後編
次の日、私は隙を見て勇者のもとから逃げ出した。
勇者から奴隷の扱いを受けることに、これ以上耐えられなかった。
一目散に路地裏を駆け抜け、入り組んだ道をあてもなく走り回った。
走って走って走って、足が悲鳴をあげても、少しでも勇者から離れたくて足を動かし続けた。
しばらく走り続けて、さすがに限界がきて、へたりこんだ。
……のどが渇いた。
どこへ行けばいいのか、この先どうすればいいのか、分からない。
このまま野垂れ死んでしまうかもしれない。
それでもいい。勇者の手にかかって殺されてしまうよりは、その方が、よほど。
「お嬢ちゃん、大丈夫かね?」
不意に声をかけられた。顔をあげると、そこには一人の老人が立っていた。
私は疲労のあまり、ろくに返事すらできなかった。
しかし老人は私の様子から何かを感じ取ったのか、優しい声音で私の手をとって言った。
「何か事情があるようじゃの。……ついておいで。大したものはないが、飯をふるまうことぐらいはできる」
私は一軒の民家に招き入れられ、水と食事を与えてもらった。
「何かつらいことがあったのかい?」
おじいさんは優しく尋ねるが、私はただうつむくだけで、何も言葉を返すことができなかった。
勇者はこの町で英雄として名声を馳せているようだ。一方で、私のお父さんは、魔王として忌み嫌われている。私が魔王の娘だと知れたら、このおじいさんの優しい態度も豹変してしまうかもしれない。
「これから行くあてはあるのかね?」
この問いに対して私はふるふると首を振って答えた。
おじいさんは「うーん」と唸って何かを考え込んでから口をひらいた。
「職を世話してくれる人を紹介してあげよう。しばらくここで待っておいで」
感謝の気持ちと共に、後ろめたさも感じた。魔王と呼ばれる人物の娘であることを隠していることで、この親切な老人をだましているような気持になった。
何も言えなくて、私はただただ頭を下げることしかできなかった。
優しい微笑みを残して、おじいさんは部屋を出て行った。
しばらくして、おじいさんは大柄の男を連れて戻ってきた。
「おう、この嬢ちゃんかい?」
男は、私を見るなり、そう言った。衣服を通しても屈強な体躯をしているのがわかった。
「ほう……」
男は自らのひげの蓄えられた顎に手をあてながら、私をまじまじと見つめ、目を細めた。
「こいつはべっぴんだな! 名前は?」
「……リオルカ、です」
「俺はサムソンだ! よろしくな!!」
がはは、とサムソンは豪快な笑い声をあげた。
「じゃあ、さっそく仕事場に案内しよう。表に馬車を停めてあるから、一緒に来てくれ」
私はおじいさんにお礼を言ってサムソンについて行った。
「そういえば、お仕事の内容をまだ聞いてないんですが……」
馬車に乗り込んでサムソンに尋ねる。
サムソンはにやりと笑って、突然、私の口鼻を何かの布で覆った。
「な、何を……」
私の驚きの声は「もごもご」というくぐもった音にしかならなかった。
布には何かの薬品が染みこんでいたようだ。ツンとした香りが鼻腔を刺す。
私は咳き込みながら、何とか逃げ出そうとしたのだが、思うように体が動かない。
そして私の意識は混濁し、目の前が真っ暗になっていった。
* * *
「見ろよ、この角」
「おお……本物の魔族か……!?」
「すげぇ、初めて見た」
誰かの話し声が聞こえて、目を覚ました。
薄く目を開けると、私を覗きこむ男たちが視界に入った。
私はぼうっとする頭で、ここがどこなのか、何が起こったのかを必死に考えていた。
窓のない部屋。倉庫か何かだろうか。左右には木箱が雑然と積み上げられ、そう広くもない部屋をいっそう圧迫していた。
その狭い空間に、私を取り囲むようにして四人の男が立っていた。
私はぞんざいに床に寝転がされていて、床の冷たさに足先まで冷え切ってしまっていた。手を動かそうとして、自由がきかないことに気づく。後ろ手にロープで縛られているのだ。
「目を覚ましたようだな」
四人の内の一人、見覚えのある顔が、にやりと笑みを浮かべた。サムソンだ。
「まさか本物の魔族がこんなところをウロウロしているとはな」
サムソンはそう言って屈み込むと、私の頭に生えている黒い角に触れた。
「しかもこんな上物がなぁ」
「こいつは高く売れるぜ」
男たちは顔を見合わせて高笑いをあげた。
そこで私はようやく自分の置かれた状況を理解した。
――つまり、私は騙されたのだ。
あの親切なおじいさんも、グルだったのだろうか。
私はこれから誰かに売り渡され、そして……どうなるのだろう?
