薄紅
つい先程まで共に過ごしていた仲間は、立ったままの四方から伸びた鎖によって絡め取られていた。魔術によって作られた鎖は、男の足を地に縫い付け、腕は上体ごと鎖に巻かれている。その唇から漏れ出る呻き声は、もはや意味をなしてはいない。
「……そろそろ限界かもな」
男にも魔術の心得があった為、幾度となくその鎖を破壊しその度に鎖で捕えなければならなかった。しかも、男は自身の身が傷つこうとお構いなしにその身ごと鎖を壊す。
対する半魔の男は、なるべく相手を傷付けないように気を使い捕縛しなければならないのだ。その苦労を慮って欲しい。
許された時間はもう僅か。日は傾き、不気味な静寂の中にある森にも夜が訪れようとしていた。
「………すまんな」
謝罪と共に大太刀を構えた。
男の身体を這う黒い靄は、日の傾きに比例して勢いを増している。
これ以上放置すれば、自身がこの場から去る事さえ難しくなるだろう。
「……うっ……キ……クどの…」
「……まだ意識が?」
竜禍に浸食されながらも、まだ自己を保っていた事に驚くが、助ける術がない今、できる事はひとつだけだった。
「……斬って…くだ…い…」
「……………ああ」
これが最後であろう会話を交わした直後、竜禍の意識が大きくなったのであろう。「…コロス…コロス」という呟きに変わり、その瞳に見えた理性はどこかへ霧散していた。
せめてひと思いに逝かせてやろう。
柄巻を握る手にギュっと力が入る。下肢は地を踏ん張り、大太刀を振り下ろす……刹那、リーンという涼やかな鈴の音が一太刀を踏み止まらせた。
「にーさーんっ……お・ま・た・せ♪」
「……おせーよ」
「そこは『ハニー♪俺も今来た所だよ』でしょー」
白猫が橙の鈴石をその首に提げてやって来た。
「…何の小芝居だ?」
「おっ?ジルまだ生きてるねー」
軽い調子で「良かった良かった」とうなずく白猫。
実際は、まさに直前、この世を去ろうとしていた所だったのだが…。
少し遅れて、白猫の後方から、荒い息でこちらへやってくる灰白頭が見えた。
「……やっと来たか。で、首尾はどうだ?」
「ばっちりにゃー」
「す、すみません……き、キファークさん。はあ、ふー、はー。遅くなりました」
少年は膝に両手をついて、肩で息をする。
キファークはルト少年が抱えていたモノを受け取った。
「猫…どうやら、お前の読みが当たったらしい」
一体何の話だ?と首を傾げるルト。
「ジルベールの奴と討ち合ってみたが、奴は左からしか討ってこねー」
白猫はにまにまと不気味な笑みで、魔術の鎖に囚われたジルベールに視線をうつす。
「鎖の魔術ですにゃね……むふふっ、何か倒錯的にゃ……」
「……男に使ってもなぁー」
キファークはルトから受け取った大きな袋の中から、薄紅の実を取り出し一口食べる。甘い果汁を飲み込むと、前回と同じように濡れた唇を右の袖口で拭った。
「ルト…手を出せ」
言われるがままに両手を差し出したルトの掌へ、食べ残した果実を握り潰し、その果汁を落とした。濡れた手は、甘い香りと果汁でベタベタである。
「多少はマシだろ……どの程度の効果があるかは知らんがな」
「……あの、アルカに聞きましたが、本当にこれで大丈夫なんですか?」
「さあな、もしこれで駄目なら、お前もあいつも、俺が責任を持って斬ってやる」
「……選ぶのはルトちゃんだよー。アルカ達は強制しないにゃ」
ルトが拒否しても死ぬのはジルベールただ1人、失敗しても自分という死体が増えるだけだ。そう思うと少し楽になった。
「……やる!」
ルトは荷物と共に運んできたひと振りの枝を手に、ジルベールの方へ近づいて行く。
キファークの操った鎖がジルベールの身体を地に押し倒すと、鎖はジルベールの首に、上体に、足に巻き付き、その身を大地に縫い付けた。
ルトが鎖で大地に縛られ、身動きの取れないジルベールの傍ら立ち見下ろすと、それは憎悪の込められた視線でルトを捉え、敵意をむき出しにするのだった。
親しい筈の騎士から向けられた悪意に怯みそうになると、見守っていた愛猫が傍へと歩みよりちょこんと横に座った。
「ルトちゃん…それはジルぢゃないよ…」
「……うん……わかってる」
これは竜禍、病んだ竜がルトへ向ける敵意であって、ジルベールの意思ではない。
息を吐き出し、その傍らに両膝をつくと、黒い悪意が靄となってルトへ手を伸ばした。小枝を親指に挟んだまま柏手を打つ。
―――パンッ!
