異世界労働、始めました②
時刻を確認すると、まだ7時を少し過ぎた程度。朝練のあるわけでもない瑞晴が起きるにしては、いささか早いように感じられる時間である。
「あー、おはよう神前くん」
目ぼったい瞼を擦りながら、瑞晴がおもむろに部屋の扉を開く。どうやら朝は弱いらしい。いつもの制服を着ているときのピンとした表情とは裏腹に、随分とゆるい顔をしている。それでも顔を合わせる前に洗面所へ向かったのは、せめてもの女子力の表れだろう。
「おはよう。早いんだな」
「……なんか、遅くまで寝てると、人生損した気分にならない?」
「……確かに」
その言葉を聞いて、瞑鬼は以前までの自分の休日の様子を思い出す。
起きるのは大体10時過ぎ。それから朝飯とも昼飯ともつかぬ間食を取り、お昼からはひたすら家に帰らない。
思い返すと、この時間はかなり無駄だったのではないか。そんな疑問が瞑鬼に芽生える。失っていたはずの時間を使えば、他のこともできただろう。バンドだとか、スポーツだとか。
「あ、神前くん朝ごはん食べた?まだだったら作ろうか?」
陽一郎の分の湯のみで茶を飲むと、瑞晴は立ち上がりそう言った。休日は原則自炊の桜家だが、どうやら瑞晴はあまりそんなこと気にしてないらしい。
どこからか漂う、何とも言えない家族の雰囲気。恐らく、ごく一般的な家庭ならこうなのだろう。
例え片親だろうが、再婚だろうが、こうして朝から仲良くするのが家族なのである。それなのに、今までの瞑鬼ときたら、団欒などという言葉を、幻想の中だけだと思っていた。
「いや、せっかくだけどまた今度で。もう食べたし」
朝から張り切って包丁を握る瑞晴に、後ろから伝言を投げる瞑鬼。了承の返事が来たことを確認し、自室に戻る。
瞑鬼に与えられたのは、桜家二階の奥にある一室だった。元々陽一郎は子供は何としても二人欲しい派の人間だったらしい。外見に似合わぬ子煩悩さに、思わず聞いた時は耳を疑ったほどだ。
しかし、二人目を創る前に母親行方不明になり、そのまま部屋は物置と化していたのだ。
誰にも使われたことのない部屋は、埃をかぶって主人を待っていた。
軋む階段を上がり、部屋の扉を開ける。まだ家具と呼べるものはほとんどない簡素な部屋。昨日の夜に、陽一郎が運んで来たベッドだけがポツンと窓際に置かれている。本来の瞑鬼の部屋ならば、なるべくリビングに降りなくてもいい様に冷蔵庫などが完備されていた。だが、流石に初日でそこまで求めるのは我儘過ぎるだろう。
大通りに面した窓を開き、しばしの間道行く人を黙って見下ろす。特に変化は見られない、至って普通の景色だ。気を抜いたらここが異世界であることなんて、ふっと忘れてしまえるくらいに、この世界は変わっていなかった。
魔法回路の存在や、魔王と呼ばれるテロリストがいるというのも事実。しかし、それ以上に、何もない。ただ柔らかな日常だけが今の瞑鬼を満たしている。
恐らく、これが瞑鬼の読んだ小説などならば、今頃異世界へ行った人物は王女様と魔王討伐に向けて何かと準備をしているのだろう。
けれどこれでいい。これでいいのだ。瞑鬼にあるのはどうしようもなく虚しい魔法としょうもない知識だけ。とても世界を制覇できるようなものではない。かのイスカンダルですら、大軍を持って世界制覇を成し得なかったのだ。ただの一介の高校生に、そんな大それた目標を掲げられるはずがない。
改めて自分の目標を確認し、瞑鬼は重たい腰を上げる。もう時計の針は8時の目の前まで迫っていた。これ以上休憩していたら、陽一郎の口から雷様が出てくる可能性がある。
「今日も1日、日常でありますように」
誰ともなくそう呟くと、瞑鬼はドアノブに手をかける。