自分を待ち受ける運命について想像して、ぞっとした。
ほんの数日前まで私は幸せに穏やかに暮らしていたのに。
なんでこんなことになったのだろう。
「ところで、魔族の女ってのは、人間の女とどう違うんだろうなあ?」
「さあなぁ……。売り渡す前に、『点検』しておいた方がいいんじゃないか?」
「だよなあ」
男たちが下卑た笑いをもらし、ねっとりとした視線を私に向けた。
悪寒が走る。
何か逃げ道はないか、必死で考えた。
しかし手足の自由を奪われ、四人もの屈強な男たちに囲まれ、私に何ができるだろう。
動けないままでいると、サムソンが腕をのばし、その無骨な手が私の肩に触れた。
「触るな!!」
睨み付け、そう叫ぶことが精いっぱいの抵抗だった。
しかし、私の叫びはむしろ男たちを刺激したようだ。サムソン以外の三人も私に近づき、手を伸ばしてきた。
低い笑いをもらしながら、私の着ている洋服の中に手を滑り込ませようとする。
その時だった。
大きな音を立てて、扉が開いた。同時に、誰かが無言のまま、室内に足を踏み入れてきた。逆光になって姿がよく見えない。
突然の乱入者に、男たちは色めきだった。
「誰だ!?」
男たちの一人が誰何の声をあげたのと同時に、乱入者はその男の頭をつかむと、一気に床に叩きつけた。
薄い床板は衝撃で突き破られ、男は頭を床にめり込ませた状態で、ひくひくと痙攣していた。
「お前は……」
「勇者……か!?」
残った男たちが驚きの声をあげる。
驚いたのは、私も同様だ。
いつも他人を見下しているような、ふてぶてしい笑み。あの憎たらしい顔を忘れるわけがない。
乱入者の正体は、勇者だった。
なぜ、勇者がこんなところに――?
勇者は無言のまま、一瞬のうちに男たちの一人と距離をつめ、そのみぞおちに鋭い蹴りをくらわせる。男はあわてて防御の姿勢をとったが、勇者の蹴りの衝撃に耐え切れず、積み上げられた木箱に背中から叩きつけられて、動かなくなってしまった。
「この野郎!!」
別の男が、怒りの声をあげながら猛然と勇者に殴りかかった。太い腕がうなりを上げて襲いかかる。しかし、勇者は素早く身をひねって難なくその攻撃をかわした。そこから一気に、前傾姿勢になった男の後頭部に肘鉄を喰らわせる。男は床に倒れ込んだ。
こうして、あっという間に三人の男たちは勇者にやられてしまった。
「てめぇ……突然、何をしやがるんだ」
残されたサムソンが、勇者と対峙する。
戦闘の構えをとるサムソンに対して、勇者は悠然と片手を腰にあて、もう片手で私を指さして言った。
「それは俺様の所有物だからな」
徹頭徹尾、笑顔は崩さない。
「人のものに手を出したら……何をされても文句は言えないよなあ?」
勇者は笑顔だ。だけど……もしかして、怒っているのだろうか?
なぜだかそう感じた。
サムソンは勇者の隙を伺うが、なかなか攻撃のタイミングが掴めないようだった。
「そっちから来ないなら、こっちから行くけど?」
「う……うおおおおおお!!」
勇者の余裕しゃくしゃくといった態度に、サムソンは覚悟を決めたのか、雄たけびを上げながら飛びかかった。
サムソンが勇者に触れた、その瞬間。
勇者はサムソンの衣服をつかみ、投げ飛ばした。サムソンの巨体が宙を舞い、綺麗な半円を描いて、周囲に置かれた木箱を巻き込みながら床に打ち付けられた。
サムソンも、仲間の三人の男たちも、それぞれ勇者の一撃であっけなく意識を失ってしまったのだった。
「手ごたえなさすぎ」
勇者は独り言を言ってから、横たわる男たちの体を避けつつ、私の方に近づいてきた。
短剣を取り出して、私を縛っていたロープを切る。
かたく縛られていたせいで手は痺れており、感覚がなかった。勇者に助けられて身を起こす。
「外傷はないようだな」
「……お前が私を街へ連れ出した理由がわかったぞ。私を売り飛ばすためだったんだな」
そうだ。だから、昨日勇者は私を殺さなかったのだ。
髪を切られてしまったことは、確かに屈辱だ。
しかし、自分の命を狙った暗殺者に対する報復としては、あまりにも軽すぎる。
なぜ勇者は私の命を奪わなかったのか。あるいは、鞭で打つことすらしなかったのか。
その理由が、今わかった。
勇者もあの男たちと同じ。私を誰かに高額で売りつけるつもりだった。だから勇者は商品に傷をつけたくなかったのだ。
だが勇者は、鼻で笑って私の言葉を否定した。
「俺は欲が深いからな。一度自分のものにしたものは早々手放したりしない」
「……では、何故私を殺さなかった? 私は今でも、お前に復讐する機会を狙っているんだぞ」
「俺様が、お前ごときにやられるわけないからなー」
……確かに。
私は床に倒れ伏している四人の男たちに視線を落とした。
みな一様に筋骨たくましい巨漢ばかりで、勇者などより何倍も強そうだ。そんな男たちを、赤子の手をひねるように勇者はあっという間に倒してしまった。
恐るべき戦闘能力だ。私など、敵うはずもない。
「それにしても……どうしてここが?」
尋ねると、勇者は私の頬をその手で包んで答えた。
「ペットの居場所くらい、飼い主は把握しているものだ」
言うに事欠いて私のことをペット扱いだ。
おまけに汚らわしい手で私の顔に触れるなんて。
ただ、床に寝ころんでいたせいで冷え切った体には、その勇者の手から伝わるぬくもりが心地よいことも事実だった。
勇者のことは嫌いだし、殺したいほど憎らしいことには変わりはない。
けれど、その手の暖かさに、勇者に対して今まで感じたことのない気持ちが芽生えつつあることを私は感じていた。