十月五日
東京、静岡に続き、ここ愛知でも、秋の夜空に桜が咲き誇った。割れんばかりの歓声と共に満面の笑みを称えた桜の花びらとは、ブレイブ・ブロッサムズと同じユニフォームに身を包んだファンたちのことである。
ラグビー日本代表は開幕戦のロシアに勝利して、強豪アイルランドを打ち破り、今宵行われたサモア戦に勝利しても未だ予選通過を決められずにいた。しかも残る相手は前回大会で敗退に追い込まれたスコットランドだ。
だから大会組織委員会の現場部門でチーフを務める小野寺孝志も油断することなく、次の一戦が重要だと気を引き締めながら、誰もいなくなった豊田スタジアムのスタンド席で一日を振り返っていたのだった。
「チーフ」
そこへ声を掛けてきたのは部下の木元祐介だ。
「撤収までもう少し時間が掛かるみたいなんで、先に一杯どうですか?」
差し出されたのは大好物のビールだ。四十を過ぎた頃から妻に飲み過ぎを注意されるようになった小野寺だが、ワールドワイドパートナーでもあるので、それを大義名分にしてありがたく受け取るのだった。
「サンキュー」
木元は三十手前の年齢で、今もアマチュアでラグビーを続けているのでスリムな体型をキープしている。ポジションは十一番のウイングなので、速い足が自慢の爽やかな男だ。
「座ってないんだろ? 掛けたらどうだ」
そう言う小野寺も腰を落ち着けたのは十二時間振りだった。
「失礼します」
「三連勝に乾杯」
「乾杯」
と言いつつコップを傾けるも、二人とも四年前の悔しさを知っているので喜びの美酒とはならなかった。
「なんとか勝ってもらわないとな」
「四トライ目のボーナスポイントは大きかったですね」
サモアからBPを獲得したことで、スコットランド戦は引き分け、または負けても条件付きでグループリーグを突破できることとなった。
「それでも七点差はあってないようなものだ」
「格上相手に引き分け狙いなんてできませんからね」
「よりによって相手がな」
「はい。レイドローがいますから」
スコットランド代表の主将を務めるグレイグ・レイドローは現役最高のキッカーの一人である。
「日程によるアドバンテージもなさそうだぞ」
「先発を入れ替えてくるでしょうからね」
日本代表は中七日で、スコットランドは中三日で戦わなければならないが、主力を休ませて、控えメンバーで先発を組むターンオーバーを用いるのではないかと予想されている。
「こんなこと選手の前では言えませんが、どうしても僕は日本が反則をして、その度にレイドローにペナルティーキックを決められるような、そんな想像しかできないんですよね」
木元の言葉に小野寺は反論せず、ビールの苦みを噛み締めるのだった。
「どうせならこの前の台風も、来週の日曜日に来てくれたら良かったんですけど。そうすればキックの精度も落ちるでしょうからね」
小野寺が窘める。
「まだ千葉では復旧の見通しが立っていない地域があるそうだ」
「あっ、すいません」
「台風と地震だけは勘弁願いたい」
「はい。残り一か月を切りましたからね」
そこで小野寺がビールを豪快に飲み干す。
「明後日は久し振りの休みだ」
「何日振りですか?」
「なんだかんだで一か月は休んでないな」
「ブラックですよね」
「選手の合宿に比べたら大したことないさ」
「はぁ、そうですね」
と言いつつ、ビールを飲む。木元も冷えているうちに飲み干すタイプだ。
「それに明日はオールブラックスとナミビアの試合がある。それを仕事で観戦できるんだから、文句を言ったらバチが当たっちまうよ」
「そのせいか、急に連絡を入れてくる昔の知り合いが増えて困ってますけどね」
小野寺が微笑んで同意しつつ、次の瞬間には真剣な眼差しを部下に向けるのだった。
「俺たちは、人が羨む仕事をしているということを、決して忘れてはいけない。ラグビー・ワールドカップの母国開催、その中心で仕事をさせてもらっているんだ。それは俺たちが優秀だったからというわけではないんだからな」
こういう時、余計な口を挟まないのが木元だ。
「日本ラグビーには百五十年近くの歴史があって、協会発足後、多くの先人たちによって受け継がれてきたんだ。苦しい経験や、悔しい思いをしてきた人たちがいて、やっとの思いでW杯の招致に成功したんだ」
九回目にして初のアジア開催が実現した。
「ラグビーファンは今だけを楽しめばいい。でも、俺たちはダメだ。たまたまタイミング良く時代に居合わせることができただけなんだからな。この瞬間に辿り着くには、これまでラグビーに関わってきた全ての人たちの力が必要だったんだ」
そこで小野寺がグラウンドを見つめる。
「森元首相を始め、真下さんや徳増さんなど、名前を挙げればキリがないが、ラグビー関係者の誰か一人でも欠けていれば実現することはできなかった。今日まで約二十年だぞ?」
次に天を見上げる。
「母国開催のスタジアムに立つ日本代表の雄姿を見たくても見られなかった人が大勢いたはずだ。だから先輩たちに心から敬意を払おう。そして、後輩らに同じ思いを引き継ぐんだ。それがラグビーだからな」




