思惑1
灰白頭のまだ幼さの残る主を学園へと送り出した白猫は、アスィール主教の執務室へと向かう。
勝手したる執務室の窓からスルリと中へ侵入すれば、目的の麗人は執務机に山となった書類と格闘していた。センターテーブルに手付かずの食事があることから、朝食を取らずに書類仕事をしているようだ。
「アスィール……朝ご飯くらいちゃんと食べにゃよー」
『あら、白猫もたまには、まともな事を言うのねー』
ソファに寛ぐグレーの猫が、毛繕いをしながら念話を飛ばす。
「ぉはよー、キヌ」
白猫が挨拶をすると、書類を手にしたアスィールがセンターテーブルへと移動し、すっかり冷めた茶でパンを一切れ流し込み、再び書類に目を戻した。
どうやらそれで朝食を終えたつもりらしい。
『お行儀が悪いわ、アスィール』
「……後でちゃんと頂きますよ」
白猫がテーブルに置かれた書類を横から一読する。
「アルカ……ルトの様子はどうですか?」
「ちょっとダルそうだけど、体調は問題なさそーだよ」
「そうですか……まあ、竜禍の浄化は初めての経験ですからね」
礼拝の時から様子を伺っていただろうに、この保護者は存外に心配性だ。とはいえ、竜禍の浄化は、病を癒すのとは違い桁外れに術者の消耗が激しい。
ティタに戻って来てからも、疲労感の抜けないルトを心配しての事だった。
「なんで今回、まだ見習いのルトちゃんが派遣されたの?」
「あの子の実力なら問題ありませんし、ルトも来年は成人ですからね。早いうちに経験させておく事にしたのです」
「竜禍の浄化は2級神官以上のお仕事だってこと、アルカはちゃんと知ってるよ」
そう、本来ならば神官でさえない、まだ見習いであるルトが行く仕事ではない。
やっかいだと云わんばかりに吐息をもらすアスィールは、仕方ないと手にしていた書類を置いてアルカと向き合う。
「……第2位階への昇級には、神官として3年以上の従事と主教の推薦が必要です」
「ルトちゃんはまだ見習いだよね」
「ええ、ルトはまだ学生ですから、学業を本分とさせる為に私が見習い扱いとしました」
勿論、それだけが理由ではない。
アスィールがルトを引き取る事で、少年から神官職以外の道を閉ざしてしまった。せめて成人するまでは、外の世界の事を学ばせようという親心であろう。
――では何故ルトを派遣したのか?
「……成人の儀を終えれば、ルトは正式に本神官として叙階されます」
であったとしても、まずは下位の神官職を命じられ、徐々に昇級するのが規定である。竜禍の浄化へ赴くのは、既定の位へ昇級してからだ。
「下級神官にってことだよね?」
「いえ、ルトは見習いとはいえ5年をティタで従事していますから、上位神官の第4位階職を按手されるでしょう」
いきなり上位神官職を叙階されることは勿論の事、第7位階からはじまる職位をすっとばしての第4位階職の叙階は異例中の異例である。
「……それって」
『ええ、異例も異例。あの坊やの潜在能力の高さがあればこそね』
「それだけではありません」
アスィールが語るのは憶測である。しかし、高い確率で実際にそうなるであろう推測でもある。
「ルトの加護の強さから3年を待たずして第2位階が叙階されます。もしくは、特例として第2位階前に竜禍の浄化を主として従事する役職がつくかもしれません」
竜禍の浄化は神官の最優先職務といって良い。
高い浄化能力が確認されたルトが、それを命じられる可能性は大きい。実際に加護の強いアスィールは、竜禍が確認される度に各地へと派遣され忙しい身の上だ。
「ルトちゃんの能力の高さを確認する為に、今回の件を命じられたってこと?」
「……今回の件を命じたのは、私の独断ですよ」
しかし、今回の件で実績を作った事が後押しとなり、その推測は現実になりつつある。
アスィールは「今回の件が聖座に漏れれば、私は罰せられるでしょう」と静かに笑んだ。
「じゃあ、何故?」
