第6話:静かなる引き揚げ(キャピタル・フライト)
深夜、財務卿執務室。ルナは、古びた一冊の経済録を捲っていた。
そこには、数十年前に魔法文明を震撼させた伝説の相場師、**ゼノス・ゴールドウィン**の軌跡が記されている。
かつて、魔晶石バブルが絶頂を極め、猫も杓子も「石を買えば一生安泰」と狂奔していた時代。
ゼノスだけは、市場が熱狂に沸く中で一人冷淡に全資産を売り払い、逆に暴落に賭ける「空売り」を仕掛けた。
「……大衆が『愛』や『希望』を語り始めた時こそ、市場が死ぬ時である」
ゼノスが残したその言葉は、今まさに、無能な王太子と愛人が支配するこの国の惨状を予言しているようだった。
ルナは本を閉じ、静かにバルトを呼び寄せた。
「バルト。グラウス公爵家が王国内に保有する不動産、および魔力結晶の先物権利。……これらすべてを、分割して『外貨』に換えておきなさい」
「……よろしいのですか? これほどの規模の資産を動かせば、市場が勘付きます」
「構いませんわ。数週間に分けて、小規模な商会をいくつも経由させなさい。行き先はすべて、ヴォルテール帝国の『中央銀行』へ」
それは、経済用語で言うところの**「キャピタル・フライト(資本逃避)」**。
一国の屋台骨を支える公爵家が、自国の将来を見限り、資産を他国へ逃がす――。
それは事実上の、ルナによる**「経済的な宣戦布告」**の準備だった。
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同じ頃、フェルディナントとコレットは、ルナが必死に守り続けていた「国の信用」という堤防を、無邪気に突き崩していた。
「ねえ、フェルディナント様。わたくし、閃きましたわ!」
コレットは、新調したドレスを翻し、豪華な地図を広げた。
「魔力結晶の採掘量を増やすために、高価な魔導機械を導入するなんてやめましょう? 採掘場には、民衆の皆様に集まっていただいて『愛の祈り』を捧げてもらうのです。……真心があれば、結晶だってきっとたくさん生えてくるはずですわ!」
「おお、それは素晴らしい! 機械なんて冷たいものを買う予算が浮くし、民の信心も深まる。コレット、君は本当に経済の天才だね!」
彼らが「予算を浮かせる」ために一方的に破棄した、帝国機械ギルドとの導入契約。
そこには、王国の年間予算にも匹敵する巨額の**違約金**が設定されていたが、二人の頭の中に「契約書」という概念は存在しなかった。
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数日後、報告に上がったルナに、フェルディナントは鼻で笑って答えた。
「機械ギルドへの違約金? 放っておけ。愛の祈りで結晶が増えれば、そんな小銭、すぐに払えるようになる。……それともルナ、君はコレットの真心を疑うのか?」
「…………」
ルナは、何も答えなかった。
かつての彼女なら、血を吐く思いで他所の予算を削り、私財を投じてこの窮地を救っていただろう。
だが、今の彼女の胸にあるのは、おじい様イライザから授かった「損切り」の覚悟。
そして、ゼノス・ゴールドウィンのような「冷徹な撤退」の意志だけだ。
「バルト。この請求書、そのままにしておきなさい。……期限が来たら、帝国の法務局へ直接回るように手配を」
「……王国の『信用』が、完全に死にますが」
「ええ。……価値のないものに投資を続けるのは、罪ですもの」
ルナは、窓の外を眺めた。
王宮の庭では、フェルディナントとコレットが、新しい「祈りの神殿」の計画を立てて笑い合っている。
伝説の相場師ゼノスの理論を、世界で最も正確に理解しているのは、皮肉にもこの国で見捨てられようとしている財務卿の姫だった。




