついていたご飯粒まで口に含むと何度もお辞儀をした。


「こちらこそ、ごめんなさい。あ、よかったらこちらも召し上がってください」


 “相手”は豆腐とワカメのすまし汁が入っている器を伊和奈へと差し出した。


「気にしないで、先生が食べてください」

 伊和奈は喉をならしながら、断った。


「あなたがわざわざ、こちらに来られた。それだけでも心苦しいです」


 “相手”は箸を持ったまま、一向に食事を摂るをしない。


 一方、伊和奈は水筒の飲み口に口をつけながらぼんやりと考え事をしていた。


 “人”が依頼した。今回の“仕事”で重点的に調べているのは“光景”だ。


 作蔵が段取りをしているので、口をはさむは出来ない。勿論、反対意見も言えない。

 “仕事”の依頼は、何か大掛かりなものがあると伊和奈でも解っていた。


 しかし、心が揺れてしまった。


 実際に見た“光景”は美しい。と、感情を膨らませた。感情を作蔵の前で言って怒られたのは、まだ記憶に新しい。


 伊和奈は考え事を止めた。

 今は相談として“相手”から承ったことについて、直接聴くをしなければならない。


「先生は、先程お電話で『助けてください』と、おっしゃった。お辛いでしょうが、お気持ちをお話しされてください」

 伊和奈は話し方を慎重にさせて“相手”に訊いた。


「“雨上がり水槽”と、いうのはご存じですか」


 もう一口と水筒の中身を飲もうしていた伊和奈は「ぐほっ」と、口からほうじ茶を吹き出した。


「え。まあ、聞いたことはあります。ただし『迷信』か『真実』のどちらか。はっきりとしたことまではわかりませんね」

 伊和奈は濡れた口元と膝を拭おうと、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。


「わたしが信じていれば、長治郎くんまで学校に来なくなってしまうのはなかったのではないかと……。」


 “相手”は目から涙をぽろぽろと、溢していた。


「本当に、お辛いお気持ちでしたね。でも、もう安心をされてください」と、伊和奈はハンカチを“相手”に差し出した。


「ごめんなさい」

「謝らないでください。あ、これはけして強請ではないのですが、うちの“仕事”として正式に承ります」


 伊和奈は腰に着ける巾着袋の綴じ口を開くと、右手を中へと入れた。


「これは?」

 “相手”は、伊和奈が見せる木製で筒型の容器に目を凝らした。


「あなたの『詰めた“困った”』を詰めるだけでおっけいよ」

 伊和奈は“相手”が握りしめているハンカチに指をさした。


 “相手”は頷いた。


 伊和奈は容器の蓋を開いて“相手”が丁寧に折り畳んだハンカチを筒の中に入れる瞬間を見届けた。


「ありがとう、先生」

 伊和奈は容器の蓋を閉めた。


「あの。今さらですが、あなたを何とお呼びしたらいいのでしょうか?」

「あはは、うっかりしていた。わたしは伊和奈よ」


「伊和奈さん。くれぐれも“雨上がり水槽”に心を奪われないでください」

「はい」


「わたしは代償として“器”を持っていかれてしまいました。こうして“芯”でとどまっているのは、もう長くはありません」


 伊和奈はぴくりと、身体を震わせた。


「決めつけるには早いよ。いや、踏ん張ることを止めたら駄目よ」

 伊和奈は長椅子から腰を上げて“相手”へと歩み寄った。


 “相手”の腕を掴む。ところがーー。


「“人”のぬくもり、陽の光がすり抜けてしまう。あなたは、絶対に味あわないで」

「安心して。わたしはみっちりと味わったけれど、助けてくれた人が今でも傍にいる。あなたに、先生にもちゃんといる」


「わからないわ」

「今、あなたがいる場所はどんな場所? ほら、聞こえるでしょう。笑い声が、靴が鳴る音が、水道の蛇口をひねって、喉をならしながら水を飲んでいる音が、色んな音がたくさん聞こえている」


「五時間目の授業の準備があるので、失礼します」


 “相手”の姿が霧状に変わり、応接室の閉まる扉の隙間をすり抜けていった。


「作蔵に、こっぴどく叱られるかもね」


 伊和奈は息を大きく吐くと“相手”を掴み損ねた右手を、結んでは開いてを何度もしたーー。

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