と、大きな音を中心として、森に澄んだ気が広がった。
黒い靄が立ち消えた事を確認すると、小枝を手にしたままジルベールの身体に添えて、瞼を落として瞑想する。
「告げる――我、終天を憂い癒す者なり」
ルトの祈祷歌に合わせるように、小枝から溢れた光がジルベールの身体を包みこんだ。直後、ジルベールが光に焼かれる様に苦しみ悶え、その口からは竜禍の唸り声がもれる。
「――神は我のうちにいまし、汝の子らを癒したまえ……ジルベールの魂に……」
ルトは薄っすらと瞳を開くと、ジルベールの口から漏れ出る竜禍の呻きに刹那憂いを向ける。
「……竜に癒しを」
一言付け加えたような祈祷歌を終えると、うす暗くなった森の中で、淡い輝きが辺りを包み、ジルベールの身体に吸い込まれるように消えていった。
その様子を見て、キファークはジルベールを捕えていた鎖を解く。
横たわる茶色い瞳の中に、いつもの優しい光が戻ると、その手が見下ろすルトの頬に触れた。囁くような小さな声が「ルト」と名を呼ぶと、少年は泣き笑う様な面持ちでジルベールの上へと倒れ込んだ。
ジルベールは灰白の頭をしっかり胸に抱きとめる。
安心したように眠る少年の寝息が耳に心地よかった。
眠ってしまったルトをジルベールに任せたキファークは、薄紅の果実と小枝を手に木のウロへ向かった。横をトテトテついてくる白猫の鈴石がリーンリーンと音を奏でる。
日が傾いた所為だろう。ウロに溜まった黒い魔素溜りからは、靄がふわふわと空へ手を伸ばそうとしていた。日が沈めば、闇に紛れたそれらが一行を蝕むだろう。
キファークが構築した魔術で、辺りの木々ごと一帯を焼き尽くす。
「……これで俺も打ち止めだぞ」
もう魔力は残っていない。今不測の事態が起こっても、対処することは能わない。
「うん…お疲れ様ー。あとはそれを挿して終わりだよ」
魔素溜りができていた場所に、持ってきた桃の小枝を挿す。ついでに周囲に、余った夜宵花の種を蒔いておいた。地中に流れていたであろう水の流れは、あらかじめキファークが魔術で流れを変えてある。
「桃の挿し木は難しいからにゃー。これで上手くいくといんだけど…」
ルトの手から加護の癒しを経由した小枝には、既に小さな蕾が膨らんでいる。
「保険にこれ埋めとくにゃ」
食べ終わったらしき桃の種を土に埋めた。
「まあ、あとは報告しておけば問題ないだろう」
「そだにゃー…夜宵花の方はすぐに芽が出るだろうし、もう帰るにゃ」
竜禍が消えた所為か、圧迫するようだった森の雰囲気は涼やかな夜の森へと変貌している。ジルベールが待つ場所へ戻る頃には、夜の帳と共に急激に気温が下がり始めた。
「……ひとつ問題がある」
「何にゃ?」
「坊主は起きない」
「夢の中にゃねー」
「加えて、夜になり気温が下がりだした」
「寒いにゃー」
キファークとジルベールが手にしているのは、己の武器のみ。
他の荷物はトライクに積んだままなので、火を起こす術は魔術しかない。
「ジルベールと俺は魔力不足だ」
「……すまない」
竜禍に浸食されていたジルベールは、大分と身体が動く様にはなったものの、夜の森を果樹園まで行くには不十分だった。
山の夜は寒い。体力に自信はあるが、毛布一枚もないのはさすがに厳しい。
「……で、だ。麓の村へ帰ろうと思うんだが」
キファークの提案はもっともだが、吊り橋はルトが落としてしまった。
キファークは胸元から細い革ひもを引っ張りだすと、その先の笛を手にして見せた。
「…ジルベール。もう使っても問題ないな?」
「……ええ、竜禍の危険は去った。ティタ神殿騎士、ジルベールの名に於いて使用を許可します」
ジルベールの言葉を受け、キファークが笛を鳴らと、ピィィィィと高音がアルカの耳をつんざいた。
「うにゃぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「どうした?アルカ」
「ぞわっとする。めっちゃぞわっとする」
毛を逆立てた白猫が、耳を押さえて蹲った。
「はははっ、白猫の耳には聞こえるんだな」
「……何?今の??」
今に解るというキファークの言葉通り、数分の後に木々を揺らす風が吹くと、羽音と共に大きな影が舞い降りてきた。二本の脚には鋭い爪が、腕の替わりに蝙蝠の様な巨大な翼、そして長い首の先には蜥蜴のような頭。竜の亜種、翼竜だ。
「相棒のフィロだ」
翼竜は主人に答える様にひと鳴きする。
キファークが呼んだのは、彼の使役獣だった。




