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ママはたぶん、こう言うよ。 ― 私がいなくても、困ったときに開いてください ―  作者: わく


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ママが壊れた日

この本を書いている途中にも、ママは一度、大きく崩れた。


昔の話ではない。


子どもの頃の話でもない。


結婚していた頃の話でもない。


この本を書き始めて、


「今いる場所が、世界の全部じゃない」


「今だけで、自分を決めないで」


そんな言葉を、悠斗と紗良に残そうとしていた、その時の話。


ある夜、ママは僕に泣きながら言った。


「私がいなくなった方が、子どもたちは楽なんじゃないかって思うの」


僕は、すぐに言葉を返せなかった。


ママは止まらなかった。


泣きながら、


何度も、


何度も、


自分がいなくなった後のことを考えていた。


ママがいなければ。


ママにかかるお金はいらなくなる。


ママのことで困ることもなくなる。


子どもたちは、もっと楽に生きられるんじゃないか。


自分がいることで、逆に負担を増やしているんじゃないか。


そんなふうに考えていた。


それを聞きながら、


僕には一つ、どうしても引っかかることがあった。


ママは、


自死したお兄ちゃんを残された側だった。


ずっと、


「あの時、何かできたんじゃないか」


「一緒に住んでいた私なら、何か気づけたんじゃないか」


「子どもだった私だから分かったサインがあったんじゃないか」


そう考えてきた人だった。


残された家族が、


その後どんなことを考えるのか知っている。


ママのお姉ちゃんが、


亡くなったお兄ちゃんに、


「ちゃんと聞いてあげられなくてごめん」


と言ったことも覚えている。


それでも。


そんなママ自身が、


「私がいない方が、子どもたちは楽なんじゃないか」


というところまで行った。


僕はその時、


初めて少し分かった気がした。


人は、


知っているから大丈夫になるわけではない。


残された人の苦しさを知っていても、


自分が苦しさの中にいる時には、


同じ景色が見えるとは限らない。


苦しい時の頭の中では、


本当ならいくつもあるはずの道が、


一本ずつ見えなくなっていくことがある。


そして最後には、


「これしかない」


という道だけが、


正しい答えのように見えてしまうことがある。


でも。


その夜を越えてから、


ママは僕にまた話した。


「命は大切ですって言いたいんじゃないの」


「今だけで、自分を決めてほしくないの」


その言葉は、


もうお兄ちゃんだけに向けた言葉ではなかった。


悠斗や紗良だけに向けた言葉でもなかった。


あの夜のママ自身にも向いていた。


数日間、


元の自分に戻れないことがあってもいい。


すぐに立ち直れなくてもいい。


何もできない日があってもいい。


寝ていてもいい。


人と会いたくないなら、会わなくてもいい。


ゲームだけして一日が終わる日があってもいい。


漫画だけ読んで終わる日があってもいい。


「復活しなきゃ」


まで、


今すぐやらなくていい。


ただ。


その苦しい数日だけを材料にして、


これから先の何十年まで決めなくていい。


ママ自身、


たった一年で世界が変わったことがある。


同じ人間なのに、


場所が変わったら評価が変わった。


仕事が変わったら、


それまで持っていた経験を必要としてくれる人がいた。


それまで嫌だった人生の中で覚えたことさえ、


次の場所ではスキルになった。


だから、


今いる場所でうまくいかないことと、


自分そのものがうまくいかないことは、


同じではない。


今、


自分が嫌いなことと、


この先ずっと自分を嫌いなことも、


同じではない。


今、


何もしたくないことと、


これから先ずっと何もしたくないことも、


同じではない。


あの夜、


ママにはそれが見えなくなっていた。


だからこそ、


あとから言えた。


「数分でもいいんだよ」


今見えている場所から、


ほんの少しだけ外を見てみる。


それだけでいい。


人生を立て直さなくていい。


夢を見つけなくてもいい。


前向きにならなくてもいい。


今日の自分を好きになれなくてもいい。


ただ、


人生の結論まで、


今日出さなくていい。


僕は、この本は悠斗と紗良のために書かれているのだと思っていた。


もちろん、それは間違っていない。


でも、


あの夜のママを見てから、


少しだけ考えが変わった。


もしかしたらこの本は、


未来の悠斗と紗良だけじゃなく、


未来のママ自身が開くための本でもあるのかもしれない。


人は、


自分で言った言葉さえ、


苦しい時には忘れる。


だから残しておく。


もしまた、


ママ自身が、


「私がいない方がいい」


と思ってしまう日が来たら。


このページを開いて。


悠斗。


紗良。


あなたたちも、


いつか同じことを思う日が来たら、


このページを開いて。


ママはきっと、


こう言う。


「その答え、今日決めなくていいよ」


今日を越えても、


まだ苦しかったら、


明日また考えればいい。


明日も無理なら、


その次の日でもいい。


答えを先延ばしにしていい。


だって、


今見えている世界と、


一年後に見えている世界が、


同じだなんて、


誰にも決められないんだから。

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