「ルトが第2位階を叙階され、竜禍の浄化に派遣される頃。私は彼の傍にはいないかもしれません」
「っ!……ア、アスィール死んじゃうの?」
白猫は思わずアスィールの袖口にすがる様に爪を立てた。
『こら馬鹿猫……不吉な事をいうんじゃないわよ』
「ふふふっ。アルカが私を心配してくれるのは珍しいですね」
「……だって、アスィールは殺してもしなな」
言い終えるより先に、冷気を帯びた視線を感じ、両手で口を押さえる。
「生き別れるという意味ではありませんよ。ただ……他から色々とお呼びが掛かっていましてね」
「アスィールが当世の聖座から眷顧されてるのは知ってる」
この主教様は若いながらも次期聖座との呼び声が高く、ルルド神殿だけでなく方々の神殿から引き抜きの噂が絶えない。
「いえ……そうではないのですが……まあ良いでしょう。兎に角、竜禍の浄化は初めて対峙する時が最も危険で、最も失敗しやすい」
どうやらアスィールは、自身が傍にいてフォローできる間に、サクッとルトに初体験をさせるつもりだったようである。それを裏付ける証言がキヌからもたらされた。
『あの坊やの護衛は、主様の古い知人からの紹介よ。しかも、この主はいつでも向かえるように、鷲獅子を待機させて一晩中起きてたわ』
――――自分で向かう気だったのか?
アルカが呆れる視線を向けた。
確かに、ティタ神殿でも騎士団長と互角に戦えるのはアスィールくらいである。
神殿からの護衛が少なかったのは、上にバレた時に神殿騎士が処罰を受けないようにとの配慮であろう。とはいえ、神殿騎士を全く就けない訳にはいかず、ジルベールが選ばれたのは他に思惑があっての事だと予想できた。
一連の件にアルカは納得すると、トンっと置かれた書類を指す。「……じゃあ、これは?」との白猫の問いに、アスィールが書類を一瞥した。
「―――あの一件は、野犬から広まった感染症として処理されました。
ただし、治癒は間に合わず、村は壊滅。その際、運よく麓の村へ逃げ伸びた3人の子供は、軽い症状であり、後から駆け付けた神官によって一命を取り留めました。助かった子供達は心的外傷がある為、神殿の治癒院で様子を見ながら保護する事が決定しました」
神殿の治癒院は、主に終末期の患者が痛みを軽減させる目的で多く滞在していた。また、数は多くないが、加護で癒しきれない四肢を損失した者たちがリハビリをしたり、魔素中毒で精神異常をきたした者も保護されている。
「サナンさんは?」
「……彼は、あの山村へは行っていません」
「……?」
「彼は、山村へ向かう途中に狂獣に襲われ、途中の村で傷を癒していました」
暫くはベルンテイトの南街の治療院がその身を預かり養生するらしい、つまりは監視が付くという事だ。
「ふーん、まあ…お子様達と違って、監視されても記憶を消される訳ぢゃないにゃねー」
「アルカ……滅多なことは。神殿でその様な事は行われていませんよ」
『……と、いう事になっているわね』
心の傷を癒すには、忘却してしまった方が良い事もある。
神殿の奥では、専門に訓練を受けた者が、心の傷ごとその記憶に鍵を掛ける暗示を施す。ただし、それを知っているのは、ごく一部の関係者のみだ。
「悪い事ぢゃないと思うよー。まあ、良い事でもないけどね」
『人種なんて、未熟な心と魂を持った、可哀そうな生き物よね』
「……そういや、その消した記憶って蘇る事もあるの?」
白猫がコテンっと首を傾いで訪ねる。
「記憶を消すわけではありませんよ―――ただ、心の奥底へ納めるだけです」
「それじゃ……思い出す事も?」
「ええ、あり得ます。ですが時間が経つ事で心が成熟し、辛い経験も克服しやすくなっているでしょう」
時と云う薬が、過去の傷を乗り越える力を育てるだろう。
その時にはなかった経験と新たな絆が、その手助けとなるだろう。
―――そうであれば良いなと、白猫は切に願うのだった。




